小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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カテゴリ:日本関連( 101 )

 新聞通信調査会が発行する月刊冊子「メディア展望」の4月号に、アルジェリア人質問題をめぐる実名報道について、寄稿しています。

 ご関心のある方は、調査会のほうにメールなどでお問い合わせくださると幸いです。

 一定期間を置いた後、ブログなどでも補足した分を掲載しようと思いますが、この問題、本当に随分と議論を巻き起こしましたよね。これほど、2つの意見が平行線をたどったケースも珍しい感じがします。

 犠牲者の実名を出すかどうか、いつ出すかで議論百出でしたが、2つ、海外に住む自分からは目立つ点がありました。

 それは、(1)英国の知人・友人の間では衝撃が伝わりにくかったことと、(2)実名報道支持派と非支持派の意見の大きなギャップです。

 私はこの問題が論争になったことだけでも、ジャーナリスティックな意味でとても興味深いケースだと思い、英国の知人・友人や英語媒体の編集者などと話してみたのですが、「大きな論争になった」ということには興味が引かれたようでしたが、ほとんどの人が「何故問題になるのか、分からない」と言っていました。もちろん、知っている人の中だけの反応ですので、全体を示しているわけではないのですが。

 英国では実名報道が基本で、匿名になるのは例外のみ(未成年者の保護、性的被害者の身元、あるいは裁判官が報道禁止令を出したときなど)なので(日本もほぼそうであるとは思いますが)、実名を出すときの考慮、出されたくないという思いなどへの共感度が低いのかもしれません。

 今回のケースの場合、犠牲者の名前を出すときに遺族への配慮が英国では(=政府レベル)十分にあったように思います。遺族の意思を無視して、という感じはなかったと思います。

 一般的に、事件事故報道で、実名が出るというのが慣習になっていますので、遺族の側も「そういうものだ」という意識があるようです。

 (2)の実名支持派と非支持派の間の溝はものすごく深いと今回感じました。何故なのかな、と。

 私自身は、今回のケースに限っては、「すぐに実名を出す必要はなかった」という側にいます。

 実名報道を支持する側の意見をじっくりと読みましたが、最後まで、「ケースバイケースでいいじゃないか」と思わざるを得ませんでした。四角四面の話ではないようなー。(もっと重要なのは、アルジェリアとテロの話じゃないか、ともー。日本人が巻き込まれるようになっていることへの実態をどうするのか、など。)

 一方、ネット上で、マスコミ嫌いの声がたくさん出て、目や耳を覆いたくなるような表現に出くわしました。ショックでした。「この人たちは、一体何を憎んでいるのだろう」と考えました。

 日本のマスコミが、世界の中でも特に行儀が悪い、執拗に対象を追いかけすぎるから・・・という見方もできますが、それだけでしょうか。

 メディア嫌いというよりも、社会の既得権をもつ人たち=エスタブリッシュメントへの憎しみもあるのかどうか。こんなに憎むのは、マスコミへの信頼感・期待度が高いせいなのか、と。逆説的ですが、「こんなもんだよ」と期待が低ければ、暴言を吐くほどの情熱もないのではないかと思ったからです。

 とにかく、溝は深い。この溝を何とかしなければ、マスコミの将来は危ないーそんなことを考えながら、原稿を書きました。

***

 電子雑誌「ケサランパサラン」14号に、浅野健一同志社大学大学院教授が、この問題について論考を寄せています(アルジェリア犠牲者報道問題だけではない 日本メディアの問題点 「実名報道」による「報道被害」を放置・容認してもよいのか?)。

 浅野先生は「繰り返される実名報道の犯罪性」について述べています。実名報道の英国で生きる私にとって、考えてみたい論点がいくつもありました。

 
by polimediauk | 2013-04-02 02:44 | 日本関連
 大震災・原発事故以降のマスコミ報道について、色々な方からコメントをいただきました。コメント紹介の後半部分です。

***

新サイト「byus」(バイアス)のco-founder、デザイナー
山田寛仁さん


ーマスコミ不信はいつごろ生まれたと感じていらっしゃいますか?

 私は震災以前、“ニュース”に対して強い疑問を抱く事はありませんでしたが、「スキャンダルや不祥事といった内容が過度に扱われ、世論が変に傾いたまま“事件が起こっては過ぎ去る”という事が淡々と繰り返している。」といった認識はありました。ただ、多くの人がマスゴミと揶揄しながらも、報道内容を信用しないというまでにはなっていなかったと思います。

 どちらかというと、そのマスコミに振り回されないようにするために“ニュースと一定の距離を置く”という事をしていたかもしれません。

 私は以前、広告制作会社に勤めており、マスと受け手側の不都合な関係を作る側にいたので“マスコミュニケーション”自体に関しては以前から不信感を感じていました。

 本当に必要なことよりも、利益をより多く求める為に盛られていく情報、飾られるコンテンツ。そしてそれによって踊らされる消費者。このマスコミュニケーションの構図への疑問、不信感は震災前にも自分の中に強く持っていました。

ー大震災の前後で、大きく変わったという実感はありますか?

 震災後でマスコミ/マスメディアが大きく変わったという印象はありません。ただ、多くの“受け手側”に立つ人達の意識が変わり始めるきっかけにはなったと実感しています。

 様々な職業、立場によって伝えるべき/伝えられるべき情報は変わり、現状のような誰かが特定の一つの立場からマスコミを通して情報を発信する以上、その情報には偏りが生じており、私が感じたマスコミへの疑問感は抜けないと思います。

 むしろ、その発信された情報をもって私たち一人一人が考えなければいけません。情報が足りなければそれを得るためにマスメディア以外の情報を得るなど、行動しなければいけない状況になったのだなと多くの人が気づいたと思います。

ーもしそうである場合、なぜだと思いますか? 

