小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

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カテゴリ:日本関連( 112 )

 「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 第3回目:【実名報道を考える】「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか

 第4回目:【実名報道を考える】「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」を 英米報道の現場とは

 第5回目:【実名報道を考える】私たち一人一人が「パブリック」を構成している 「お客さん」ではない

 最終回は、メディアスクラムについてどうするべきかと、澤氏がこのテーマで「気になっていること」をうかがった。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

―メディアスクラムについて。実名報道を嫌う人たちの大きな理由の1つとして、実名が出ることによって、被害者やその遺族にメディアが過剰取材をするから、ということがありました。筆者からすると、それも「オープンで自由な社会」がもたらす、痛みの1つと見えるのですが、これを一体どうすればいいのでしょう。メディアに対する不信感が高まりすぎることを、私はとても心配しています。何も信じられなくなる社会になることが心配です。

 メディアスクラムについて、過剰で無思慮な取材の仕方がなされることは大問題で、改善の努力を続けていかなければならないと思います。

 ただかりに匿名報道の記事であっても、報道記事である以上、取材をしないで書くわけではありません。取材は尽くすが、匿名で報じるというだけで、取材の必要さは実名報道だろうが匿名だろうが同じです。できるだけ、当事者に当たって取材しなければなりません。

 警察が事実と違うことを言っている可能性もあるし、勘違いしている可能性もある。警察がうっかり見落とした大切な事実を、被害者など関係者は知っているかも知れない。実名報道しない場合でも、これらの取材は必要になります。そのためにはどうしても記者が何らかの形でコミュニケーションをすることになります。ここを省くと「当局の言うことの鵜呑み報道」になってしまいます。

 実際には「鵜呑み」の報道は確かにあって、あまり大きい記事にならないようなもの、あるいは関係者の取材が困難なものの場合は当局の情報に基づいて「警察によると」というベースで報じることは珍しくありません。これはこれで大きな問題なのですが、これを改善するとなると、結局やはり直接取材を励行するということになります。

しっかりした取材や調査が基本

 取材していない一方的情報だらけにならないようにするには、報道の際に匿名化するにしても、しっかり取材し調査をするしかないのです。そのやり方があまりにも乱暴だったり、当事者が嫌な思いをすることを続けたりするメディアスクラムをどう防ぐか、ということは本当に重要なことで、報道に携わる者挙げて取り組む必要があります。

 ただこれも難しい面はあり、取材拒否なのだからだれも近寄ってはならない、という規制をしていいのかどうか。もしこれが徹底されていたら、1999年に大学生猪野詩織さんが殺害された埼玉県桶川ストーカー殺人事件で「警察がストーカー捜査を怠ったがために被害者が殺されてしまった」という最も重大な事実は明らかにならなかった可能性が高いと思います。

 この不祥事を突き止めたのは写真週刊誌フォーカスの清水潔記者で、ご遺族は事件直後、あまりのメディアの報道のひどさに取材を拒否していましたが、清水記者が友人に真摯に取材し、ご遺族にも取材を申し込んで、信頼関係を少しずつ築いて調査を進めたことが「桶川ストーカー殺人事件~遺言」という本に記されています。

 取材拒否は無視して良いという意味では決してありません。むしろこの事件の報道側の反省点とし、これからもずっと覚えておくべきだと思います。しかし同時に「一切接触は禁止」など一律で考える余地がない基準をつくれば、意義重大な取材までも同時に取り除かれてしまうのではないかと思います。

 ところで、警察が実名情報を一切出さなければ取材を抑え込むことがある程度は可能になります。でも、警察が容疑者や被害者の実名を公式発表しなくても取材の中で分かることは珍しくありません。さらにはニセ情報も出回ります。捜査当局が実名情報を明らかにしないということは、ニセ情報をニセだと否定することも困難になるということです。ニセ情報をニセだと言い始めると、警察がニセだと言わない情報については本当だと発表したのと実質的に同じになってしまうからです。

 そしてなにより、刑事手続きはどの国でも公開性が高度に求められます。透明性が欠け人々の目が届かなくなると危険この上ないのです。その基本事項を発表しなくなることは「警察にお任せし、市民はいちいち詮索しない」という態勢にすることです。

 詮索というとちょっと意地悪なニュアンスがありますが、英語で「パブリック・スクルーティニー」いう表現がありますよね。情報公開、情報開示を示す場合もあります。スクルーティニーは英和辞書では「調査」や「吟味」という訳語が当てられますが、この言葉には同時に、詮索したりじろじろのぞき込んだりというニュアンスが結構強くあります。市民みんなでのぞき込み、ああでもないこうでもないと詮索、検証する。監視をするのはまさに「民」つまりパブリックであって、「詮索」的な視線でじろじろのぞき込むという感覚です。

 それにしても、おっしゃるように情報やコミュニケーションがオープンで自由な社会では「嫌な思いをさせるリスクゼロ」は実現できません。犯罪被害者や遺族に無理矢理取材するなどあってはならないと思いますが、ただ、「取材を受ける気持ちがあるかどうかを礼儀正しく尋ね、丁寧にお願いをする」こと自体はどうしても回避しがたく必要なことだと考えています。話したい人もいますし、記者の真意や趣旨、人柄を見極めるうちに話したくなる人もいます。しかし、それも嫌だという人は当然いるでしょう。

 これは、少なくとも取材に応じる気持ちがおありかどうかを尋ねることを前提にする限り、必ず発生する問題です。コミュニケーションにゼロリスクはありません。

 どういう人であれ記者は一切近寄ってはならない、という厳格な抑制をしてコミュニケーション自体をなくしてしまえば、記者と出会うことで嫌な思いをする人はゼロになります。そうすればメディアによって傷ついた人の声を聞くこともなく、世の中は平穏になるでしょう。それも一つの判断です。被害者遺族とメディアの間に立つ、例えば被害者支援弁護士や警察の人の中には、取材トラブルが起きて「完全シャットアウトをしなかったからだ」と非難されるリスクを意識する人もいるかも知れません。

 私自身は、オープンな社会で、多くの人が話したり意見を求めたりしてさまざまな声が出てくることを促すことが民主主義に欠かせないと思っています。事件報道が警察や加害者側のバージョンの話だけで成り立つことになってしまうのも良くないと思います。しかし、それ以上に平穏や秩序を重んじ、そのために取材や報道を抑制するという大変保守的な考え方が強まっていることは感じています。

報道の意味を理解してもらう試み

 最初から言いたい気持ちがはっきりとあって、行動する勇気もある人の話だけを伝えるべきだとなると、あまり大きな声をお持ちでない方、話そうかどうしようか、怖いからやめておこうかとお思いの方、子どもの頃から人前で話すのは苦手だという方、そんな方の声は届きにくくなります。そうならないよう、むしろあまり声の大きくない方にこそ報道の意味を理解してくださるよう求め、お話しして下さるよう促すのも記者の仕事の重要な部分です。

 そんな方のそばにいてくれる被害者代理人の弁護士が仲立ちになるというのも一つの方法ですが、被害者代理人の本来の責務は被害者や遺族の利益が守られること。その見地から、メディアで発言するというのはハイリスクすぎると判断される方も当然いらっしゃると思います。実際、それによって周囲のハラスメントやネットの侮辱的書き込みが誘発されるリスクは否定できません。だから、発言はやめるべきだという助言をすることは、その限りでは被害者や遺族のためになる判断なのかもしれません。

 記者は人々に「話して下さいませんか、それによって世の中は良くなると思います」とお願いするのが仕事なのですが、それによって当事者の方にとってなにか良いことがあるとは言えません。

 証言が集まったり、支援が集まったりすることはあり得ますが、報道はそれだけを目的にするものではありません。私たちに言えることは、世の中の人は話を聞いて議論を始め、こんなことが起きないように仕組みを作ろうと思うだろうし、それで世の中が少しずつ変わるのです--ということだけだと思います。今大変な目に遭っている被害者や遺族の方にただちに良いことがあるわけでも何でもないかもしれません。でもどうか「メンバー・オブ・ザ・パブリック」として話していただけませんか、というのが記者の仕事です。

 「当事者の利益」を代理する立場と、社会に情報を共有する立場と、ここがなかなかかみ合わないこと、おわかり頂けますでしょうか。

 ただ、立場が違うことは良く踏まえた上で、それでもエリートが一般市民に「社会に意見を言うなんてやめておいたほうが良いのでは」ということがどういうインパクトを持つか、もう少々考えてみたいと思うのです。

―最後に、このトピックについて、当方がカバーしていない論点、感想がありましたら、おっしゃってください。

 実名報道に伴う痛みは非常に深刻でありかつ明確に指摘することが可能なものが多くあります。逆に、実名情報のメリットは多くの場合、直ちに実感できるものではなく、実名情報を取り除いた場合に直ちに文脈が崩壊したり、意味を全くなさなくなったりというものでもありません。「なくてもなんとかなる」と受け止められるものです。

 基礎的な公共情報の共有と言ったところでいかにも観念的ですし、歴史の記録だと言っても「そんなものが何の役に立つのか」と思われるのがふつうかも知れません。実際には「匿名でも伝えられる」のではなく「匿名でも伝えられることもある」にすぎないのですが、「何が得られなかったかを知る」のは難しいものです。

 マスコミはネット以前、長年にわたって情報流通の要の座にあって、ジャーナリズムは重要で意義のある役割を果たしてきたと思っています。メディア批判、不満は紙メディアしかない時代であってもオルタナティブな雑誌やミニコミで活発に展開されていましたが、量的にも限られていたし、何よりある程度の議論のルールに則っていました。

 今のように直接、乱暴な言葉遣いのものも含めてSNS経由でどんどんぶつかってくるというのは報道関係者にとって史上初めての経験といって良いと思います。そこから学べることもとても多いのですが、一方で「いくら何でもそりゃあないだろう」というものもたくさんあります。

 報道機関で一定以上の世代の方とお話ししていると、これに戸惑って「あまり批判が来ない時代」の再来を求め、そうなるために「怒られることをしない」シフトを考えているフシがあるように感じています。実名報道でいえば、匿名の幅を増やしたり「私たちも配慮している」とアピールしたりです。

 私としては、「歴史を克明に記録する」というジャーナリズムの原理原則に反してまでそんなことをしても、かえって原理原則に対する態度のユルさを印象づけるだけで、「結局信念などないのではないか」「不真面目だ」と、むしろ非難の根拠を与えてもおかしくないように思います。

 日本では、メディアによる権力監視が不十分だとみる人が他国より多く、8割が「その役割を果たしていない」と考えていることは既に述べました。実際には森友・加計問題や「桜を見る会」、関西電力金品受領問題などの成果もあって、誤解に基づくところも多いとは思います。

 ただ、実名匿名でいうと、事件事故や災害の被害者報道では原理原則を堅く守る一方で、それ以外の報道で「なぜこれが匿名なのか」と思うようなものが多くなっていることが「マスコミは強い者に弱いのでは?」という疑念の源泉にもなっているように思います。

 「何となく匿名」みたいな空気が報道現場にあふれていないか、気になっています。

 信頼を得るには、優等生めいた振る舞いになることではなく、あくまでアグレッシブに書いていくことのほうが大切ではないかと感じています。それにより非常に蔑まれることもあるかもしれません。でも、マスコミがチヤホヤされようとしてはいけない、そんなことを求めることは職業人としておかしいと再確認する必要があるように思うのです。

 いわば「行儀の良さ」を追求し、トラブルを消去しようとする「縮小均衡」的な対応ではなく、よい報道成果と闘う姿勢で存在価値を感じていただくしかないのではないかと思っています。(終)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。

