宮台真司氏のメディア・インタビュー「放送研究と調査」から
不思議とピタリ
少々前の記事になるが(2004年6月)、NHK放送文化研究所が出している「放送研究と調査」に、社会学者宮台真司氏のメディア評が出ている。
宮台氏といえば、「ブルセラ」(もはや誰も口にしない言葉になったが・・・)。「援助交際」という言葉が流行っていたころ、女子高生の気持ちを分析、表現するにはこの人しかいない、と言われていた。
インタビュー記事の紹介の前に、私が宮台氏に取材したときの話を付け加えたい。1990年代半ば、私はある新聞で教育を担当していたが、神戸の小学生殺人事件が起き、何度か連載記事を企画・執筆した。この時、インタビューした人の一人が宮台氏だった。
あるテレビ局の喫茶店で待ち合わせしたが、時間になっても、なかなか、宮台氏は現れない。カメラマンと一緒に、右往左往して、30分。ふと、再度喫茶店内に目をやると、氏が既に来ていて、ひっそりと本を読んでいた。あまりにも風景の中に溶け込んでいた氏の姿を、見つけることができなかった私の完全なミスだった。
約束の1時間の中で、既に30分が過ぎていた。氏に近づき、声をかけると、一瞬(むりもないが)きっとした表情になったが、「時間がないので、急いでしゃべります」といって、立て板に水を流すようにして、しゃべりだした。(質問事項は既に送ってあったものの、彼なりの神戸事件の見事な分析だった。)
私は、聞くだけで精一杯。非常に頭の回転が早い人だな、というのが印象だった。こっちが一歩足を踏み出したときには、相手は100歩先を行っている。
取材が終わり、写真撮影となった。外に出て、簡単なポーズを取ってもらうと、気さくで、人懐こい表情になったのを、覚えている。
さて、記事そのものだが、宮台氏は、インタビューの中で、日本には必要な情報が十分に行き渡っていない、と指摘している。
イギリスから日本を見ると、情報が遮断されているような、非常に不思議な思いがすることが度々ある。自分自身、何故なのか?を考え続けてきたが、このインタビューが、一つの答えを示しているように思う。
以下は、「社会変容とメディア」という題の記事の引用・抜粋です。
―世界及び日本の動き、それを伝えているメディアについて、どんな感想を?
適正な判断をするのに必要な情報が十分に国民に行き渡っているとは言えないし、メディアが負っている責任は非常に大きいと思いますね。
例えば、今回、イラクで起きた人質事件に関してバッシングが起こりました。今回の一連の動きとメディアの関係を見てみますと、ファルージャでアメリカ人4人が殺害された事件では、アメリカ政府は「残酷だから載せるな」という口実でメディアを規制しようとしたけれども、ニューヨークタイムズなどの主要メディアは、映像と写真を載せました。これがメディアの役割です。残酷だから載せないわけじゃなくて、必要な情報であれば、残酷であっても知らせることを公器としての責務とする場面もあるのです。
しかし、日本では逆に、人質事件の限られた情報の中で、情報管理を含めたバイアスのかかった情報によって形成されたリアリティを背景にして、ご存知のような人質バッシングとなりました。
(中略)
―今回の日本人の反応そのものについてはどう見るか
これは別に今始まった話じゃないわけですが、現在の日本の閉塞状況の中で、先行き不透明あるいは不安感のよってくるところがよく分からない社会になると、人は、どうしてもバッシングの対象を見つけ、自らを確かめたがるということがありますよね。
(中略)
―メディアの影響力は大きく、人々はメディアを通して社会を認識し、メディアによって組織化されると言われている。
メディアを通して知る以外に社会を知る方法がないのですから、仕方ありません。(中略)
・・メディアの政治利用を目論む人たち、とりわけ時の政権は、自らの延命を図るためにどうしてもマルティプル・リアリティーズ(注:いろいろな現実、現実は1つでなく複数あるとする考え)のうちの一部のみが国民の目に触れるようにし、ほかのものは目に触れないように気を使うわけです。(中略)。しかし、それは国民を一定の方向に誘導する情報の管理、操作ということになる。したがって、それに乗らない為には、可能な限り全てが見られるように努力することが重要です。「残虐だ」あるいは「いや、この残虐をあえて見るべし」という主張もある。だったら、編集された映像も、それ以前の映像も見られるようにする。(中略)各自が何がリアルなのかを自分で構成してもらうしかないんです。
逆に言えば、メディアが「これがリアリティだ」と提示したとしても、それは「これがリアリティだとわれわれは考えます」ということに過ぎない、それを明示すべきです。
(中略)別の入り口・出口を持った別のメディアからすると、全く別のセンス、別のムード、別の空気がそこからあふれ出てくるということがありうるということを前提にして送り出す。見る側も受け取る。そういうような成熟した感受性を身につける必要があるということです。
日本では残念ながらオルタナティブな情報に触れようと思っても、それなりのスキルと意欲と時間を持つ者以外は、例えばネットを通じてオルタナティブな情報にアクセスできるもの以外は、非常に難しいんです。
(中略)
―メディア・リテラシーといったメディアの受け手側の問題も関わってくる。
そのとおりです。しかし、それは育てなければいけないんです。学校教育という意味ではなくて、メディアに触れる体質そのものがラーニング、学習のプロセスなんです。
最も良いのは、さっき言った様に多様なリアリティーを一覧できるということです。
Aというリアリティに触れると、「なるほど、そうか」と思う。Bに触れると「え?こっちのほうがもっともらしい」。Cに触れると、「いや、AもBもやっぱり違う。Cが本当らしい」、そういう風にして、見るにつけ聞くにつけ心が揺れる。「どれが真実なんだろうか」あるいは「私はどれにコミットするべきなんだろうか」ということについて迷う。こういう経験がまさに学習のプロセスを構成する。日本の場合、それがなさすぎるわけです。
さらに受け取る側で言うと、その情報を見る見方ですね。伝えられたものだけでなく、伝えられていないものの意味を読み解いていくことが重要になるわけです。
そのためにも、多様なリアリティにアクセスし、自ら判断するように心がける、あるいは、自ら判断することができるように、お互いの私人間・市民間のコミュニケーションを活発にしていく、これしかないわけですね。
国民あるいは市民から見ると、それは入り口あってのものなんです。現にそういう多様なリアリティーが入ってこないと、あるいはそれにアクセスできるような入り口が開かれていないと、適確な判断は無理なんです。
(続く。)