 震災当時は多くの人がTwitter,Youtubeやfacebookなどのインターネットを用いたメデ ィアを使って必要な情報を得る為に模索しました。インターネットにも未だ多くの問題はありますが、マスメディアでは流れてこない、マスメディアを待っていては遅い情報が、これらのメディアを通して手に入れる事ができました。

 これによってマスコミの構造の不完全さを体験しました。

 メディアが間違った情報を提供してしまう事もありました。CNN は福島原発が水蒸気爆発を起こした際、宮城で行っていた生中継内でアナウンサーが一目散に逃げる場面を報道したり、放射能の影響で一部の地域での水が「contaminated = 汚染されている」という言葉をつかって報道してしまい、国外からの評価を大きくマイナスの方向に傾かせたと思います。

 これによってマスコミが伝える情報の不明確さを体験しました。

 そして、原発が爆発し、多くの人が今の場所を離れなければ「命」に関わるかもしれない状況なのにも関わらずマスメディアを通して政府が発表した内容はあまりにも不明確でした。

 また、会見の際にも、記者クラブという特定のジャーナリストしか入れないなどという権力構造が見えたり、ジャーナリストと政治家、政治家とジャーナリストとの癒着が幾度となく浮かび上がり、どこを信用したら良いのかわからない状態になりました。その疑いは今でも多くの人が持ったままだと感じます。

 これによってマスコミと政府、企業の関係が織りなすプロパガンダを体験しました。

 これらの事のどれか1つだけでも感じると、一気に信用していた情報のインフラが崩壊します。

 しかし、今回のような当事者性の高い出来事では、判断の責任は自分にまわってくることになるので、多くの“受け手”側だった人の意識が変わったのだと思います。

ーbyus さんの立ち上げには震災報道が関連していますか?

 弊社は震災前、小さなサイドプロジェクトとして考えていました。ですが、震災での経験から byus の意義と必要性を強く感じ、共同創業者に声を掛け、多くの人へ価値を提供するべく、他メディアと同じ土俵に立ち、会社として立ち上げることを決心しました。

 一つ、byus の立ち上げの想いを決心に変えた体験があります。 

 私は震災翌日から CNN と行動を共にし、被災地に入り通訳としてスタッフと共に行動していました。私や関わっている現地のドライバー含め、報道の現場に一度も関わった事のない人達が初めて体験した被災地の現場はあまりにも強烈で、余震が続く中、食べるものも無く、シャワーも使えない状況での緊迫した空気を今でも強く覚えています。

 毎日一日中、被災地を様々な場所へ向かい取材をしていました。

 そんな中、報道していてある事に気づきました。「救援が足りなさ過ぎる。」

 私が被災地に入る前にマスコミやネット上で言われていた情報は、「阪神・淡路大震災の時はボランティアが来すぎて渋滞を起こし、自衛隊や救急隊が現地に入れず助からなかったケースが多かった。だから被災地にいくな、彼らに任せろ。」というものが多かったのですが、どう見てもおかしい。

 東北 3 県をまたぐ程の規模の津波での被害、それを自衛隊や救急隊だけに任せても絶対に足りない。

 今誰も居ないこの状況で一刻も早く物資を届けなければ助かる命も助からなくなってしまうと感じました。

 ちょうどその時現地での食料を確保する為に東北のドライバーさんに 2t トラック分の食料を積んで仙台に向かってもらう手配をしていました。

 僕でも連絡次第でこういった手配ができるのに、他のNPO などの団体は動いていないのかあまり見当たらず、不思議でした。

 その中で、堀江貴文さんが他の twitter ユーザーの「都内で買い占めて被災地に送る人…なんてほぼいないよなぁ…。」というつぶやきに「届ける手段無し」という引用ツイートをしていたので、「秋田から 2t トラックでスーパーの中の物買い占めて仙台向かってますが、遠過ぎると不可能でしょうか?」と引用ツイートすると、「正直言って悪いが、意味ないよ」とツイートされました。

 そのツイートを見た多くの方々から、いろんな批判や罵倒を頂きました。

 阪神・淡路大震災を経験した議員さんのブログや、震災経験者の方々からのつぶやきで、「その善意は無駄になり、逆に被災した人の迷惑になる。」というものでした。

 自分の見ているものと、冷静に外から考えた場合にこれほどのギャップがあるのかと驚いたのと、自分の判断が間違っているのかと悩みましたが、答えは時が過ぎるごとに明確になっていきました。現地の、当事者である人達の声が届いていなかったのです。

 少しインフラが回復し、インターネットや電話回線もつながるようになると南相馬市のYoutube動画が最たる例ですが、被災地の困窮した状況は明確になっていきました。

 そのすぐ後から、多くのNPOが立ち上がり、多くの人が東北に実際に足を運び、活動し始めたのはみなさんがご存知の通りです。

 「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉がありますが、「今」や「本人」をしっかり見ずに「歴史/過去」のみで判断することは、同じくらい愚かで、盲目だと私は確信しました。

 この体験がきっかけとなり、マスと消費者、政府と国民、人と人のコミュニケーションの穴に潜む問題を解決できるメディアを立ち上げたいという想いが決心にかわりました。

 いろんな立場、当事者の人達の意見をもちより、それを自分で考えるきっかけを作る事。

 それを通して双方への偏見を無くす事が、これから起こる出来事に対するよりよい判断への鍵だと震災での体験を通して学ばされました。震災で亡くなられたの多くの方々の犠牲の上で、私は大切な事に気づかされました。

 東日本大震災で亡くなられた方のご冥福と、未だ行方不明の方々の全員発見と、今も避難を続けている被災者の方々の一日も早い安定した生活を、深くお祈り申し上げます。

***

早稲田大学
森治郎教授

 一言でいうと「不信が増幅された」ということですが、それには正当なものと「厳しすぎる」ものとがあるように思います。

 ご承知の通り、原発事故についてはメルトダウンの事実、それがちゃんと機能していれば早期に住民を避難させることができるかもしれなかったのに機能しなかったSPEEDI事故の隠蔽など、さまざまな事実が発表されませんでした。したがって報道されませんでした。メディアの追及が甘かった、 あるいは非力であったと思います。そのことが多くの人たちから「メディアも政府と結託していた」と批判・非難されました。しかしその原因のかなり は「追及の甘さ、取材力のなさ」にあったように思います。その意味では批判の多くは「買いかぶり」に根ざしたものであるといえるように思いま す。