***

筆者記事:

【#実名報道】「オオカミの餌」にされても受け入れるイギリス市民 日本との違いは? 1月20日付

【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も 1月23日付


by polimediauk | 2020-04-10 16:07 | 日本関連

「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 第3回目:【実名報道を考える】「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか

 第4回目:【実名報道を考える】「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」を 英米報道の現場とは

 今回は、実名報道に関連して、「公(おおやけ)」の意味について、澤氏に聞いてみた。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

***

公の場での議論を土台とする、英社会

 ―少し広い視点での質問です。筆者は、実名・匿名報道で、2つの論点において、もやもやしたものを感じています。なかなか、うまく表現できないのですが。そのうちの1つは、「実名」と「公・パブリック」の考え方です。筆者が住むイギリスでは実名原則ですが、社会の一人一人の構成員が公正に扱われ、オープンな場で裁かれる・議論されることを土台とした社会の成り立ちがあるようです。この流れで、実名報道=歴史の記録の1つ、という考え方があるように感じています。日本では、この「パブリックのため」、あるいは「議論の公的空間」という意識がイギリスとはまた違うような気がしています。「人の気持ちを傷つけない」ことを非常に重要視する社会が日本であるようです。何かご感想があれば、お願いいたします。

 この「パブリック」に関する考え方は市民と社会との関わりに大きく関係していると思います。市民が何を担うのか、ということでもあります。ところがパブリックという概念がうまく日本では取り入れられていないように感じています。

 パブリックは日本語では「公(おおやけ)」「公共」などと訳されます。そこで「パブリック・ドキュメント」をそのまま「公の文書」「公共文書」と訳したら、官庁など政府機関の文書という意味合いが非常に強く出ないでしょうか。

 パブリック・ドキュメントは官庁の文書という以前に「公共公開の文書」「誰でも読めるように扱われている文書」という意味合いが非常に強いですよね。政府の文書という意味合いを出したいときは「オフィシャル・ドキュメント」という方が良いと思います。「公共機関」という日本語も自治体や政府というニュアンスが強く出ます。

 でも、英語のpublicはピープルと関係が深い言葉で、市民みんな、という感覚ではないでしょうか。だから公開とか共有とか、そういう意味に使われるのだと思います。そして、私たち一人一人もまたパブリックの一員です。

 日本語の新聞記事で「人が倒れているのを通行人が見つけ、110番した」というときの「通行人が」というのは、英語の新聞記事だとしばしば「a member of the public」と表現されています。パブリックの一員だから、みんなのために行動するという感じが出ますよね。これが「滅私奉公」になるのが封建社会の発想ですが、民主主義であればこれは「自治と参加」の根幹となることだと思います。

「パブリック」をめぐる、「官」と「民」の関係

 パブリックを日本式に「官」のニュアンスで受け止めれば、私たちは自分自身をパブリックの一員とは思わないのではないでしょうか。そういう公共のことをするのは「官」であって「民」ではない、という空気が日本には濃く流れているように思えてなりません。

 「民」は公共のものごとを担う側ではなく「お客さん」。お客さんだから、政治や行政に「苦情」はいろいろ言うけど、じゃあ自分で何かやってみよう、自分で変えるアイデアと行動にとりくもうという発想もなかなか生まれにくいのかもしれません。あるいは、「そんな立場じゃないから意見も差し挟まない」だったり…。となると、英語ではa member of the publicだったはずが日本では「しもじも」みたいに思えてきます。

 私たち自身こそ公共、だから社会のルール制定者や運営者の一部だという意識は、日本においてはなかなか希薄だと思います。誰もが少しずつ公人であって、それは望むか望まないかと関係ないことも多々あると思います。何か公共的、社会的な出来事や場面にたまたま自分の意思と関係なくかかわることも、人生の中で当然あります。私たちは誰もが言葉本来の意味で「社会人」、つまり社会と政治の運営・参加者だと思います。

 そう思ったときに、人は誰もがオープンな社会に責任を持って参加するものであって、それは基本的には公的に実名でなされるものだと思うのです。ただ、これは多くの場面でとても酷なことだし、負担の大きいことでもあるとも思います。

 自分だったら嫌だということと、しかし社会の仕組みや在り方としてそうある必要があるということとは、相当程度にわたって両立します。「当事者の希望どおりにすることが、社会制度として良好なものになる」とはいいきれないでしょう。

 目立たずに生きたいひとはそうすべきだ、それぞれの幸せだ、というのも一つの真理かも知れないのですが、私はそれをあまり強く言うことにはいささか抵抗があります。

 意見を言ったり意見を求められたり、そんなにして目立つ必要はない、それが配慮だという発想に陥ると、本来の民主主義の在り方から逸脱し、「お上」まかせのパターナリズム(親心による庇護の関係)、エリート主義、お任せ主義に堕していく危険を感じるのです。

「世の中の人はだいたい信用できる」に同意した人の比率が極端に低い日本

 名乗って社会で行動するということは、他の人に見られ、知られるということですが、それが怖い気はします。私自身も他人に知られざる人生を送る、いわば匿名人生の心地よさは感じます。でもこれも日本的な「他の市民への不信、恐れ」かもしれません。総務省の調査(2018年版情報通信白書)で「世の中の人はだいたい信用できる」という考えに「そう思う」と答えた人は、アメリカ、ドイツ、イギリスともだいたい18~20%程度です。ところが日本だけは2・8%なんですよ。

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「2018年版情報通信白書」166ページより)

 他の人が信じられない、つまり何されるか分からない、そんな社会に実名で出るのは怖いと思いますよね。他の人との相互信頼とかコミュニケーションが薄い感じです。実際、日本ではバスや地下鉄に乗って人にぶつかったりしても何にも言わない人も多いです。知らない他人に注意を促すときにやたら怒ったような言い方をする、困っている人がいてもみんな知らんぷり、なども日本の怖い、嫌なところだと思います。

 ニューヨークの地下鉄駅でちょっと困った顔をしていたら誰かしら声を掛けてくれるし、普通のコンビニみたいなお店やバスの中で見ず知らずの人が「そのカバンいいね」「あんたのジャケット素敵だね」と言ってくるなんてのはよくあることです。電車に乗っているとホームレスのおじさんが「私はホームレス、非常に厳しい人生を懸命に生きている」といってカンパを求めて回り、お金を出す人は普通にいます。市民同士、声を掛け合って生きている感じがあります。

「現場や被害者のことを見ないようにする」配慮が行き着く先は

 日本だと、駅や電車内で犯罪被害などトラブルが起きたら市民同士声を掛け合って、つまりメンバー・オブ・ザ・パブリックの行動をするというよりも、むしろ「係の人」を呼ぶと思います。

 もちろん、係の人はどこの国であっても結局呼ばなければなりませんが、それにしても一般市民はしゃしゃり出ない方向なら、現場や被害者のことを見ない、知らないようにするほうが良い配慮かも知れませんね。それも善意から出ていることは全く確かだし、それこそが「匿名報道」の思想かもしれません。

 他の市民が信頼できる、ということにならないと、市民みんなでものごとを決める民主主義の仕組みより、立派な「係の人」にお任せするエリート主義のほうが信頼できるということになりはしないかと思います。裁判の公開をはじめ、情報をオープンにすること、オープンに議論することも、もちろん報道でいろんな情報を共有することも意味は乏しくなってしまうでしょう。

 日本の報道倫理の議論の特徴は、取材先や記事に出てくる人に「迷惑を掛けていないか」がそうとう強く問われることです。

 英語圏だと「市民により良い情報をきちんと提供出来ているか」が重視されるのに対し、日本では情報が公表される過程で傷つく人が出ることを非常に重大にとらえる。誠実さの一つの形だとは思いますが、「市民が情報を得ること」が比較的に重視されないわけでもあります。情報を「知られる」という意識と、情報を「知る」意識のバランスーーいってしまえば「一般市民もナマ情報を知り、だから議論・検証できる」という主権者意識とのバランスが他国と違うのではないかという気もします。一般市民にナマ情報がなくても、お上が首尾良くやってくれる安心感があるのではないでしょうか。

 これは、民主主義になじんでいるかどうかということと深くつながるように思います。「文化の違い」ですませるにはいささか重すぎるように感じます。(続く)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。


by polimediauk | 2020-04-09 17:19 | 日本関連


米小学校の射殺事件の犠牲者の名前を1面に掲載した米紙(BuzzFeedより))

 「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 第3回目:【実名報道を考える】「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか

 今回は、英米のジャーナリズムを間近に経験された澤氏に、日本のジャーナリズムが目指すべき姿を聞いてみた。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

―実名報道について、報道機関側はその意義を主張するのに対し、一部の国民の間ではこれに反発する見方が広がっています。この「溝」をどうしたらいいのか。解決策をどのように見ていらっしゃいますか。

 何に対する解決かにもよるとは思うのですが、ジャーナリストと「世論」との意識の違いが完全になくなるということはなかなか望みづらいと思います。前述したように、どんな仕事でも仕事なりの見方や取り組み方があり、それはすべての人に直感的に受け入れてもらえることばかりではないのではないでしょうか。

 メディアスクラムやあまりに無礼な取材の仕方など、当然反省し改善しなければならないことは改めなければなりません。これは大前提だとは思います。かといって「ご本人が希望する取材や報道だけをする」「ご本人が納得することしか書かない」ということを本来の目的とするわけにはいかないのが報道の役割です。ご本人の希望や納得のために行うのは広報や宣伝の役割であり、広報や宣伝ももちろん社会的意義のある仕事ですが、報道とはまた別です。

 報道となると、第一の目的としては「社会に大きな関心を持たれ、情報の共有や、社会史への記録が必要と思われること」を報じるしかありません。それが、報じられる当事者の方々からみた要望や希望と常に一致するものとはいえません。これは報道側にとっていわば「責務と、目の前の当事者との板挟み」になることです。非常につらいのですが、ここはそのように整理するほかないとおもいます。

 ただ、理屈で「これこれしかじかだから実名が必要なのだ」と述べても説得力はあまりないと思います。これを読んで下さっている方にも、理屈ばかり述べたところであんまり響かないのではないだろうかと思いながら答えています。

 いま一番大切なのは「意義あるよい報道」をきちんとしていくことなのではないでしょうか。

「権力監視」についての認識がかけ離れている

(ロイタージャーナリズム研究所リポートから)
(ロイタージャーナリズム研究所リポートから)

 英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所の2019年「デジタルニュースレポート」によると、日本の記者が、報道の仕事について「政治指導者を監視し検証することが重要だ」と考える割合は9割を超え比較した世界17か国で最も高いのです。これが読者視聴者となると「報道メディアは力ある人やビジネスを監視、検証している」とみる比率は17%。12か国中最低です。記者と世間の「権力監視」についての認識がかけ離れる結果です。

 記者の自己評価の方は「こうすべきだ」であって「こうできていると思っている」ではないので、「記者が思うほど世間は評価していない」と単純に言ってはならない統計だと思いますし、こういう仕事(「汚れた桜 「桜を見る会」疑惑に迫った49日」)に懸命に取り組んでいることを考えればメディアへの誤解もあるとは思いますが、それにしても評価の低さは深刻だし、私自身つらいです。

必要な「戦闘的ジャーナリズム」

 これを考えると、今必要なのは「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」なのだと思います。

 実名匿名でいえば、地域社会で公的役割を負う人、公的責任がある人や、社会問題に責任を負う者の実名をなぜか控えてしまっているケースがないかどうか…私は非常に気になっています。

 役所の不祥事発表などの場合、当局が個人名を隠してしまって取材側ではハッキリとは分からない場合が少なくなく、「分かっているのにことさらに匿名報道した」のか「分からないから匿名にせざるを得ない」のかが読者から区別できないというのが混乱に拍車を掛けています。

 英米の場合「当局は名前を明らかにしていない」「匿名を条件に情報提供した」など、匿名にせざるを得ない理由を記事内に書くことで「原則として実名で書く」ことを読者に説明しています。実名情報を出す理由の説明ではなく、です。

 批判的に報道された実名情報が不当な攻撃や偏見を呼ばないかという懸念もあり得ますが、情報を悪用して偏見を煽る読者がいたとすればその行為自体が問題として厳しく問われるべきです。でも読者、視聴者の方々は殆どのかたがきちんとしていて、情報をもとに真面目な議論をすると思います。そういう前提でなければそもそもニュースを出すこと自体が無意味ですし、さらには民主主義だって市民の判断力を信頼しているからこそ成立するのではないでしょうか。

 報道側にとって大切なのは、公共性ある事項の社会的な背景を踏まえ、予断を持たずに取材を尽くし、言い分もフェアに報じることであって、情報を隠すことではないように思います。

―イギリスのロイタージャーナリズム研究所で勉強され、アメリカでは特派員として仕事をされましたね。英米のジャーナリズムでは、実名報道について、どんな感じだったのでしょう?もし何か印象深いことがあれば、ご教示ください。なぜ、実名報道が受け入れられているのでしょう?

