オランダ イスラム映画「フィトナ」公開
オランダの国会議員、ヘールト・ウイルダース氏の反コーラン映画「フィトナ」が昨日、オランダのウエブサイトで公開・放映された。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/7317506.stm
早速見てみた。コーランの教えの一部を紹介しながら、テロで亡くなったり傷ついた人、首を切られた人、ユダヤ人に対する憎しみを教えるクリップをつなげる。オランダや欧州でイスラム教徒が増えて行き、映画監督が殺され、ゲイが攻撃されるクリップも出る。イスラム教徒の恐怖がオランダに押し寄せる新聞記事が紹介される。最初と最後に、デンマークのムハンマド風刺画(ターバンに爆弾がついている)が出る。
幻想的な音楽に乗って、静かにメッセージが繰り返される。最後はコーランを破くシーンもある(これには後で仕掛けがあると分かるのだが)。
おそらく、イスラム教徒の人にとっては不快だろう。しかし、いわゆる、表現の自由の範囲内だと思った。もっと気持ち悪いのもウエブ上ではたくさんあるだろう。ただ、国会議員が何故?とも思うけれども。アーチストだったらな、と。
Geert Wilders で探すといろいろ出てくるが、映画とフォックスニュースのインタビューは以下。
http://www.liveleak.com/view?i=7d9_1206624103
http://jp.youtube.com/watch?v=j0jUuzdfqfc
フォックステレビのインタビューは1月頃に行なわれた模様で、2部構成になっていてかなり長い。聞いていると、信念があってやっていることが分かる。私がオランダで聞いたムスリムの教師の話や、ムスリムに殺された映画監督の友人やリベラル派教授の言っていることと重なってくるのが不思議だった。
つまり、習慣や価値観(+宗教)の異なる人々が、移民としてオランダにやってきて、多文化社会という言い方がよくされるけれども、こういう人たちとどうやって生きるのか、という問いがある。大雑把な言い方だが、オランダは多文化・異なる価値観の尊重・維持・奨励策を取ってきたようだ。ところが、本当にそれでいいのだろうか。相手の価値観が自分と価値観とは相当に違い、オランダ社会の自由さを変えるところまできていたとしたら、本当にそれでいいのか、と。この点から、「国会議員だからこそやった」ことにもなるのだろう。
ウイルダース議員は、「イスラム教の教えそのものがおかしい」と異議申し立てをしている。「何かがおかしいと思っても、それを指摘してはいけないというタブーがある」と。
この映画でパキスタンやイランでもし何らかの反応があったとしても、それは本当はあまり重要ではなく、真の(アイデアの)闘いは欧州だろうし、オランダ内で模索が続く。他国での反応は本質的な問題ではないだろう。
ウイルダース氏映画の画面を開くと、右横に推奨された動画がいくつも並ぶ。その中の一つに、米国に住むイスラム教徒の女性の声があった。イスラム教の名前をかたり、テロを起こす人に怒っている。こういう本当の声、素朴な声はなかなか英国のメインメディアには登場しない。
英国でテレビ離れとか新聞離れが起きるのは、作っている人の頭が「議題を設定して視聴者・読者に流す」形式に凝り固まっているせいもあるかもしれない。見ている方の知りたい・見たいことと、作る側が提供する「知りたいだろう・見たいだろうこと+知るべき、見るべきと思うこと」が一致しないのだ。ネットに人が流れるのは自然なのだろう。
〈さらに追記)
29日の時事報道で
「反イスラム映画を非難=表現の自由は争点にならず-国連総長
【ニューヨーク28日時事】国連の潘基文事務総長は28日、オランダの極右政党党首がイスラム教批判の短編映画を公開したことを受けて声明を発表し、映画は「不快なほど反イスラム的」であり、「最大限の表現で非難する」と述べた。文明間の融和を訴え続けてきた潘事務総長だけに、強い調子の非難声明となった。
潘事務総長はこの中で、「偏見に満ちた発言や暴力の扇動は決して正当化できない」と批判。さらに「表現の自由は問題にならない。自由は常に社会的責任を伴うべきだ」と指摘し、「真の断層はイスラム教徒と欧米社会の間ではなく、敵意と対立をあおることに関心を寄せる双方の少数過激派の間にある」と強調した。
[ 3月29日7時0分 更新 ]
何となく、「ズレているなあ」という思いを強くした。欧州内では、作品そのもは「たいしたことなかった」というのが一般的なのに・・・。