 もう1つはSNSに比べての情報量の少なさでしょうね。それもある側面では既存のメディアにはない機能をSNSが持ったからこそでしょう。なお、 ある側面とは、目下のところSNSは「たまたま目撃したり知っていた」ことの交換による情報の伝播であり、目撃のないところでの情報発掘において 既存メディアを超えることができるかどうかについては今後を待たなければならない、ということです。

 震災とその後の展開によってメディアは自らの至らなさ(政府情報のうのみ、政府や企業との癒着あるいは癒着寸前の友好関係、取材力の弱さなど)を 痛感したように思います。したがって自らに鞭打つ姿勢と粘り強い取材が見えました。

 ところが日本のメディア(だけではなく社会全体にある)の1つ の性格である「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、政府の原発・エネルギー政策についても「経済姿勢のためには仕方がない」といったムードに乗ったり かき立てたりという傾向が現れてきています。また報道内容も「震災で家族を亡くした人」や「涙をふるって立ち上がる人たち」のお涙ちょうだい的な ものが多く、事故原因や再建策について冷静綿密に追究した報道はあまり見あたりません。やもちろんさまざまな例外はありますが、全体としては元の木阿弥状態になりつつあるように感じています。(さまざまな例外の「例」として朝日の長期連載「プロメテウスの罠」や中期連載「原発とメディ ア」、NHKの検証ドキュメントがあります)。

***

英ガーディアン紙東京特派員ジャスティン・マッカリー

 参考になる記事として、デービッド・マックニールが書いた記事を挙げておきます。

-大震災の後、マスメディアに対する日本国民の見方は変わったと思いますか?

 どこに住むかによって、その答えは変わってくるでしょう。福島に限って言えば、マスコミへの批判が強くなった感じがします。それは、東電や政府の言うことを鵜呑みにしたからです。

 私が2-3週間前に福島に行った時、最も心配の種になっていたのは、全国メディアがもはや福島のことに関心を抱いていないということでした。何周年とかそういうとき以外は、です。福島で会った何人かは、今や福島の問題を報道し続ける海外メディアに頼るしかないと言ってました。

―どういう風にして、人々のマスコミに対する視線が変わったのでしょうか?

 1つ目の質問の答えにも含まれていますが、手短に言うと、メルトダウンや東電のやり方について独立した報道ができなかったからです。このため、大手メディアに対する信頼感が薄れたのだと思います。報道されていることと、実際に発生したことの間のかい離が見えたわけです。

 といっても、国全体がこの面で変わったということはあまりないようです。いかなる形の調査ないし、新聞の編集幹部による自省にもつながっていないからです。NHKは破壊の様子を人々に伝える素晴らしい仕事をしましたが、福島原発をめぐるコンセンサス、つまり「単純な事故だった、誰が悪いわけでもなかった」という考えに挑戦することは怖くてできないように見えました。

 30万人の避難民の様子や除染がなかなか進まないことはよく報道していたとは思いますが(特に朝日新聞など)、危険なのは、時が経つにつれて、報道しなくなることです。(小林訳)

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学生ブロガー
坂田航(わたる)さん

(1)マスコミ不信(もしあるとすれば)はいつごろ生まれたと感じていらっしゃいますか?

 不信は原発事故の詳細が明らかになり、ネットに出ている専門家や海外からの情報との食い違いが鮮明になってきた頃からでてきたのではないだろうか。そのきっかけをつくったのはフリージャーナリストだ。自らの取材とマスメディアの報道内容を比べることで報道に遅れが出ていることや虚偽があることを指摘し、問題の本質を明らかにしていったことが大きい。

(2)震災、原発事故を通して、国民のマスコミに対する見方は変わったと思いますか?

 変わった。変化には2通りの変化があったことが言える。

 まず1つがマスメディアつまり新聞・テレビなどの既存メディアに対する関わり方だ。恣意的であったかどうかは別にして、マスメディアは当初当局が確認できた信ぴょう性の高い情報しか出さず、専門家や技術者による想定を報道せずに国民への注意喚起を怠った。後になって当局は情報をきちんと出していなかったことが発覚し、当局の発表をそのまま記事にしていたマスメディアは国民に大非難を浴びることになった。そして国民はマスメディア経由の情報入手を中心としつつも、放射能汚染や原発事故などの情報に関してはインターネットで流される専門家や海外からの情報をよく見るようになった。

 一方、インターネットを基盤としたブログ、ソーシャルメディアへの期待が高まった面は大いにある。多くの人々がマスメディアを中心として情報を入手していたが、危機管理の手段としてのマスメディアに期待感が減少し、専門家や海外からの情報が多く掲載してあるウェブサイトを参照する機会が増えたように感じる。

 ただ放射能や原発事故、デモ等の情報以外に関してはマスメディアへの依存が多くある。国民の中でのマスメディアへの信頼は変わらず大きいためだ。しかしそうではないリベラル派の人々は東京新聞や「週刊金曜日」といった、マスメディアの媒体である新聞・雑誌を基盤としたメディアを購読する傾向もある。

 そして「インターネットには正しい情報は載っていない」とするかつての神話は日本の中で崩れたようにも感じる。若者を中心としたデジタルネイティブ世代はインターネットの可能性に早くから気が付き情報入手の手段としていたが、それ以上の世代はネットを基盤としないマスメディアを情報の中心としていた。しかし震災によりメディアとしてのインターネットに注目が集まると、多くの人々が積極的に情報の送受信を始め、メディアとしてのインターネットの地位が確立された。