 私がイギリスの報道を調べるため現地に留学したのは2006-07年です。

 当時大きく報道されたのは、イプスウィッチという東部の街で5人の若い女性が次々に遺体で見つかった事件でした。そしてこの女性たちは全員、売春をして生活をしていたのです。

 警察が女性たちの身元を特定すると実名がすぐに報道され、顔写真も大きく掲載され続けました。彼女たちが売春婦であることもです。彼女たちの人となりや経歴も、家族や友人が彼女たちを悼む声も詳細に報じられました。下品だと言われる大衆紙だけでなく、タイムズやガーディアンという高級紙、BBCまでも、日本の事件報道よりもずっと詳細で大きな報道を彼女たちの実名とともに続けたという強い印象が今も残っています。

 ただ、日本の報道パターンと異なり、たとえば薬物と売春の関係、社会問題にも絡めた報道も多く、英国社会の「新参者」であった私にも、その問題について多くを知ることができました。

 日本の場合、事件報道の「王道」は捜査スジつまり捜査の成り行きに収斂しがちです。もちろん捜査が進んでたとえば容疑者が逮捕されるなどということがあれば英国でも大ニュースになるのは同じですが、捜査以外の社会的背景の記事も面白く大量に出ていて、いろいろ学ぶことができたように思います。

 印象的なのは「昔なら、こういう仕事をしている女性が殺されるのは、そうでない仕事の女性が殺されるよりも大問題といえない-というような議論があったかも知れない。今はそれは許されない」という識者の意見を記事で読んだことです。彼女たちが売春婦であったことは事件の重要な部分であり、そこを一般市民に知らせないとかごまかすとか、ウラでだけ話すべきことだという態度を英国のメディアはとりませんでした。もちろん彼女たちの名前も隠しません。しかし、彼女たちを不当に低く見るようなことはおかしいという意見を紹介したのでした。こうしたイギリスの報道の在り方は今も変わりないようです。

米小学校での射殺事件で、ニューヨーク・タイムズは1面に犠牲者の名前を掲載した

 アメリカの場合も同様で、私が在米中に起きた小学校の銃乱射事件のことは特に印象的でした。コネティカット州のサンディフックという小学校に20歳のアダム・ランザという男が侵入し、6歳と7歳の子どもたち20人を含む26人を学校内で射殺しました。アメリカでは乱射事件が繰り返されますが、子どもが学校でこのように多数犠牲になるという意味でこの事件は最悪の乱射事件の一つだと思います。

  事件を伝えるニューヨーク・タイムズはこの犠牲者の名前を一面に並べました。それも大きな黒地に白抜きの表です。

米ニューヨーク・タイムズの1面(Buzzfeedのサイトより)
米ニューヨーク・タイムズの1面(Buzzfeedのサイトより)

 

 同じ社会に暮らす仲間の市民を悼む--そう私は感じました。新聞の読者に勝手に追悼されても意味がないという考え方もあるかも知れません。

 でも、社会は民と民のつながりです。社会は英語だとソサエティですが、英語のこの言葉は社交や交友の意味を多分に含みますよね。いろんな人と付き合う、あるいは飲みづきあいすることもまた「ソーシャライズ」ともいいます。だから福沢諭吉は「ソサエティ」に「人間交際」という訳語をつくったんです。

「普通の人が意見を求められ、意見を言う」こと

 社会とは人と人のつながりなのに、民と民がつながらず官やエリートに「お任せ」していたら民主主義は空洞化し、世の中の「声」は起こりません。ヨコつながりができるからボランティアやチャリティも生まれます。より安全な社会にするため、この被害者、遺族たちと話し合って法律を変えようという機運も強まるでしょう。それをやるのが「民」だと思います。もっとも、市民の声にもかかわらず米国の銃規制は遅々として進みませんが…。

 サンディフック小学校乱射事件で殺された1人、エミリー・パーカーさん(6)の父親、ロビー・パーカーさんは事件直後、すさまじい数のメディアが殺到する中で意見を述べました。その映像は今もユーチューブのCNN公式チャンネルで見られます。Father of school shooting victim 'blessed to be her dad

これを見て私は非常にショックを受けました。この話し方はいわば公の場で意見を訴えるパブリック・スピーキングのスタイルです。

 日本だと、こんな風に話す機会は学校の弁論大会を別にすれば、政治家や官僚、偉い人たち、あるいは市民運動家とか「話し慣れた人たち」のするものだという思い込みはなかったでしょうか。私にはありました。

 でも、こうやって普通の人が意見を求められ、意見を言う。それは政治家や官僚だけのことでなく、普通の人こそ真ん前に出てきて堂々と話す。仲間の市民もそれを尊重し勇気をたたえ、自分も議論を始める。そういうことなのかと、衝撃を受けました。

 ジャーナリストは偉い人を追っかけてもいますが、一方で「普通の人の小さな声」こそ大切にすべきだと言われます。それなのに、私の中に「普通の人がみんなの前で意見をスピーチすることはあんまりない」という思い込みがあったのに気付かされました。

 そういう思い込みがあったから、これを見てショックを受けたんですね。それは私にとって強い反省になりました。(続く)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。

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筆者記事:

【#実名報道】「オオカミの餌」にされても受け入れるイギリス市民 日本との違いは? 1月20日付

【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も 1月23日付


by polimediauk | 2020-04-08 20:35 | 日本関連


ロンドンのウォータールー駅構内は公共空間の1つ(撮影筆者)

 「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 今回は、匿名志向の背後にある考え方、これまでの教育、そして当局と報道機関との緊張関係、リークの意味について聞いてみた。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

「出るくいは打たれる」という空気

―日本での実名・匿名報道の議論について、普段から思っていらっしゃることをお聞かせ願えますか

 日本の「出るくいは打たれる」空気は非常に大きな影響を与えていると思います。注目を浴びたり、目立ったりは特別なこと、危険で怖いこと、攻撃を受けることだと感じる人は少なくないのではないでしょうか。私自身もそういう感覚はあります。

 教育の過程で「意見を言う」「思ったことを言う」ことが十分に推奨されず、「おとなしく聞いている」ことのほうが安心な教室になっているのではないかと思います。英国、米国など英語圏では「ショウ・アンド・テル」(見せて語る)という授業が小学校低学年などで広く行われているんだそうですね。何かをみんなの前で説明し、質疑もあるとか。

 「これは真似したい!欧米では定番の“Show and Tell”って知ってる?」

 パブリックスピーキングは出来て当たり前? アメリカの学校における取り組み

BBCの子供番組「ラブ・モンスター」の「ショー・アンド・テル」の画面(BBCのウェブサイトから)
BBCの子供番組「ラブ・モンスター」の「ショー・アンド・テル」の画面(BBCのウェブサイトから)

 パブリック・スピーキング(公共公開の場でみんなに話すこと)に子どもの頃から慣れていくのだと思います。民主主義の主権者として意見を考え意見を言う訓練は、とてもすばらしいと思います。記者として赴任した米国では本当に街角取材が楽で、政治、社会問題についてほぼ誰でも実名OKでどんどん語ってくれます。それにはこんな基礎があるのでしょう。

 どんな子も一人一人みんなの前で自分の意見を言う、つらい目に遭ったことを表明した子はブレイブ(勇敢)でありヒーローである、というようなことは日本ではどうなんでしょう。少なくとも私の子ども時代は、目立たず、はみださず、それが安全安心--という学校でした。もっとも私はお調子者で、当時でいう「目立とう精神」がある例外的なヘンな子だったのですが…。

 今はどうなんでしょう。アクティブラーニングが取り入れられつつあるそうなので、意見を言ったり質問したりが活発化するといいと期待しています。

 それにしても、日本では名乗って話すという文化がとても弱いと感じています。講演会やシンポジウムで質問をする人も、英語圏だと「私の名前はジョン・スミスで、何々の仕事をしています。私の質問は…」と話し始める人が多いのに対し、日本では全く名乗らなかったり「一般のもので…」と言ったりというようなことがふつうの風景です。「属性で判断するから属性情報には価値があるが、誰々という一個人であることの価値はない」、そういう感じです。

 一個人であることの価値、一個人として認識することの意味が無いのなら、出る杭が打たれたり、目立って気恥ずかしい思いをするマイナス面のほうがずっと深刻です。名前を呼んだり知らせたりすることは「尊重」ではなく「攻撃」というのが、日本の匿名社会に流れる空気なんでしょうか…。

 だから、できごとを語るときも固有名詞を「某」にしてみたり、匿名、イニシャルにしてしまうことが「配慮ある語り方」「品格ある者の振る舞い」となるのかも知れません。

 例えば、明らかに槇原敬之さんの事件のことを論評しているのに、ことさらに「覚醒剤所持の罪で起訴された人気男性アーティストが…」と表現し、「槇原敬之さん」という名前を避けるというような具合です。明らかに槇原さんの個別ケースを指していて、書き手も読み手も槇原さんのことだと分かっていることが前提になっている文章でもです。それが何となく上品なしぐさであるかのような共通認識があります。

 あるいは、虐待関係だったと思うのですが、ある学会に取材を兼ねて出席したとき、米国からのゲストが米国で実際に起きた虐待事件のいくつかを紹介しました。パワーポイントを使い、加害者や被害者の名前、写真なども明示されたのですが、主催者の日本側学者はちょっと慌てたように「この個人情報などはここ限りで」と注意していた場面が印象的です。米国のゲストスピーカーはそんなことは一切求めていなかったのに、です。

―あるエピソードを思い出します。昨年、日本に一時帰国していたのですが、性被害者が体験を語る集会(「フラワーデモ」)がありまして、行ってきました。記録にしたいと思い、スマートフォンで写真を撮ろうとしたら、「ダメ、ダメ」「そっちから撮ってはダメ」と言われて、驚きました。被害者の顔を出さないようにという配慮からでしたが、公空間での集会でしたので撮影は自由なはずで、それが駄目であることを理解するのに時間がかかりました。被害者への配慮が悪いというのではもちろん、ありません。ただ、公空間での撮影が駄目ということがすぐには呑み込めなかったのです。

