英新聞の新しい生き方
といっても、将来像は本当にまだまだおぼろげだが、とにかく今までの既存概念をまず忘れることらしい。それには、「紙で印刷しなければならない」という考えを、まず一旦、捨てる。紙でもう印刷しないのではなくて、「・・・なければならない」と考えることをやめる。
それから、「新聞の求人広告が減っている。利益が出ないよ、どうしよう」と嘆いてばかりいることも、やめる。
ネットでニュースを出すことは続けるとして、オンライン広告のやり方に工夫する。ありとあらゆるテクノロジー、アイデアを総動員する。
放送局のネット上でのオンデマンド放送が拡大していくから、新聞社もこれに(お金があれば)対抗し、サイトで動画(といっても映画、番組といえるほどにある程度長いものも)を出すことにも工夫する。放送局と新聞社はライバルだ。
できうる限りのコストカット。これは必要な人材を切るのではなくて、ロンドンの中心地に大きなビルを建て、これに何十人もの人材を置いておくのではなく、できるところはアウトソーシングする。一つの場所に物理的に人を集めながら、設備投資大のままで、新聞業をやろうとするモデルを疑ってみること。「会社」という大きな組織を維持したいのか、あるいはジャーナリズムのコンテンツを出したいのか?心を決める。
そして、これまでのような形の、あるいはスリム化した・アウトソーシング化した新聞社であっても、新聞の販売費や広告費だけで新聞業を成り立たせる、という考え方を捨てる。
新聞は非営利組織のようなビジネスとして生き延びる。社会のために役立つ、重要な位置を役割を持つという認識の下、紙での発行部数は少ないが、良質なジャーナリズムを生み出すビジネス=新聞業とする。値段も安売りにせず、一定の購読料や販売料を払って、人々が読む。コンテンツの多くはネットで広く展開する。
少数の良質なコンテンツを紙で出す生みだす存在として新聞業が存在すれば、「小さくてもきらりと光る」存在として永遠に生き残るのではないか?――というのは、私がそう信じているというよりも、ちらほら、さまざまな英メディアの報道で目にするようになったのだ。
高品質のニュースコンテンツを出すビジネスとしての新聞業の存在は、2006年ごろ、エコノミストが「瀕死の新聞」という特集をやった時、書いていた。
1日付のガーディアンのロン・グリーンスレード氏がブログでほぼ同様のことを書いているし、〔注:前に書いたアドレスが違っていました。正しいのを入れておきます。)
http://blogs.guardian.co.uk/greenslade/2008/07/memo_to_journalists_dont_be_de.html
先日の「フロントラインクラブ」のイベントでもアウトソーシングなどが言われていたことだった。出席者の一人だった、ピーター・ケーワン氏のコラム+イベントでの発言が、まさにこの線だった。
http://blogs.pressgazette.co.uk/mediamoney/2008/06/25/the-future-of-media-lightweight-post-industrial-and-technology-driven/
新聞業ばかりがピンチではない。既存放送業も、何でも安くできるサービスが進んで苦しんでいる。
例えば、テレグラフのイアン・ダグラス氏のブログを読むと、
http://blogs.telegraph.co.uk/Ian_Douglas
このイベントはストリーム放送され、自宅でも視聴可能だったが、この「放送」がすべて無料のサービスで行われたことを書いている。
いろいろなことがどんどん変わっていて、みんなが「どうしたら?」と考えつつの毎日だ。
しかし、いわゆる紙の新聞業が小さくなった時、おもしろいブログやサイトが乱立するようになった時、国民の総意というか、民主主義の総意というか、そういうものはどうなるのかな?とも思う。
リンカン大学で放送法を教えるシルビア・ハーベイ教授が言っていたのだけれど、「もうBBCを見ないからと言って、自分はBBC受信料を払わない、という人がいる。自分は民放しかみないから、と。しかし、それは、自分はほとんど病院に行かないから毎月の保険料を払わない、というのに似ている。BBCは英社会の、民主主義の、文化のバックボーンだ。テレビライセンス料は民主主義のための費用なのだ」と。
まだまだ議論が続く。