 マスメディアについては、「大本営発表」と批判を浴びたことやインターネットのメディアとしての地位が確立されたことで自らの報道を見直す姿勢が出てきたように感じる。インターネット上に上がっているTwitterからの意見も多くマスメディアが取り上げる場面が見られるようになり、マスメディアとソーシャルメディアの融合が少しずつではあるが進みつつあるようにも見受けられる。

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 ありがとうございました。
by polimediauk | 2013-03-18 19:11 | 日本関連
 非営利組織「欧州ジャーナリズムセンター」のウェブサイト用に、大震災・原発事故以降、日本のマスコミに対する人々の見方は変わったのかについて、寄稿する機会がありました(15日付で掲載。)

 フェイスブック、ツイッター、電子メールでの急な取材依頼にコメントを下さった皆さん、本当にありがとうございました。この場を借りて感謝します。

 スペースほかの理由から、すべてのコメントを入れることができず、あまりにももったいないので、ブログなどでの公開を許可いただいた方の分を、掲載させていただきます。

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BLOGOS
編集長大谷広太さん

―マスコミ不信はいつごろ生まれたと感じていらっしゃいますか?

 私は1981年生まれですが、今振り返ると、むしろ昔の方が過激な番組制作、報道(たとえば、犯罪被害者、加害者への取材とプライバシー問題)が多かったように思います。そういった表現の自主規制はじわじわと厳しくなっているように思います。

 一方、いわゆる「ウソ・大げさ・まぎらわしい」というような表現、報道への不信感は、やはりインターネットの普及によってより増幅されたように思えます。

 テレビ業界においては、視聴者離れと、それに由来する制作費削減のスパイラルが厳しいがゆえの問題ある表現、報道が指摘されていると思いますが、そうしたことも含めて、インターネットの普及によって、一部の人しか知らなかった、既存メディアの"お約束"、取材の裏側、制作の裏側などが、どんどん拡散されるようになってしまったこと、そして、既存メディアがカバーしきれなかった情報が見えやすくなってきたのだと思います。

 こうした変化は、直感的には2000年くらいから、より表面化したように思います。

ー大震災の前後で、大きく変わったという実感はありますか? もしそうである場合、何故だと思いますか?

 どの既存メディアも、それぞれの立場で、懸命に報道をしようとしていたのではないかと思います。

 地方でおきた災害であることから、全国紙に対する地方新聞、全国ネットのテレビ・ラジオに対する、コミュニティFMの意義などが見直されるキッカケになったのではないでしょうか。

 また、ソーシャルメディアによって、メディアがカバーできないミクロで多様な一次情報や意見が、しかもリアルタイムで広がったことで、ソーシャルメディアの可能性が一斉に目に見えるようになり、相対的にその地位が高まったように思います。

 原発事故関連は、今も様々な議論がなされていますが、あまりにも専門的だったり、事故との因果関係が学術的にはっきりしない事象も多く、大手メディアだけでなく、ネット・ソーシャルメディアでも、それぞれに過大だったり、誤った情報が流れてしまったこともないとは言えないとおもいます。

 また、これをきっかけに、政府・官公庁・企業の情報公開のありかたが厳しく問われるようになったとも思います。

ーBLOGOSと既存マスコミのとの違いはどこにあったと思いますか?(以前に、震災時にヒットがたくさん出たとおっしゃっていましたよね。)

 著作権の問題であれば漫画家、ミュージシャンなど、評論家的ではなく、社会問題に直結する現場の立場からの発言が、やはり共感や説得力を生むのではないかと思います。

 たとえば、これはブロガーの記事ではありませんが、私が取材させていただいた、若手官僚のインタビューは、とても大きな反響を呼びました。

「キャリア官僚だって人間」
ー30歳元キャリア官僚の語る霞ヶ関の実態
 

 官僚と言えば、既存メディアでは何かと批判の対象になりがちですが、一方で、実際に現場で真摯に働いている方々の声を聞く機会はあまりにも少ないと思い、実施しました。読者から、「知らなかった」「そうだったのか」という声をたくさん頂戴しました。

 また、最近では、「テレビではこの部分の発言が取り上げられましたが、本来の主張はこうです」と、ブログやソーシャルメディアでしっかりと、補足、説明を行う政治家の方も増えてきたように思います。

 どうしても、既存メディアでは、わかりやすく要約することで、端的なイメージばかりで語られてしまうことが多いお話も、本人の声を通すことで、理解が進むのではないかと思っています。

***

世界のジョニーさん @zyonysan

 はじめまして、意見あります、ほんとうのこと伝えないではないですかーもう被爆者ですよ。

 何よりテレビはフクイチ事故を隠蔽し続け、プルトニウムもストロンチウムも一切触れない。この方が桁違いに悪質な犯罪ではないのか!

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グッチのぐちさん @gucchi2797

 知りたいのは、事実だけでいい。記者のくだらない解説がいらないことがよく分かった。ネットで十分。それじゃまずいんだろうけど。

 二月に50年以上取っていた朝日新聞をやめた。全く困らないので、妻と驚いている。たまに、朝日や読売や毎日を購入しているが、ニュースで特に読まなければならないところがない!

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宮前ゆかりさん @MiyamaeYukari

 この話題には大変興味があります。日本の報道機関、特に主要全国紙新聞(読売、朝日、毎日)に対する信用はガタ落ちです。 @ginkokobayashi 3・11の震災・原発事故後、日本のジャーナリズム(あるいはメディア報道)に対する見方が変わった・・・と思われた方、もし関心がある方

 米国でも同様のことが起きていて、ワシントンポスト紙やニューヨークタイムズ紙の「ジャーナリズム」への信用もドンドン落ちている。>宮:日本の報道機関、特に主要全国紙新聞(読売、朝日、毎日)に対する信用はガタ落ち @ginkokobayashi

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大森 玲さん、大学生 、23歳

 3.11以降、「大切なのは、メディアを使いこなすことだ」と思うようになりました。

 目で見たこと・書き言葉だけが現実のすべてではない、事実はひとつではない、ということ、報道に自分の経験や視点、調べた事実などをプラスして、現実を捉えることが大切なのだなと。