ロンドンのウォータールー駅構内を歩く人々。公共空間であり、撮影は自由だ(撮影筆者)
ロンドンのウォータールー駅構内を歩く人々。公共空間であり、撮影は自由だ(撮影筆者)

 

 実際、「公空間」など「パブリック」(公共公開の、みんなの)という概念が日本にはなかなか見当たらなかったり、あってもごく限定的だったりするように思います。

 米国であれば、報道された事件や公開裁判になった事件であれば加害者名や被害者名も「パブリック・インフォメーション」(公共公開情報)となり、隠す必要がないし、隠すのはおかしいという感覚があります。

 日本の場合は広く報道され公共公開情報となったような事件でも、名を呼ぼうとせず「千葉県野田市の10歳女児」という表現にこだわる人はいますし、とくに研究者や法律家の間に人名回避の傾向があるような印象を受けます。

 実際のところ、虐待を受け死亡した千葉県野田市の栗原心愛さん(当時10歳)、東京都目黒区の船戸結愛さん(当時5歳)の事件は広く報道され、関係者や関係官庁の人々をはじめ多くの市民の努力を生みだし、虐待防止法が強化されました。

 米国や英国は「メーガン法」など、法律制定の原動力になった市民の名を法律の略称にすることがありますから、彼の地ならこの改正虐待防止法は「心愛・結愛法」と名付けられたに違いないと思っています。

 日本では法律や制度を作ると言えば国会議員や官僚であって、心愛さんや結愛さんという幼い市民が社会を変えたと受け止めることは、あまりなじまない社会なのかも知れません。

―この問題で、当局側(警察・検察・政府、企業他)が情報を握っていることを問題視する指摘もあります。メディアは当局からの情報のアクセス権を維持したいので、当局の情報拡散・あるいは隠すことに翻弄されている、と。これはどんな状況なのでしょう?問題だと思われますか?(「なぜマスコミは実名報道にこだわるのか? メディアと社会との間にある意識のズレ 」- 佐々木 俊尚

 佐々木さんが書かれた当局とメディアの「情報闘争」については自分の実感と重なる部分も一部あります。記者が当局内に秘密情報源をつくって「密かに当局の動きを把握できる」状態に置くこと、そうすると当局は「メディアが何を知っているのか」掌握しきれずそこが不気味で、自制にもつながることは確かにそうだろうとおもいます。

 佐々木さんの記事では、当局に被害者の実名を含む事件事故や捜査内容の詳細を「公表」させようとすることと「情報闘争」との関係についてはあまり詳細に書かれていません。

 が、事件事故や捜査内容に関して実名を含む詳細情報が公開、公共の情報となることは、当局が情報をコントロールしている状態から市民が情報を持つ状態に切り替わることです。とくに実名など固有名詞情報は事案検証に不可欠な「タグ」となります。しかし、これが「公表」されなければ、記者に限らず、研究者にせよ社会運動をする人にせよ、「当局だけがもつ情報」を知るためには「厚意」や「リーク」に頼るほかありません。

リークの本来の意味とは

 なお「リーク」というと当局が都合の良いことを記者に流してメディアをコントロールする不公正な手法のように思われがちですが、それはどちらかというと「リーク」つまり情報漏洩じたいではなく、情報コントロール、英語で言うと「スピン」ではないでしょうか。そして、取材については佐々木さんが書かれた内容には現実味があり、逆に突然記者に声がかかり「良いことを教えてやろう」みたいなことが起きるわけではありません。

 最近ですと、東京高検の黒川弘務検事長が63歳の定年を超えて雇用が延長されたことが「官邸お気に入りの黒川氏を検察の中心に置くための特別扱い」と批判を受けた問題がありますが、この延長について、検察幹部会議で疑問の声が上がったという異例の事態が報じられました。こんな非公開会合の中身が出ることもリークの一種です。

 これも検察による官邸とのバトルの一環という見方はできますが、市民にとっては必要な情報が法の網をくぐって漏洩された意義は軽視できないと思います。

 どんな情報であれ、当局が秘密として独占する情報が多ければ多いほど、メディアにせよ研究者にせよ、市民と当局との力関係は平等ではなくなります。

 検証に不可欠なタグである「誰が」という基礎情報すら当局者に頭を下げ「厚意」や「リーク」に頼らないと得られないとなると「人間関係を良好にしておかねばならない」事態に陥ってしまいます。

 こうなると、かみつくべき時にかみつけないという危険も出てきます。そうならないように記者は訓練を受け、デスクから厳しく指導されますが、何事もパーフェクトにはいきません。

 ところで捜査当局の場合、通常「報道発表」というと新聞・通信・放送などのメディアに情報提供することをいうことが多いと思うのですが、ほんとうに「公表」「発表」という趣旨に沿うなら、社会全体に公表するのであって、メディアであれノンメディアであれ、市民の問い合わせに対し広く開示するのが本来の筋で、アメリカやイギリスの警察のように、被害者名を含め基礎的公表情報はウェブに掲載することもあるべき態度ではないかと思います。つまり情報を言葉通り「パブリック(みんなの、公共公開の)」にするということです。(続く)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。


by polimediauk | 2020-04-07 20:36 | 日本関連


新型コロナの犠牲者を実名と写真で報道する英ガーディアン紙


 新型コロナウイルスの感染が広がっている。英国ではレストラン、バーなどの飲食店、劇場、スポーツクラブなどが閉鎖され、不要不急の外出禁止令が出ている。

 4月に入り、感染による死者は3000人近くとなった。英ガーディアン紙はその中の30人ほどの人生を写真付きで紹介している。

 45歳で亡くなったクレイグ・ラストンさんはラグビーを愛する、二人の子供を持つ父親だった。仕事は靴のデザイナー。病状を書き留めていたラストンさんは、自分の葬式に妻と娘たちが立っている姿を頭に描き、こう書いた。「死を怖いとは思わない。だが、自分が亡くなったあとどうなるかと思うと、悲しくてたまらない」。ラストンさんは先月16日に亡くなった。

 享年78歳だったレオナード・ギブソンさんは、遺族によれば「典型的な、愉快なアイルランド人だった」。12人兄弟の一人として生まれたギブソンさんは英国北部サウス・ヨークシャー州の工場で働いた後、退職。ガーデニングが趣味だった。伝染性の新型コロナウィルスに感染したために、娘二人はギブソンさんの最期に立ち会うことができなかった。「父と一緒にいられなかったのは悲しい。でも、看護婦さんたちが私たちの代わりに見てくれた」と娘の一人、リサさんが語る。ギブソンさんは、同17日にこの世を去った。

 実名報道を基本とする英国らしい記事である。遺族にとって、こうした記事は追悼の意味を持つ。読者は一人ひとりの具体的な人生の物語を読むことによって、同じ人間として悲しみや共感を覚える。不意に愛する人の命を奪ってしまう新型コロナウィルスの恐ろしさが伝わってくる。

 英国同様、日本も実名報道が基本だが、このところ、これに対する批判をよく目にするようになった。匿名志向が広がっているという。

 メディア側は実名報道の意義を主張するが、国民の少なくとも一部はメディア側の説明に納得していないようだ。マスコミに対する不信感も透けて見える。

 今年1月、筆者は実名報道についての記事を執筆したが(最後に紹介)、今回は、この問題について豊富な経験と知識を持つ共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(取材当時)に現場の話を聞いてみた。

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。

 当方から澤氏にメールで質問事項を送り、頂いた回答が以下である。数回に分けて紹介したい。なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

***

匿名志向が生まれた背景とは

 ―日本は(英国や米国同様)、実名報道が原則ですね。昔は、本を買うと、後ろに著者の名前以外に住所、電話番号まで載っていた記憶があります。でも、今は、テレビ番組を見ると市民の顔や姿をぼかせて隠す例が多々ありますし、本の後ろの著者情報では名前だけが載るようになりました。個人情報をぼかす、あるいは載せないという現象が出てきたのは、いつ頃なのでしょう?きっかけはあるのでしょうか。

 こうした傾向が社会全体で一気に強まったのは、2003年につくられた「個人情報保護法」以後だと思います。当時、有名人や公人が年金を未納のままにしていた「年金未納問題」が議論になる中、福田康夫官房長官(後に首相)が納付状況を記者団に追及され「個人情報」と反論してかわそうとしたことが話題になりました。

 個人情報ではあります。同時に、しかし公共性が高い情報でもありますよね。公共情報でもあるのに「個人情報」と指摘すれば、他人は立ち入ってはいけない…そんな空気が一気に強まったと考えています。個人情報とプライバシーは全く別概念なのに、個人情報に関連することは「一般人が触れてはならない特殊情報」であるかのようなピリピリした雰囲気ができつつあります。

 それ以前から個人情報や実名に対する警戒感はありました。1970代から80年代にかけ、事件報道で容疑者の名前を匿名にするべきではないかという主張が起きるようになりました。

 犯罪に関わった疑いを持たれ、逮捕された容疑者が「自分は無実」と訴えたり、実際その後に不起訴や無罪になるなど有罪判決に至らないケースもかなりあります。それなのに、警察に摘発された段階で極悪人と決めつけたような報道をするのはおかしい--そういう批判が高まったのです。死刑確定後に再審無罪になったような事件でも、最初の逮捕段階の報道は、容疑者に対する激しい非難でした。

 こうした報道は社会に対し、容疑者や事件への見方をゆがめ、偏見を煽ってしまいます。また当事者にとっては、受けるべきでない非難を受けることになります。無実であれば堪えられないことでしょうし、仮に真犯人であっても許される度を超えた非難であることも多々あると思います。

 こうした報道によって容疑者が過大なダメージを受けないよう、有罪確定まで、あるいは起訴(検察官が、罰するよう求め刑事裁判を起こすこと)までは匿名にしようという主張です。

 ただ、本来の問題は、報道が警察の言うことを丸呑みしたり、あたかも犯人であることが最終確定したかのように扱ったり、かさにかかって容疑者を事実を超えてあしざまに描いたりすることです。

 犯人だという法的な判断が下されたわけではないことを踏まえ、しかし警察が疑いを持って捜査が進んでいるという事実はあり、そこを「より良く、より公正、正確に報道する」ことが求められるように思います。これは「容疑者の名前を報道しない」ことと直ちには結びつかないと私は考えています。

 容疑者を匿名にするという考え方は、社会にとっていい報道、記録といえるかということ以上に「本人の利益」に重点を置いた考え方といえるのではないかと私は見ています。でも「匿名にする」という手法は単純でわかりやすく、即効性がありそうです。容疑者を代弁する立場の弁護士さんたちなどにすれば、報道をもっと公正にうんぬんより「逮捕されたことを社会に知られない」ことは切実で現実的な価値が高いと受け止められるでしょう。

 70-80年代以後に高まったこれらの意見に対し、メディア界が真剣に反論したという印象が私にはありません。なぜ英語圏のメディアはニューヨーク・タイムズにせよBBCにせよ徹底的な実名報道をしているのかということを、この段階で考えたり悩んだりしておくべきだったのではないかと思うこともあります。

判例雑誌も匿名志向に

 90年代になると、こんどは法律家が使う「判例時報」「判例タイムス」などの判例雑誌が匿名になっていきます。かつては判決文の真正な中身、つまり実名も含めたものが掲載されていましたが、今はだいたいXとかYとか匿名化されています。いわば歴史的な判決を導き出した本人が見えなくされているといいますか…。