 また、ジャーナリストの、組織にいるからこその窮屈さも知りました。「ペンは剣より強し」と言いますが、日本では、“ペン”に自由は許されていない。そして、その“ペン”の自由を奪い、陰で操っている“剣”に対して、怒りを抱くようにもなりました。(“剣”とは権力であり、権力とは企業、つまりお金です。)

 「新聞や雑誌などの、“完結しているメディア”には、その裏で多くの権力が働いている」、そういう事実を知った今でも、その“完結しているメディア”を捨て去ることは難しいです。なぜならそれが、(たとえ制限がある中で行われたものだとしても)「ひとつの編集されたもの」であるからです。

 わたしは、閉鎖的なムラ社会をこじ開け、風通しをよくするための道具としてインターネット上でのメディア報道には期待感を抱いています。

 しかし、インターネット上での自由な活動ができるのは、(多くの場合)それが匿名の下に行われるからです。

 「なんの企業的組織にも属さず、何も失わない」、そういう立場にいなければ、きかない自由です。そういう世界では、あふれる情報の量は当然、膨大なものになります。

 その膨大な量の報道から、可能な限り現実に近い事実をすくい取ることができる力量や視点(それも、ありとあらゆる分野に対する)、それを受け取る側がもっているかというと、自信をもって「イエス」とは言えないです。

 ありとあらゆる分野に対して、つねに自分の経験や視点、調べた事実をプラスすることは難しく(正直に言えば、面倒くさく)、完結しているもの、パッケージングされたもの、編集されたもの、そういうものを受け取るほうがずっと楽なのです。

 だからこそ、「メディアを使いこなす」ということが大切である現実に対する意見を外へ発信するよう求められたときに、目の前にあるメディアだけから影響を受けて、自分の意見をつくりあげるのはよくない。(その裏には権力が働いているかもしれない、からです。)

 だけど、広く浅く、こういうも世界もあるのだな、と知るぶんには既存の“完結されたメディア”のもつ力を存分に利用するとよいです。

 自分からわざわざ、自分の頭にも浮かばないような国の情報を調べたりはしません。“完結しているメディア”は、それを教えてくれます。いろんな分野の記事が盛り込まれ、編集されている。それこそが“完結しているメディア”のもつ大きな力です。


 どんなメディアにも長所があり、短所があります。

 だからこそ、いろんなメディアがあってよい。

 そして、世界が多様であるならば、その視点も多様であるはずです。

 自分が消費者でしかいられない分野、そういう分野に関しては、“その道のプロ”におまかせしていたほうが、ずっと楽です。(それにきっと、そうしていれば“平和”でしょう。)

 だけど、いまが続いていくため・これからに続けていくために現実・事実に近づくこと、知ることを怖がってはいけない。

 ジャーナリストも、そして、受け取り手であるわたしたちもサボってはいけない。そう思うようになりました。

***

49歳の医者の方

 震災前から漠然と感じていたメディアに対する不信感(専門性が必要とされる記事の信頼性に対する疑い)が、震災後は明確な不信となりました。

 記者が

1)きちんと取材していない
2)取材に関する事項を勉強していない
と考えるようになりました。

 私自身は医者ですが、以前より医学関連の記事には違和感を感じていました。

***

ジャーナリスト、大貫康雄さん

ーマスコミ不信(もしあるとすれば)はいつごろ生まれたと感じていらっしゃいますか?

⇒「マスコミへの不信感」は人によって様々ですが、一般的にはやはり、2年前の東京電力福島第一原発事故とその後の放射能汚染・被曝に関しマスコミが真相を伝えようとせず、政府・原子力関連産業からの情報を一方的に報道する「体制(政府・業界)広報機関」になったと判ってからです。

 更にいわゆるマスコミが既得権益擁護機関になっていた現実が具体的な事実で明らかになったこともあります。

 マスコミ=マスゴミ 一部の人たちは既に2000年代中ごろから使っている言葉ですが多くの人たちが考えるようになったのはやはり東日本大震災、特に原発事故関連の動きがインターネットメディアや外国メディアで指摘してからでしょう。

ー大震災の前後で、大きく変わったという実感はありますか?

⇒前の質問と関連しますが、大きく変わりつつある、という実感は抱いています。

 「変わりつつある」と進行形を使ったのは、業種を超えて、インテリ層、考える習性を持つ人たちの間で特に公共放送NHKの報道が「面白くなくなった」とか「民放化している」、「見る番組が少なくなった」との声が大きくなっています。

 しかし一方でNHKを通して出しか情報を得てない、いわゆるB層と言われる人たちは未だにNHKの報じることは正しい、と単純に思う人たちが相当数います。

 この人たちは今も多数派であるため、世論調査ではこうした人たちの声が反映されています。

ーもしそうである場合、何故だと思いますか?

⇒これも先の質問と関係あり 変わりつつあるのはやはりインターネットの普及が最も貢献しているでしょう。

 次いで、東日本大震災の取材に外国メディアが関心を持って取り組み、これまで日本のメディアが取り上げなかった「政府・関連業界の不都合な真実」を報道するようになったからでしょう。

 一方でマスコミとは別にネット世界では多岐多様な言論が展開されており、既存の新聞・テレビが伝えないことをどんどん伝えたりしています。

 私が理事・大賞選考委員長を務めている自由報道協会は福島の若いお母さんたちから頼りにされ、避難騒ぎなどの最中感謝のしるしとして200円・300円と寄付を寄せて来られたのもインターネットが言論を変える、変え得る、との実感をもつ材料になっています。

***

ジャーナリスト 団藤保晴さん

―マスコミ不信(もしあるとすれば)はいつごろ生まれた?