 英米の判例は原則全てスミス対ジョーンズとかアメリカ合衆国対ブラウンとか、原告・被告の実名をつけて呼ぶし、判例集も原則実名のまま掲載しています。一方、日本の今の弁護士さんや裁判官は匿名判例集で勉強するので、それがふつうに思えるのだと思います。日本式の匿名判例だと、裁判を闘って判例というルールを作ってくれた当事者の存在を想う機会は英米の法律家より乏しいかも知れませんね。日本でこういう匿名の判例集や法律書が増えてきたことが「事件を知るのに名前は不要」という発想を強化した可能性があります。

 でも、「事件の類型」や「裁判所の考え方」を知るには当事者名がなくてもある程度可能な場合もありますが、その前提になった個別の事実関係を直ちに信じることなく検証するとなると、固有名詞がなければ不可能です。冤罪検証で事件現場を訪れたり関係者の聞き取りをしたりすることが大切になるのはその典型です。

 2000年ごろには、犯罪被害者保護の流れの中で「被害者の匿名」という動きが強まります。被害者や遺族の権利が乏しく、時にメディアからも捜査機関からも問題ある対応を受けてきたことは深刻で、これは私も含めて強く反省しなければならないことであることは言うまでもありません。ただ、それとともに「被害者や遺族が希望しない限り、被害者の名前を社会に知らせない」という求めが強まりました。そこに、冒頭に述べた個人情報保護の波も加わったというのがあります。

「2ちゃんねる」と「匿名文化」の広がり

 もう一つ、日本において重要な要素があります。1995年ごろからインターネットが普及するのですが、2000年ごろに発達した巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」はネット上のコミュニケーションの在り方に大きな影響を与え、身元を隠して発言する「匿名文化」が広がりました。

 日本のツイッター利用者は75%が匿名で利用、英米では30%台という顕著な差が2014年の総務省調査で明らかになっています。英オックスフォード大ロイタージャーナリズム研究所の調査では、調査対象38カ国・地域のうち日本は唯一、実名原則のフェイスブックがツイッターやユーチューブより使われない国です。少なくともサイバー社会において、名前を明らかにして登場したり意見を言ったりということは、日本では特別な行為にみえるのかも知れません。

 一方、テレビの世界でもぼかしが多用されるようになっています。いつ頃から、という分析はテレビ報道界の方にゆだねたいと思いますが、路上やそこから見える建物の外観など、社会に生きる誰もが見られる前提になっているものを、テレビに映すときにはぼかすとか、あるいは通常の事件の目撃証言をする市民の顔をぼかしたり首から下だけを移したりというのは英米では考えにくいことです。こちらは、技術が発達し、狙ったターゲットにぼかしをかけることが簡単にできるようになったことが大きなきっかけではないかと聞いたことがあります。(続く)

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by polimediauk | 2020-04-03 15:04 | 日本関連

 「あいちトリエンナーレ2019」(10月中旬終了)の中の「表現の不自由展・その後」が中止そして再開という過程を経る中で、表現の自由についての論争が発生したが、筆者は普段国外に住んでいることもあって、議論の高まりや報道ぶりを「外から見る」だけとなっていた。

 7日、ハフィントンポスト・ジャパンが東京都内で表現の自由をテーマにしたイベントを開催すると知って、一時帰国前に早速申し込み、抽選に当選のお知らせいただいた後、早速足を運んでみた。

 イベントのタイトルは「ロバート・キャンベルさんと一緒に、200人で賛否両論のアート作品を見てみよう」であった。日本文学研究者のキャンベルさんは国文学研究資料館長で、メディアのインタビュー記事を何度か拝読している。

 ハフポスト編集長の竹下隆一郎さんは、よくテレビに出演していると家族が教えてくれた。

 「いったい、どんなアート作品を見ることができるのだろう」とワクワクしながら席についた。司会はハフィントンポストの南麻理江記者である。

「♯表現のこれから」

 早稲田大学のキャンパスの一角で行われたイベントは、ハフポストによる「♯表現のこれから」というプロジェクトの一環であるという。

 紹介されたスライドによれば、「『伝える』がバズるに負けている・・・『伝える』は誰かを傷つけ、『ヘイト』にもなり得る。どうすれば表現はより自由になるのか」を考える1つの機会でもあった。

 会場に竹下編集長、キャンベルさんが登場し、竹下さんは会場からの参加を呼び掛けた。キャンベルさんの声は穏やかで、心がときほぐれるような感じがした。久しぶりに綺麗な日本語の音を聞いたように思った。

 2人の発言内容は、ハフポスト上で詳しく報じられると思うので、ここでは筆者の印象を書いて見たい。ここでの筆者は、「普段は海外(英国)に住み、特にアートに造詣が深いわけではない一方で、歴史物やドキュメンタリーはよく見ている人物」である。

「2度見」とアート作品

 このイベントで行われた、「2度見」という行為を説明したい。一つの作品を一度見て、その作品について意見を交わしたり、情報を得たりして、その後でもう一度同じ作品を見る、そして見方がどう変わったのかを考える、それについて話してみるという行為である。

 竹下編集長によると、この2度見は「あいちトリエンナーレ2019」のキュレーター会田大也さんがよくやっていることだという(会田さん自身も、後でイベントに登場した)。

 いよいよ、アート作品鑑賞の時となった。

 会場内の大スクリーンに映し出されたのは、固定したカメラが撮影する、広島原爆ドーム周辺の様子だった。ドームの下の道を人々が歩く。わずかに会話の一部が聞こえる。えんじ色の帽子をかぶった、幼稚園か小学生ぐらいの子供達が一軍となって歩く様子も見える。ひたすら、遠くに聞こえる人々の会話をじっと聞きながらスクリーンを見ていた。カメラの前を鳥が時々、飛んでゆく。

 そのうち、ドームの上に広がる真っ青な空に、白い飛行機雲が描かれ出した。飛行機が何かを描こうとしていることがだんだんわかってゆく。最初は、丸、それから「ヒカ」。「ピカ」である。これで終わりかなと思ったら、その後、最後の文字を描こうとしているようだ。

 「ピカ・・・ソ?」・・いや、「ピカッ」であった。

 やっぱり・・・。ステレオタイプ的に見ていたのかもしれないが、広島原爆ドームが画面の中央にドーンと出た時、1945年8月の「あの日」を表しているに違いないと思った。私は、当時、生まれていなかった。でも、歴史物のドキュメンタリーで、何度も「その後」を見てきた。特に戦争物を追ってきたわけではないけれど、日本での学校の授業や報道、そして英国のドキュメンタリーフィルムの中によく出てくるから、忘れようとしても忘れられない。

 「あの日」も、こんな晴天で、青空が広がっていたのだろうか。ドームの下では、次の瞬間に何が起きるかも全くわからず、人々は生活をしていたのだろうか。

 カメラが固定されているから、目を背けることができず、「あの日」あるいは「あの時」と同じように、じっと数分を過ごすしかなかった。写真ではなくて、動画だからこそ、「時」を追体験せざるを得なかった。

 ドームの下の人々の会話や子供達の動きを見るのが、つらかった。自分が生まれてきた時から何十年も前の出来事が、リアルな迫力で迫ってきた。

 飛行機が描いた「ピカッ」という文字によって、作り手のメッセージがより強く伝わってきた。

 広島の人なら、そして日本人なら、「ピカッ」がなくても、市民から突然日常を奪った原爆の惨さがこの動画を見るだけでわかるだろうけれど、日本以外の国の人にメッセージを伝えるなら、ここまで強い表現にしないと伝わらないだろうなあとも思った。

 さて、「1度見」が終わり、会場内の参加者の意見を聞く段階となった。

記号としてのドーム?

 竹下編集長とキャンベルさんがマイクを片手に会場を歩く。参加者の数人に感想を聞いてゆく。「何を見ましたか。一言で言ってください」という問いかけだった。

 最初の数人の答えは、筆者の記憶によれば「鳥の動き」、「空」、「子供達」などであった。驚いてしまった

 というのも、画面の中央にドーンとあるのが広島の原爆ドームで、空も鳥も子供達もその周辺に存在しているので、「一言」と言われたら、まずは「原爆ドーム」という言葉が出てくるだろうと思ったからだ。もしかしたら、「何が心に残ったか」を参加者は述べていたのかもしれないが。

 筆者が考えたのは、「もしかしたら、日本に住む人にとっては、原爆ドームはあまりにも明らかに眼前にあるものなので、それをそのまま答えられない」のか、「中央に明らかにあるものよりは、他のことに目が行った」のか。

 一つの疑問が湧いた。「もしかして、原爆ドームという明らかに有名な物は視界に入らない・重要視されない」、つまり、「ドームは記号化してしまって、『一言』と言われた時にドームを名指しする必要さえ感じない」ことなのだろうか、と。あるいは、「あまりにも重要な存在なので、あえて名指しを避けた」のか?

 

 ただ、次々と参加者が感想を述べていくと、次第にドームの話も出るようになったが。

 

 イベントで鑑賞対象となったのは、アーティスト集団「Chim↑Pom(チン↑ポム)」が2008年に発表した作品「ヒロシマの空をピカッとさせる」だった。

 この作品は、Wikipediaの説明によると:

 

2008年10月、軽飛行機をチャーターして広島市の上空に飛行機雲で「ピカッ」という文字を5回描き、平和記念公園などからメンバーが撮影した。報道が過熱し謝罪会見にまで発展、予定されていた広島市現代美術館での展覧会が取り止めになった。2009年3月に、騒動を検証した本『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』を刊行、それに合わせて「広島!」展を開催し作品を発表した。制作意図を伝えた現在では被爆者らと交流があり、津波で流された額縁で制作した作品「Never Give Up」(2011年)を被爆者団体と共同制作した。

出典:Wikipedia

 イベントでは、原爆ドームの上空に飛行機雲で「ピカッ」と書いた作品が撮影の翌日に地元の中国新聞に掲載されたことが紹介された。新聞記事の見出しには、「広島上空 ピカッの文字」とあり、「市民『不気味だ』」という小見出しがついていた。

 竹下編集長が、イベントの司会役となった南記者にこの件について聞いてみた。南記者は広島出身である。子供の頃から平和教育を受けてきたという同記者は、広島市民への作品の衝撃や、アーティスト集団の創作意図に疑問を感じたことを話す。

 Chim↑Pomの一員である卯城竜太さんのインタビュー動画を試聴後、参加者は作品の2度見に向かった。

感想をグラフ化

 再度、原爆ドームが中央に置かれた作品を参加者全員で見た。

 事情がわかって見ても、固定カメラによる「一定の時間をドームとその周辺を見ながら、時を過ごす」ことのつらさ、数十年前の「あの日」への照り返しの苦しさは変わらず、むしろ強まったように思えた。

 でも、この「ピカッ」という文字表現が広島の市民にとっては「不快」であったことを、広島以外に住む私たちはどう受け止めたらいいのだろうか。アーティストはどうするべきだったのか。

 2度見の後、竹下編集長とキャンベルさんが再度、マイクを片手に会場内を回った。「前回と感想が同じ」という人が複数いた一方で、今度は原爆ドームや戦争の話、広島の人々への思いなどが多く語られたように筆者は記憶している。

 筆者は、この「広島市民の気持ちをどうするべきなのか」ということを、他の皆さんの感想を聞きながら考えていた。

 この作品の場合、「報道が過熱し謝罪会見にまで発展、予定されていた広島市現代美術館での展覧会が取り止めになった」経緯がある。あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」の展示が一時中止されたことも、記憶に新しい。さらには、慰安婦問題を正面から取り扱った映画「主戦場」が、予定されていた映画祭での上映をこれも一時中止されたという事件があった。