 1997年の (「インターネットで読み解く! http://dandoweb.com/ )
第25回「インターネット検索とこのコラム」 (97/10/30)


  新聞メディアと読者の現状を、当時の私はこんなふうに整理した。

 「高度成長期に入るまでは、新聞がカバーしていた知のレベルは社会全体をほぼ覆っていた。技術革新の進展と裏腹の矛盾、歪みの集積は社会のあちこちに先鋭な問題意識を植え付け、新聞がふんわりと覆っていた知の膜を随所で突き破ってピークが林立するようになった。特定のことについて非常に詳しい読者が多数現れ、新聞報道は物足りない、間違っているとの批判がされている。

 新聞の側はそれに対して真正面から応えるよりも、防御することに熱心になった。読者とのギャップはますます広がっている。なぜなら、知のピークはどんどん高くなり、ピークの数も増すばかりだから」

 と書いています。これがマスコミ不信の出発点でしょう。

―大震災の前後で、国民のメディアに対する見方が大きく変わったという実感はありますか?

 福島原発事故の在京メディアの報道ぶりが「大本営発表」だとネット市民には見えてしまいました。ネット上で日々、あれだけ呆れられたのに、メディアの反省は希薄です。

 第282回「原発震災報道でマスメディア側の検証は拙劣」 (2011/10/15)

 で検証した通りです。上記のような意識が高い少数者に批判される初期の不信現象から進んで多数の市民が見切ってしまったと言えるでしょう。

 2011/3/12に大阪から書いた

 第244回「福島第一原発は既に大きく壊れている可能性」 (2011/03/12)

 ほどの実証性志向もメディア報道からは感じられませんでした。

***

科学ジャーナリスト 小出重幸さん

1)マスコミ不信(もしあるとすれば)はいつごろ生まれたと感じていらっしゃいますか?

 第二次大戦の大政翼賛会報道時にもありました。常に一定程度、不信が存在するのが「自然」な姿だと思います。メディア問題の「主人公」は主権者たる読者ですので、マスコミの情報をいかに選別・料理して(自身の糧として)、活動や情報発信に役立てるか――ということが肝要だと思います。

 一方で、報道で一番大切なのはFactsですね。これに疑義があるときは、まず、メディアに直接アクセスすることが必要で、メディアもこう した読者の真摯な批判、指弾によって、本来の姿を回復する、そうした性格の存在だと思います。「一律な不信」だけでは、何も産み出さないと思います。

2)大震災の前後で、大きく変わったという実感はありますか?

  マスメディアの信頼は、大きく失墜しました。

3)もしそうである場合、何故だと思いますか?

 大震災・津波・福島原発事故――この混乱の最大の特徴は、官邸、政府、原子力業界、科学者コミュニティーが、いずれも情報の適切な発信、 PublicへのCommunicationに失敗して、信頼を大きく損なった、ということです。合わせて、マスメディアもこの情報発信が適切にできず、これが不信が拡大する背景となりました。Authorityに頼っていた情報収集と記事の発信は、そのAuthorityがコケれば、マスメディアもコケル、というあんばいで、独自の取材の大切さ、電力業界やAuthorityとの距離を日ごろからきちんと取っておくことの重要さが、あらためて明白になりました。

 一方で、Authorityを無視しては、報道はできません。特に核物質をあつかう原子力など専門的な取材対象では、ミリタリーも関わって くるだけに、ピンポイントの独自取材では「全貌」は明らかにできません。このバランスが難しいところですね。

 今回の騒動を俯瞰すると、日本の大手新聞などのマスメディアは、Authorityから発信される情報がほとんど役立たなかった――という 結果をそのまま伝える形になり、それが批判につながりましたが、一方では、広大な被災地、各地の現状、政治、経済、国際社会の動き、生活、さ らにその間も続くスポーツ、文化活動など、「社会全体」を36ページに凝縮して発行する、という総合的な力は、結局、他のどのメディア(紙、 電波、ネット……)もできなかった――ということも事実だと思います。

 WeblogやTwitter、そして自由報道協会などの活動は、特定の分野やテーマではすぐれた情報伝達ができたと思いますが、この世の 中の全体像や相場観をコンパクトに、しかも継続的に伝えたところは、結局ありませんでした。局地戦はできても、NHKニュースや、36ページ の新聞で伝える総合的な情報発信は、ジャーナリストをどれだけ大量に抱え、それが24時間体制で対応しているか、という力勝負の世界なのだと 思います。こうした側面を考慮せずに、局地戦だけで優劣を論じるのは、むなしい印象がありますね。

 「ミドルメディア・シンポジウム」の活動を1月から始めましたが、このミドルメディアとは、マスメディアが伝えきれない、きめ細かいコミュ ニケーションということで、これまで一部で使われてきた、ネットを使った小規模発信の試みとは、違った意味で使っています。特に、科学と社会 のはざまで起こるさまざまなコンフリクトが、近年増加しています。科学や技術の問題でありながら、科学者や技術者だけでは結論が出せない領域 を「トランスサイエンス」といいますが、この世界が主な対象になります。

 次回シンポジウムは、4月14日で、「低線量放射線影響と地域コミュニティの復興」がテーマです。
by polimediauk | 2013-03-18 19:08 | 日本関連
c0016826_18433525.jpg 昨年夏のロンドン五輪の取材中に、目がきらきらした日本人青年に会った。小柄な体の片手には大きなカメラ機材を抱えていた。

 日本から五輪取材のためにやってきたという、ジャーナリスト、レポーター、コーディネーターの川合亮平さん(35歳)だった。

 彼のブログ「東京発ロンドン経由世界行き」や英語学習に関するブログを読むと、川合さんがイギリス英語にこだわって仕事をしていることが分かった。英語学習者に向けての著作(「イギリス英語を聞く The Red Book」、「イギリス英語を聞く The Blue Book」など)もたくさんある。

 ブログによれば、大阪で生まれ育った川合さんは、高校時代、決して英語が得意ではなかったそうだ。それが現在では英語を使った仕事をするまでになった。一体、どのようにして学習したのだろう?そして、イギリス英語にこだわる理由とは?

 今年2月、英国に取材旅行でやってきた川合さんに話をじっくり聞いてみた。

―英語との出会いはどうだったのでしょう?

川合亮平さん:母親がわりと教育熱心で、もともと英語に興味がある人でした。小さいときに、母親からABCの手ほどきを受けました。出会いですね。

―あまり英語の成績がよくなかったとブログで書かれています。本当ですか?

 本当なんですよ。

 中学校の英語と高校の英語は、似て非なるものだと思っています。

 中学英語は割りと感覚で良い成績がとれました。具体的な英語の勉強としては、音読を繰り返して、英語のリズムをたたきこむとか。でも高校の英語は、分析が中心です。理論が一番のようなことがあってー。

―文法に比重を置いた勉強だったんですか?

 そうです。文法解説があって、単語、熟語をいくつ覚えてー。

―構文がどうだ、とか。

 そうです。

 高校に入って、英語は結構自信があったんですけど、最初の授業で、これはダメだな、と。完全に落ちこぼれました。アカデミックな英語に関しては。ただ、小学校からロックが結構好きだったんですね。

―ブリッティシュ・ロックですね?

 そうです。結局、イギリスの原体験は何かと言ったら、小学校のときにパンクロックを聞いて、雷に打たれたような衝撃を受けたこと。セックスピストルズや、パンクロックに影響を受けた日本のバンド、ザ・ブルーハーツも大好きでした。

 当時は芸術家になりたかったので、卒業後は大阪芸術大学に入学したんです。

―卒業なさったんですか?

 中退なんです。芸術を実際に仕事にしてゆくのは無理だな、と気づきました。気づいたからには、4年間無駄な時間を過ごしたくなかったので、きれいさっぱり辞めたんです。

―その後は?

 海外に出ました。英語の勉強のためと言うよりも、自分の人生がどうなるかと思って、海外に出たんです。そのためにアルバイトをして、稼いだ分だけのお金で、オーストラリアに10週間留学した。当時は、まったく英語力がゼロの状態です。でも、このときに英語でコミュニケーションすることの快感を知ったんです。

―そこから、ずっと勉強を?

 そこからです。20歳から。自分の部屋にこもって、一人で、通信講座とか教材を使って勉強しました。

 年はどんどんとっていくし、お金も稼がないとダメだしー。そのときの目標は、コミュニケーションレベルの高い英語を使える人になることでした。

 当時、良い英語のコミュニケーターと言うのが、仕事としては何になるのか分からなかった。なけなしの知識から考えたのが、通訳者でした。

 通訳になるために勉強をしていましたが、通訳にはまだなれないので、仕事しながら英語力を磨くために、英会話の講師になりました。

 英語を使いながら、社会の中で職を見つけたのが、自分のブレークスルーになりました。23歳です。

 20歳で中退して、3年間は、塾とかでバイトはしていたんですが、ほぼ勉強だけの生活でした。自分の中で、大学に行っていないので、大学に行ったと仮定して、4年目で何らかの職を得たいなというのがあったんで。仕事が見つかってよかったなあと思いました。

―勉強法は人によって違うと思いますが、今英語を学習している人は知りたいだろうと思います。お勧めの勉強法はありますか?

 (しばらく考えて)最近良く、英語学習のブログとかで書いているのは、ちょっと哲学的な話になって申し訳ないのですが、ほとんどの人が「how」(いかに)の部分に注目していますよね。それはいいのですが、そのもっと前に、「why」(何故)というのがあります。何故自分は勉強しているのか、そこさえしっかりしていれば、「how」は何でもできると思います。英語学習の分かれ道はここです。

 僕の場合は、あとがない状況で、学歴もないし、コネもないし、当時は、英語でやっていくしかない。そこが強力なモーチベーションになっていました。

 今英語を学習している人は、何故勉強をしているのかと言う部分を振り返ってみるといいと思いますね。

―教材は何でもいいわけですね?

 何でもいいと思います。

 ただ、一つ言えるのは、何がいいかはそれぞれ違うということなんです。自分にあう教材は、しっくりくる感じがある。その感覚は大切にして欲しい。ぼくもいろんな教材を試したけれども、どれだけ人が良いといっても、自分にとっては合わないものがあります。

 学習者は立場が弱いので、合わない教材を使っているときに、自分が悪いと思ってしまいます。絶対にそうではありません。

 英会話の先生にしても、授業が楽しくない、乗らないというときに、自分が英語の才能がないのかなと思う学習者がほとんどだと思うんですけれども、教育の責任者の方に問題があると思うんです。

 学習者は、もっとのびのびと自由に学べばうまくいくはずです。

―川合さんの場合、英会話の講師になって、そこから仕事が広がるわけですね。

 そうですね。そのときはまだずっと通訳になりたくて、英会話講師をやりながら、通訳の学校に行っていたんですが、2年間勤めて、達成感が得られないもやもや感がありました。お金をもらった分のものを生徒に与えているかどうか、システムそのものが生徒さんにいいものを与えているのかどうかに、疑問が出てきたんです。

 そこで、住んでいた大阪から東京に来ました。でも、何のあてもないし、実力も何もないし、英語力もそんなにあるわけじゃないし。

 以前に大阪で勤めていた英会話学校の東京の事務所で翻訳コーディネーターの仕事を募集していたのですが、これに応募して、採用されました。サラリーマン生活に慣れてきた数年後から、少しずつ副業として今の仕事のきっかけになるような事を始めたんです。

―アルクの英語教育雑誌「English Journal」に書いたり、映画「ホビット」の主演男優マーティン・フリーマンなど、著名な方にたくさんインタビューしていますよね。

 そうですね、全英アルバムチャート1位を獲得したエド・シーラン、アークティック・モンキーズ、キャサリン・ジェンキンスなど、英国出身のミュージシャンや俳優にインタビュー取材しています。