 「ヒロシマの空をピカッとさせる」は、強い発信力・批判力を持ったアート作品だと筆者は思った。発表当時、広島市民の少なくとも一部が不快に思ったとしても、制作し、発表する意義は十分にあったと思う。

 「誰かが不快に思うから」という理由だけで、アート作品を公開する・しないを決めるべきではない・・・・というのは筆者の独自の考えではなく、すでに一般常識になっている。この作品で地元市民が不快に感じるのは、それだけ原爆という存在が心身に深い意味を持つことを示すのだろうと思う。筆者は広島市民ではないので、想像だけになってしまうのだけれども。作品の意図が「挑発するだけが目的ではないのか」と感じる人がいるだろうことも想像できる。

 2度見後の参加者の感想の中で、言語化はされなかったけれども、「誰かを傷つけるようなことを表現するアートは、ありなのか」という疑問がくすぶっているように見えた。

 英国では、あくまで個人的に見聞きしただけの話になるが、「誰かを傷つけるアートはOKなのか」という問いはあまり大きな問題とはなっていないように思う。ただし、特定の人種や宗教の信者(例えばイスラム教徒)を攻撃するような場合、人種差別別禁止法や名誉毀損法など法律に抵触する場合は訴追される恐れがあるし、トピックによっては抗議デモが発生する。メディアでも叩かれる。

 

 どこまでがアートの限界なのか。これはもちろん、大きな問いであるし、筆者個人が一言で答えられるものではない。

 しかし、「誰かの感情を傷つけるから」ということがアート作品を制作しない、あるいは制作されても公表されない理由としては考えられていないと思う。

 

 会場には広島出身の方が何人かいらして、それぞれ感想を述べていたが、必ずしも否定的な見方ではなかったように記憶している。

 興味深かったことの1つは、1度見と2度見のときの感想がグラフ化されていたことだ。立命館大学情報理工学部の服部宏充研究室の方がバブルチャートにして可視化してくれたのである。言葉をピックアップして作るグラフだそうだ。

会場からの感想をグラフ化(撮影筆者)
会場からの感想をグラフ化(撮影筆者)

一つの結論にはしない

 参加者の様々な感想、キャンベルさんのインプット、会田さんのお話などが出たイベントには「自分が参加している」という実感があった。

 何よりも興味深かったのは、竹下編集長が「一つの結論にまとめる」という形にしなかったことだ。いろいろな見方があり、それはそれでいいのだというスタンスだった。

 最後に、「考えるヒント」として、イベントの終わりに配られたChim↑Pomの卯城さんのインタビューの書き取り文書から、一部を紹介しておきたい。

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 質問:作品が炎上したことについて、どう思いました?炎上は予想していましたか?

 卯城さんの答えの一部:「炎上」って最近の言葉だけど、アートが議論になってバッシングを受けたりするのは昔からあることなんですよね。では、なぜアーティストはそれでもそういう(際どい)ことをやるのか。そうなった(炎上した)時に、本当の「声」が出てくるからだと思うんですよ。

 質問:どういうことですか?

 卯城さん:僕ら社会に生きている人間には、沢山ありますよね?本当は言いたいのに言わないようにしていることとか、あるはずなのに無かったことにしていること。その「声」が出てくることで、新しく生まれる価値観や議論、常識があると思うんです。(後略。)

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by polimediauk | 2019-12-26 16:09 | 日本関連

 日本人が、宇宙旅行の初めての個人客になる!この驚きのニュースが発表されたのは、つい最近のことである。

 日本のファッション通販大手「ZOZOTOWN(ゾゾタウン)」を運営する「スタートトゥデイ」社の前澤友作社長が、電気自動車大手の米テスラ創業者イーロン・マスク氏が手掛ける宇宙ベンチャー「スペースX」と月旅行の契約を結んだという。

 スペースXの月旅行にZOZOの前沢氏 2023年計画 日経新聞

 

 筆者は、この画期的なニュースを当初BBCの報道で知ったが、17日にスペースXの本社(米カリフォルニア州ホーソーン)で行われたマスク氏と前澤氏の記者会見の様子を、広瀬隆雄氏のブログ記事で興味深く読んだ。

 ZOZO前澤友作Space X本社における英語のスピーチはなぜ100点満点?

 なぜ「興味深い」と思ったのかというと、広瀬氏が前澤社長のスピーチをほめていたからだ。

 ブログの中に紹介されている動画から、26分過ぎに出てくる社長のスピーチを筆者も視聴してみた。そして、感心してしまった。日本にいるビジネスピープル(男女)が、英語圏でスピーチをする際の良い例と思ったからだ。

 どのように優れているのかについては広瀬氏が書いているけれども、筆者が見たところでは

 *主旨がはっきりしている

 *わかりやすい

 *聴衆に語り掛けている

 *最後に動画や文字によるまとめを見せて、メッセージが記憶に残るようにしている

 点が特に良いように思った。

 広瀬氏は米国在住が長く、投資業務を仕事としている。ありとあらゆるアクセントの英語を聞きながら仕事をしてきた経験がある広瀬氏のお墨付きであるから、筆者には大変参考になった。

日本語のアクセント、どう評価する?

 その一方で、別の興味深い評価があった。

 前澤氏が世界初の月旅行へ。記者発表を見ながら考えた、アメリカ人とのビジネスで知っておいた方がいいこと

 ヤフー個人ニュースでの「同志」となる安部かすみ氏が、前澤社長のスピーチ、特にアクセントについて少々厳しい見方を示しているようである。

 以下は、一部の抜粋である。 

 会見について、2つ残念だった点がある。1つは前澤氏の英語のアクセントだ。あれだけの長い記者発表を英語で行ったことは、とてもすばらしい。だが、宇宙という壮大なトピックについての世界に向けた記者会見において、アメリカ人や英語ネイティブにとって「なじみのない英語、聞き取りにくい英語」だった。

 日本では、外国人がカタコトの日本語でスピーチをしようものなら、日本語習得がんばってと親近感がわくだろう。しかしアメリカでは事情が異なる。英語は話せて当たり前とされているため、一般的になじみのないカタコト英語をアメリカ人は「Bad English」として揶揄する傾向がある。本人にはもちろん直接言わないしメディアもそれについてわざわざ書かないが、「Bad Englishを話す人」と印象づけられるのはもったいない。

 ここで断っておくが、筆者は広瀬氏も安部氏も同様に尊敬している。それぞれ在米の方で、お二人の視点・分析には敬意を抱いている。

 今回、お二人は同じスピーチについて、やや異なる感想を持ったようだ。広瀬氏の方はプレゼンテーションの仕方も含めてスピーチを好意的に評価し、安部氏は負の面に注目して、「こうしたほうがいい」とアドバイスしている。

 広瀬氏、安部氏の両方の評価を紹介したが、筆者が改めてこのエントリーを書こうと思ったのには、理由がある。

 例えば、今現在、日本で多くのビジネスピープル(以前は「ビジネスマン」で良かったが、今は男女どちらの場合もあるのでこの言葉を使っている)を含む様々な方が英語を勉強しているに違いない。この中で「海外、特に英語圏で英語でスピーチをするとき、日本語アクセントはどう受け止められるのか?」と知りたく思ったり、なかなか日本語アクセントが抜けない人は「自分はまだまだ、ダメなんだ」と思ったりする人がいるかもしれない(相当数かもしれない)。

 そこで、筆者は英語の専門家ではないけれども、ロンドンに住んで仕事や生活圏で英語を使い、時々は英語でスピーチをしたこともある経験から、何かヒントになるようなことを記すことができれば、と思ったのである。

ロンドン在住者から見て、気づいたこと

 気づいたことを、幾つか挙げてみたい。

 *「英語圏」と言っても、どの国・都市かそして誰が聞き手かによって、アクセントの評価が異なる可能性がある(例えば、アメリカでは出身国のアクセントがある英語を話せば、「Bad Englishを話す人」としてくくられてしまう傾向が強いのだろうか?)。

 *人種、出身国、貧富や教育の差、そのほかの社会的背景などが異なる人々に囲まれて生活するロンドンにいる場合、人種や出身国に由来するアクセントは、話の中身の判断という面からはほとんど問題視されない。この点は、声を大にして言っておきたい。  

 *上の項目に関連するが、ロンドンの場合、誰しもがそれぞれのアクセントで話すのが普通。理論ではなく、現実がそうなっている

 *「標準英語」と言われる発音(例えば「Received Pronunciation」=容認発音)で話す人は、英国の人口全体のほんの数パーセントと言われている。

 ただし、英国では発音・アクセントに人々が鈍感なわけではない。「口を開けば、その人の社会的背景が分かる」と言われ、どんな言葉を使って何をどんな風に話すかについては、かなり敏感だ。例えば、少し前になるが、知性に欠けている英語を話す人として、ある著名サッカー選手がよく笑いものにされたものだ。

 大勢の人の前で話す、スピーチの場合はどうか?

 ここでは、前澤社長のように、「公式の場で」「一定の知識人や報道陣の前で話す」ことを前提にしてみよう。

 発音・アクセントに絞ってみると、筆者のこれまでの経験(聴衆の一人だったり、話す側だったり)で重要なことは:

 分かりやすいこと。意味が通じること。

 これが鉄則だ。特定のアクセントがある・なしは関係ない。誰にでもそれぞれのアクセントがあるからだ。繰り返しになるが、英国では標準英語を話す人は数%しかいないのだ。しかも、この標準アクセントも英国南部のエリート層が話す英語を基本にしたものであり、そのルーツは必ずしも「中立」ではない。

 最後に、筆者が前澤社長の日本語アクセントをどう評価するかを書いておきたい。あくまで私見であるが、実体験に根ざした見方として参考にしていただければと思う。

 筆者が思ったのは「確かに日本語アクセントがある英語だった」。しかし、「わかりやすい英語だった」。聞いている人に意味が通じただろうと思う。少なくとも英国・ロンドン的には「わかりやすかったか、意味が通じたか、メッセージが伝わったか」が評価点である。


 筆者の結論としては、「日本語アクセントがあったが、わかりやすい、綺麗な英語だった」。


 筆者が英国に移住したのは、16年前だ。現地の英語が分からなくて、右往左往したものだ。英語で公にスピーチをしなければならないとき、筆者は練習するために音声を録音する。あとで再生してみると、自分の英語のくせ・日本語アクセントが分かる。典型的な日本人の一人として、例えばthやfの発音、それにlとrの違いがうまくできない。一生懸命矯正しようと思うのだが、なかなかできない。


 なぜ矯正しようと思うのかというと、いわゆる「日本語アクセント」を消したいからというのではなくて、「thやfの発音、それにlとrの違いがうまくできない」ことによって、意味が通じないことがあるからだ――録音を聞くと、いくつかの言葉の発音が不明瞭なため、自分で話したことなのに、「は?」となるのである。これでは、いけない(!!)。

 スピーチをしていて、ある単語や文章の意味が通じなかったら、100%アウトなのである。

 そこで、今英語を勉強中の皆さんに伝えたかったのは、「日本語アクセントを消す」というよりも、英語の特徴となる幾つかの発音をしっかりできるようにして、相手にとって「わかりやすいかどうか」を目標にしていただきたいと思う。

 どれほど頑張っても「ネイティブのように」話すのは容易ではないし、英国に住んでいると、この「ネイティブ」とは誰なのか?と考え出すと、問題が限りなくぼやけてくる。つまり、どの社会層に属する誰のアクセントを目指すべきなのか?BBCのアナウンサーのような「標準英語」を話したら、気取った人と思われなくもない・・・。自分のこれまでの経験がにじみ出る英語しかないし、みんなそうやって話している。

 筆者もまだまだ勉強中だ。

 自分が主張したいことを相手に伝え、より楽しい議論につながるよう、頑張っていきましょう!

 


by polimediauk | 2018-09-27 16:46 | 日本関連

大和日英基金のイベントで。左からウォーカー氏、大崎氏、伊藤氏(筆者撮影)

 最近、セクハラや性的暴行に抗議する#MeToo運動について考えることが多い。

 運動のきっかけは、昨年秋、ハリウッド映画のプロデューサーによるセクハラ・性的暴行の犠牲者となった女性たちが声を上げ始めたことだが、日本でも財務省官僚による女性記者へのセクハラ言動で、この問題が大きくクローズアップされた。

 

 米国では娯楽産業、日本では政界・メディア界が注目の的になったが、もちろん、特定の業界に限るわけではなく、英国ではチャリティー業界でも発生していることが明るみに出ている(「オックスファムの買春疑惑」)。

 4月以降、筆者は欧州で開催される複数のメディア会議で女性たちの声を聞いてみたが、メディア界でのセクハラ行為はどこの国でもほぼ同様に発生しており、状況もその悩みも非常によく似ていた(「セクハラをなくすには?海外メディアの女性らが明かす]」)。

 この中で、BBCのニュース番組は、出演者の男女比を50%ずつにしようと努めていることを知った。性差別を解消するための一環だが、他には何ができるか。

 性差別関連では、8月、日本の東京医科大学で「女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたこと」が発覚している。

 6月26日、ロンドンにある大和日英基金が、「新しいアプローチ:日本と英国の#MeToo」という題名のイベントを開催した。ここではその熱気あふれる議論を報じてみたい(なお、イベントの使用言語は英語で、以下は筆者が適宜訳したものである)。

 会場は100人超が参加し、筆者は「#MeToo運動は終わっていない!」という強いメッセージを受け取った。

伊藤氏の話

 自分の体験を基に性犯罪について日本の司法や社会の現状を綴った「Black Box」を書いた、フリーランス・ジャーナリスト、ドキュメンタリー作家の伊藤詩織氏は「3年前に私はレイプされた。その後、何が起きたかを話したい」という。

 伊藤氏は、イベントの2日後にBBCで放送された番組「日本の秘められた恥」の一部を紹介した。彼女の体験や調査を基にしたドキュメンタリーだ。

 昨年5月末、実名・顔出しで記者会見をし、自分の体験を公にした伊藤氏。「ジャーナリストとしては利口なやり方ではなかったかもしれない。第3者という視点を維持するべきだったのだろう。しかし、このやり方をするほかはなかった」。

 会見後、バッシングにあった伊藤氏は、日本を出て英国に住むようになった。調査報道が盛んな英国では、こうした問題を語ることが「はるかにやりやすい。日本で話をするのは非常に難しい」という。

 「日本の秘められた恥」の中から、いくつかの動画が紹介された。

 その1つには、レイプされたある女性が登場する。女性は友人一人には自分の体験を話したが、警察には届け出をしなかった。伊藤氏はこの女性の家を訪れる。

 伊藤氏が聞く。「話すことは、どうして難しいと思いますか。どういう恐怖を感じましたか。話したらどうなるんだろう、と」。

 女性が答える。「男の人が、男の警官が来る」、「色々聞かれる・・・どうしてなのか、なぜ声を出さなかったのか。写真を撮られるんじゃないか・・・現場に連れていかれるんじゃないか・・・。人形を出されたり、『どんなことをされました?』とか」聞かれることを恐れたという。「何もなかったことにしたかったのに」。

 「詩織さんが名前と顔を出したことで、この人は、本当に日本を変えたいんやな、と思って」

 「一滴の水は何もならないですよ」、でもそれが集まれば「津波になる」

 「みんなの意識が、そこに向かうだけでも大きな力になると思う」。

 次の動画では、伊藤氏が大学を訪れている。

 女学生の一人がこう言う。「私は中高で女子高だったんですね。制服もセーラー服でかわいいし、友達が痴漢被害を受けていても、自分が受けても、女子高生だし、仕方ないよね、みたいな」。

 男子学生が続ける。「修学旅行の時に、女友達が目の前で痴漢されちゃって、男の自分でも見ていて、やめてくださいっていうのを叫べなかったし、どうにもできないことなんじゃないかと考えちゃって」。

 大学の先生が説明を加える。「生徒に聞く質問の1つは、レイプされた人を知っていますか、と。22人の学生がはい、と答えた」。その中で、警察に通報した人はほとんどいなかった。

 動画が終わり、伊藤氏が話す。「過去の自分を振り返って、なぜ何もしなかったのかと思う。(痴漢行為は)日常のありふれた一部だった。もし通報したら、学校に遅れてしまう。毎日、発生していたから」

 「なぜかは分からないが、私たちのほうが処理するべきだと考えていた」。

 伊藤氏は、日本では十分な性教育が行われてこなかったのではないか、と指摘する。

 伊藤氏は、米英では女性たちがまとまって、#MeToo運動で何かしようと動き出すのを自分の目で見た。「しかし、日本では同じような現象にはならなかった。自分の個々の体験を話せば、何かアジェンダ(隠れた意図)があるのだろうといわれてしまう」

 「私は#MeToo運動を信じている」。

 伊藤氏が注目するのはスウェーデンの動きだ。イベントの翌月(7月)から、明確な同意がない性行為は違法となるからだ。「スウェーデンの首相は、法改正は社会がレイプの被害者のほうに立っていることを意味する、と言った。被害者のほうに立って、支援するべきだと思っている、と」。 

 昨年、110年ぶりに日本の強姦法が変わった。「2つまだ直すべきところがある。1つは、同意年齢が13歳であること。もう1つは性交時の同意についての表記がない。レイプであることを立件するには、暴力が使われた、脅されたなどが条件となる」。

 性行為の同意については、ロンドンのテームズバレー警察が作った、紅茶の飲み方についての動画があり、これが大学などで使われているという。

 「できることはたくさんある。最初のステップは何が起きたかを知ること。ここに来ていただき、ありがとうございます」。

強姦法改正は「市民社会の勝利」

 次に登壇したのは、ジェンダー問題の専門家で、特定非営利活動法人「Gender Action Platform=GAP」の理事でもある大崎麻子氏である。

 大崎氏は性犯罪についての日本の法制度を中心に説明し、一つの神話にさえなっている「日本はいつまでたっても変わらない」という見方を覆してくれた。

 同氏がプレゼン資料で説明した内容を整理してみると、まず、2017年7月、性犯罪の処罰を110年ぶりに厳罰化した改正刑法が施行された。

 改正前(1907年制定、08年施行)の規定では、強姦とは暴行・脅迫を用いた膣性交(陰茎の膣内への挿入)を意味し、強姦罪を犯した者は最低3年の有期懲役となった。被害者が告訴しなければ、刑事裁判にかけることはできなかった(こうした罪は「親告罪」と呼ばれる)。

 改正後、強姦にあたる性行為として膣性交、陰茎の口や肛門への挿入も含まれることに。有罪になった人は5年以上の有期懲役になる。被害者は告訴をしなくても起訴できる(親告罪の規定の撤廃)。

 また、親などの「監護者」がその立場を利用して18歳未満の者と性的行為を行った場合、暴行・脅迫がなくても処罰することが出来るようになった。

 刑法改正案が可決成立した時、3年後の見直し*、被害者の心理などについての研修を警察官、検察官、裁判官に対して行うこと、二次被害防止に努めることなどが付帯決議となっている(*改正法の施行は昨年だったので、現在から2年後に見直しとなる)。

 大崎氏によると、法改正は「市民社会の大きな勝利」だった。

 具体的には:

 法改正を求める非政府組織、自助グループ、学生団体、学者、リサーチャー、専門家、議員、メディア組織、ジャーナリストなどが「戦略的パートナーシップ」を組んだ。直接顔を合わせてのミーティング、討論会、ソーシャルメディア、オンラインの署名活動、既存メディアで取り上げるなどの手段を使うと同時に、議員や政党にも働きかけ、国連の「CEDAW(セダウ)(女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約)」(日本は1985年に批准)の枠組みを活用したという。

 「最初の改正までに110年かかった」が、今はさらなる改正への「機運がある。ソーシャルメディアの時代に、もっと早くできるだろう」。

 具体的には、「政府に説明責任を持たせ、政策対話に参加すること」。

 例えば、政府の「すべての女性が輝く社会づくり本部」は「女性活躍加速のための重点方針 2018」を6月12日に発表している。この中に「セクシュアル・ハラスメントの根絶に向けた対策の推進」の項目が入っている。

 また、国際労働機関(ILO)は6月、セクハラなど働く場での暴力やハラスメントをなくするための条約をつくる方針を決めている。(「日本には職場での暴力やハラスメントを禁止する法律がない」と大崎氏)。

 カナダ・シャルルボワで行われたG7サミット(6月)で参加国は「性的及びジェンダーに基づく暴力、虐待及びハラスメントの撲滅に対する」誓約に合意している。

 先のCEDAWを始めとする国際的な枠組みを活動の根拠にしたり、毎年日本で開催されている「国際女性会議(WAW!=ワウ)」やG20の下部組織となるW20の会議で推進力を高めるなど、私たちができることを大崎氏は説明した。また、活動家同士が「つながること」の重要性も強調した。

イベントは時に笑いも入り、リラックスしながらも真剣な議論が続いた(撮影筆者)
イベントは時に笑いも入り、リラックスしながらも真剣な議論が続いた(撮影筆者)
左からウォーカー氏、大崎氏、伊藤氏(撮影筆者)
左からウォーカー氏、大崎氏、伊藤氏(撮影筆者)

#MeTooが行き過ぎている?「冗談でしょう」

 最後は、英国の女性平等党の党首ソフィー・ウォーカー氏の番だった。

 ウォーカー氏は2016年のロンドン市長選と昨年の下院選に立候補したが、落選している。

 筆者は女性平等党について、「今さら、女性を特別視する必要があるのだろうか」と懐疑的に見てきたが、#MeToo運動渦中の現在、ウォーカー氏の言葉に大きく揺さぶられる思いがした。

 先に、BBCのニュース番組が出演者の男女比を50%ずつにする動きについて紹介したが、こうなると男性が出なくなる方向まで進むのかなと不安感を持っていた。「少々、やりすぎかな?」とも。

 しかし、そんな不安感を払しょくしたのがウォーカー氏のスピーチだ。

 「#MeTooが行き過ぎている・・・と考える人がいない場所で今、話せる」とまず安ど感を表明。「行き過ぎているのではないか、という質問をよくされる。これを聞くたびに1ポンドもらっていたら・・・」。今頃は大金持ちになっていただろう、というニュアンスだ。会場から笑いが洩れる。

 「行き過ぎているのでは?に対する答えは、『冗談でしょう?』です」。

 

 #MeToo運動は米国で娯楽・メディア業界でのセクハラ・性的暴行事件の告発がきっかけだった。「それも当然だ。娯楽業界で男性は権力の中心にいる。女性は男性よりも低い存在として描かれる。主人公の母、妻として登場するか、仕事を持つ女性が出てくる場合でもアルコール依存症に苦しんでいるように描かれることが多い」。

 

 告発は政界にも広がったが、「どこの国でも男性議員の比率が高い。女性のジャーナリストたちは男性議員のハラスメントを受けている」

 「セクハラが起きるとハラスメントされた側が話題に上るが、ハラスメントをした方の責任は問われない」。

 オックスファムをはじめとするチャリティ業界でのセクハラ・性的暴行も話題に上るようになった。

 「#MeTooは多くの分野にまたがる。今こそ、#MeTooを訴える集団としての意識をもって、社会構造を変えるべきだ」。

 ウォーカー氏の話で筆者が「目からうろこ」の思いがしたのが、彼女がこう言った時だ。「セクハラは実はセックス・性の話ではない。パワー・権力の話だ。(セクハラ・性的攻撃の対象になるのは)女性がパワーを持っていないことを意味する」。

 「やるべき課題は多い」とするウォーカー氏は、常に特定の個人に問題ありとされる傾向を指摘する。「問題が起きるのは女性に責任があるから、と言われる。差別をなくするためにがんばれ、と。完璧な体形を持つように、がんばれ・・・」。こうした風潮に流されてはいけないという。

 ウォーカー氏は、「#MeTooとは、ほかの多くの女性たちの後ろに立って『ああ、私もそうだ。共感する(Me, too)』と声を上げることだ。集団としてまとまること。女性がこれで力を得ることだと思う」。

ネットで始まったことの意味

 ウォーカー氏は参加者に向かってこう言った。「ここに来れない女性たちがいますよね」。イベントに来て議論に参加できない女性たち、障がいがあって自由に動けない人、あるいはほかの人をケアしている人、無休で働く人、貧困者、ここに来るまでの切符を買えない人、忙しくて時間を割けない人―」。

 でも、ネットにアクセスすることができれば、「孤立していた人がオンラインのコミュニティに入れる。Me, tooと言える」

 「女性たちは、待っていても誰も自分を助けに来ないことが分かったのだと思う。だから、自分で自分を助ける。誰も待つ必要がない」。

 しかし、女性たちはオンラインハラスメントの対象になりがちでもある。「声を上げた人がハラスメントを受けて、ばらばらにされてしまう」

 「男性たちは、自分を解雇できるような人には決してハラスメントをしない」――なるほど、確かにそうだと筆者は思った。

 ウォーカー氏は最後に、「性の商業化をやめよう、女性たちは互いの声を聞こう、雇用面の差別をなくしよう、経営陣も政界も男女比率を半々にしよう、メディアは多様性と公正さを反映するようにしよう。ハラスメントされることを恐れずに、テクノロジーを使うようにしよう」と呼びかけた。

―セクハラ解消の具体策は?

 会場から、「セクハラ解消の具体策」についての質問が出た。

 ウォーカー氏:「9月に政党の党大会があるので、そこで具体策を詰めたい。今すぐできることは、性差別やセクハラについて関心を持っていること。自分に正直であること。問題が大きすぎて諦めてしまう人が多いが、自分は何が得意かを考えてみてほしい。何が達成できるか、いつまでにできるのか。また、同じことを考えている仲間を見つけること。互いを励まして行動ができる」。

 大崎氏:「私が関わっている国連女性プログラムが日本で始まる。お金は欧州連合(EU)から出ており、女性の経済エンパワーメントを目指す。また、職場でのセクハラを解消するための作業もある。ILOが職場のセクハラについての新しい条約を作るために動いている。法的に縛りをかけるのか、あるいは自由意思にするのか。法的義務となるよう、調整している」

 「また、日本の女性は声を上げることに慣れていない。家父長的な傾向が強い地域では、(これを変えるための)ワークショップを開催している」。

 #MeToo運動は、まだ終わっていない。

 ウォーカー氏の言葉をもう一度。

 「行き過ぎているのでは?に対する答えは、『冗談でしょう?』です」

 「セクハラは実はセックス・性の話ではない。パワー・権力の話だ。(セクハラ・性的攻撃の対象になるのは)女性がパワーを持っていないことを意味する」

 「男性たちは、自分を解雇できるような人には決してハラスメントをしない」。


by polimediauk | 2018-08-23 18:23 | 日本関連

(新聞通信調査会が発行する「メディア展望」7月号の筆者原稿に補足しました。)

書評:原野城治著(ホルス出版=1400円+税)

「日本の発言力と対外発信」

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 日本の海外に向けた発信力は、今一つなのではないか?そんな疑問を持ったことはないだろうか。

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 本書の著者原野城治氏は、日本の発言力や対外発信の現状に強い危機感を抱く。同氏は時事通信社で政治部、パリ特派員、解説委員、編集局次長を務めた後で対外発信の現場に飛び込んだ。多言語季刊誌「ジャパンエコー」を経営・編集し、多言語サイト「ニッポンドットコム」の運営を約15年間、担当した。世界の舞台での日本の発言力・発信力を観察するには絶好の立場にいた。

 原野氏は、日本からの対外発信の目玉として「マンガ・アニメ」ばかりという選択肢のなさを見て、「日本の文化的劣化さえ覚える」という。また、「IT時代において、政府レベルに最低限必要な『国連公用語六カ国語』(英、仏、西、中、露、アラビア各語)の対外発信基盤が常設されていない現実は、『ダメな国だ』という諦めより虚しさに近いものだった」。

 第1章から3章まで、著者が見聞きした対外発信の具体例がつづられてゆく。

 第3章では多言語発信の現状が紹介されているが、最も多くの言語でラジオ放送を行っているのは「中国国際放送」(CRI)で61言語、これに米「ボイス・オブ・アメリカ」(42言語)、ロシアの「スプートニク」(39言語)と続く。NHKの国際放送(「NHKワールド」)は18言語だという。国際戦略の違いが出た格好だが、このままで良いのかと著者は問う。

 第4章では、日本のメディアによる英語での情報発信が「規模が小さく、採算的にも赤字を垂れ流し」、「英語力も質量的に不十分」と指摘する。かつて日本の英字媒体で働いていた筆者にとっては、耳が痛い。何とかならないものかと筆者自身が焦燥感を持ってきた。

 著者は第5章以下で、日本や欧米諸国が対外発信、対外文化事業に力を入れた1930年代の歴史を紐解く。1934年に発刊されたのが日本初の本格的なグラフ誌「Nippon」。写真家・編集者の名取洋之助氏が中心となって編集され、日本と日本文化の国際性をアピールすることを主眼とした。44年までの10年間に英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語で刊行されている。同じ頃に設立された「国際文化振興会」の資金援助を得て、名取は「国内の多様な写真撮影を行い、アーカイブス化して海外に配信した」。

 第6章は戦後の動きを扱う。「国際交流、異文化交流の『民力』の拠点となった」、「国際文化会館」の創設に尽力したジャーナリスト、松本重治氏に焦点があてられる。

松本重治氏(ウィキペディアより)
松本重治氏(ウィキペディアより)

 米エール大学に留学した松本氏は歴史学の教授だった朝河貫一博士に出会い、「本物の国際人は、本物の日本人でなければならない」と教えられる。1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約をめぐる過程で、松本氏は戦前の日米人脈を活用したという。日米文化交流の土台が作られてゆく経緯が本書に詳細に記されている。 

 国際文化会館を舞台とする松本氏らの国際交流は「日米の学者や有識者を中心とする人的ネットワークに依存したもの」で、終戦から独立の回復へという混乱の中で「物事を多面的に見ようとする知的エリートによる交流と対話の復活」を軸とした。これには「日米両国間のコミュニケーションが不全状態に陥った歴史に対する」松本氏の「強い反省の意が込められていた」。

 終章では著者が深く関わっていた「ジャパンエコー」創刊にまつわる話や、日本の等身大の姿を伝えるためのコンテンツ作りの肝が紹介される。例えば「知ったかぶりをしない」、「しっかり時間をかける」、「海外の読者をどんなことがあっても『見くびらない』」など。

 著者は、これからの日本は「静かなる有事」に備えなければならない、という。「静かなる有事」とは、「有事」ではないが、漫然とした「平和な時」でもない状態を指す。国際社会において日本からの発言力をこれまで以上に高め、「等身大の姿を説明するための持続的で強力な対外発信基盤の構築」を提唱する。そのための必要最低限の条件として著者が勧めるのは、国連公用語による対外発信だ。「言語戦略は極めて重要な国家戦略であって、言語はソフトパワーそのもの」だからだ。

 日本の対外発信の歴史を振り返り、今後を考えるための一冊と言えよう。 


by polimediauk | 2018-08-07 18:06 | 日本関連

 ロンドン近辺にいらっしゃる方、よろしかったら、ご参加ください。

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伊藤詩織さんを囲む会 -BBC「日本の秘められた恥」放送後、 私たちに何ができるか


 セクシャル・ハラスメントや性的暴力に対して声を上げる「MeToo」運動が世界中に広がっています。日本でも、財務次官による女性記者へのセクハラが報道されたことでこの問題にスポットライトが当たり、ジャーナリズムに携わる女性による職能集団「メディアで働く女性ネットワーク」が組織化されています。

 日本の雑誌を手に取ると、続々と「セクハラ」「性暴力」が特集記事のトピックとして選択されるようになりました(「新聞研究」、「Journalism」、「世界」など)。

 英国では、6月26日に大和日英基金で「
日英のMeToo運動と題されたイベントが開催され、熱い議論が交わされた後、2日後の28日には、性犯罪に対する日本社会の状況を変えるために活動を続けるフリーランス・ジャーナリスト、伊藤詩織さんに焦点を当てたBBCのドキュメンタリー番組「日本の秘められた恥」が放送され、大きな反響を呼びました。

 
日本の性犯罪についての法律をより
実態に即したものに変えるため、7月9日から13日まで性暴力被害当事者団体「Spring」が英国を視察し、ロンドンで公開イベント(7月11日)を開催したこともあって、「状況を変えていこう」、「英国に住む邦人ができることを知りたい」という機運が高まっています。


 そんな今、滞英中の伊藤さんを囲み、性による差別を解消し、男女ともに生きやすい社会を作るにはどうしたらいいかを一緒に考えてみませんか。


 BBCの番組の裏話、SPRINGの視察イベントについて、また世界各国でドキュメンタリー映像を取材・制作する伊藤さんの米ニューヨーク・フェスティバルでの銀賞受賞作品について、そして世界の性教育、現在追っているテーマなどについてもお話しいただき、情報を共有してみませんか。


 番組を視聴したことを前提に、双方向の会話ができる会にしましょう。


日時:7月16日(月曜日)午後6時半から8時ごろまで


場所:ロンドン大学 SOAS: School of Oriental and African Studies, University of London

Room 4429, onthe 4th floor of SOAS Main Building

- Address: 10 Thornhaugh Street, London, WC1H 0XG
- Nearest tube station: Russell Square (Zone 1, Piccadilly Line)


参加費:無料


会場では、伊藤さんの著書「Black Box(1冊15ポンド)をお買い求めできます。


参加申し込み:電子メールで、dekirukoto988@gmail.com までお申込みください。お名前、当日に連絡がつく電話番号をご明記ください。伊藤さんにお聞きになりたいことなどありましたら、お書きください。


主催:日本の未来をイギリスから考える会 有志(小野信彦、小林恭子ほか)


ご参考資料:


*「日本の秘められた恥」  伊藤詩織氏のドキュメンタリーをBBCが放送
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44638987

*メディアで働く女性ネットワーク
https://www.facebook.com/WiMNJapan/ 



by polimediauk | 2018-07-15 07:57 | 日本関連