 昔からメディアが大好きで、アートが好き、音楽が好きでした。今はフリーで仕事をしています。

―好きなことを職業にしたともいえますね。

 そうです。本当にいろいろなことにトライしてきました。表に出た分の10倍ぐらいは失敗しています。

 若い人はどんどんチャンレンジするべきと思います。やってみて、断られるのは当たり前。一個でもうまくいったら、そこからまた広がるんです。僕は、本当に細い糸を辿って、一個ずつ紡いでやってきました。広がっているとはいえ、基本スタンスは今でも一緒です。

―英会話講師や英語を使って仕事をしている人として、日本の英語教育について、提言したいことがあったら、教えてください。

 考え方の転換です。僕もここに気づいてから、英語力が伸びました。

 日本の英語教育は減点方式です。テストがあって、間違ったらダメ。「答えがあっていたらほめられる」よりも、「間違ったら怒られる」ほうに比重が置かれています。

 言語は、発して何ぼやと思っています。間違っていると指摘され、自分を否定されたら、絶対に人は引っ込みます。

 自分から前に出て行くのが言語だとしたら、日本の英語教育はまったく逆のことをやっている。やればやるほど、良いコミュニケーションをする人にはなれないと言う悪循環になっていると思います。

 これはすごく根が深いです。意識していなくても、間違った英語を話したらダメという強迫観念が強いのです。頭では分かっていても、潜在意識の深いところまで入ってしまっています。

―ある意味では、英語以前の問題ですよね。

 そうなんですよ。

 知識があっても、コミュニケーションできないというのはそれが問題だったと思います。

 僕の場合はそれをどうやって克服したのかと言うと、仕事で、いわゆる有名な人とか政府高官の人などを取材をさせてもらう機会に恵まれました。取材をしていたら、間違える場面は必ずある。だけど仕事は続けなければならない。

 今までにいろんな方と仕事をさせていただきましたけど、自分の文法の間違いを指摘されたことは一度もない。極論で言えば、通じればいいということがあるからだと思います。

 結局、間違う、あっている、というのは二の次で、仕事も友人関係も、相手と気持ちよくコミュニケーションをすることを優先することでいいと思っているからでしょう。

 逆に言うとものすごく文法的に正しい英語を話していても、相手が不快な思いをしたら・・・それはコミュニケーションとしては丸ではない。

 子供たちが、学生が、英語を発することで賞賛されるようなシステムを作れば、どんどん良くなると思います。

―英語を国際語として勉強し、小学校から英語を導入するべきと言う考え方についてはどうでしょうか?

 基本的には、間違ったらダメという考え方があるかぎりは、どれだけ低年齢にしても一緒だと思います。高学歴の人が必ずしも英語が話せないというのは証明されていますし。

 僕のような適当な性格のほうが、英語は伸びる傾向があると思います。言語は四角四面のものではなくて、流動的なものです。四角四面になると文法重視になり、それはいいのですが、それだけになると、流動的な部分がついていけなくなります。

ー何故、イギリス英語にこだわっているのでしょうか?

 好きになったと意識したのは、ちょうど英会話講師になった23歳ぐらいの時。英語にアクセントと言うのがあるということが、耳で分かってきたのです。それまではどんな英語を聞いても一緒くたに聞こえたのですが。アメリカ英語、イギリス英語の区別ができるようになった。

 友達の女性がイギリス英語を話したときに、その人が魅力的だということもあいまって、ものすごくいい音に聞こえたのです。そこから、イギリス英語にはまりました。

 単純に好きだということのほかには、自分の独自性を出す意味でイギリス英語にこだわっています。

―将来の目標は?以前は、高いレベルのコミュニケーション力を身につけることでしたよね?

 いろいろな意味で、イギリスと言う国にお世話になっています。だからできる範囲で、恩返しをしたいと思っています。

 具体的には、日本でイギリスについての啓蒙活動をすることです。イギリスについてブログに書いたり、面白い人にインタビューして、日本語のメディアに発表したい。視野は広ければ広いほうがいいと思うのです。

 僕と言う人間を通して、広い世界を日本人の、特に若い人に知ってほしいのです。夢を持てるような海外の人を紹介したいし、海外にもどんどん行ってほしい。

 僕は、不完全でも、英語の世界に入って仕事ができることを体現しています。悪い所も含めて、自分をさらけ出しています。日本人の英語学習者が元気付けられるようにー。完璧じゃなくてもいいんだよ、と。不完全な自分を見せることで、英語教育に貢献したいと思っています。
by polimediauk | 2013-03-06 18:28 | 日本関連
c0016826_23174218.jpg 

 沖縄問題、沖縄報道は、気になるトピックである。

 沖縄の現地と東京を中心とした報道界には「温度差」があると言われている。その温度差(もしあるとすれば)は一体、どういうことなのか、現地で報道する人はどんな気持ちを持っているのか?

 これを検証したのが、朝日新聞出版の月刊誌「Journalism2月号。沖縄報道の特集が組まれている。

 国の中央と地方の間の、個々の問題に対する、いわゆる温度差は、ここ英国でもある。例えばだが、北のスコットランド、それから英領北アイルランドとロンドンでは随分とものの見方や政治環境が異なる。

 しかし、沖縄の場合は、見方・感じ方の違いが、報道の熱さの違いになるばかりか(ここまでは英国も同じ)、「沖縄の問題を東京で決めている」ことで、沖縄に対して差別といわざるを得ない状況が生じている点だろうー少なくとも、私の理解ではそうである。

 沖縄問題(ここでは基地問題だけれども)の解決は、原発(=エネルギー)問題と同じかそれ以上に日本にとって、大きな問題の1つだろう。これは沖縄から遠く離れた土地にいても、理解は難しくない。

 「本土紙との溝を埋める」、「『沖縄』を感じる皮膚感覚」を、「中央の取材記者に求めたい」という表現が、記事の1つに出てくる。英国のスコットランドや、北アイルランドとは別の意味での溝があるなら、それはなぜ発生しているのだろう?

 沖縄に住んでいない人にとって、沖縄問題は理論的な問題として認識されがちな面は避けられないとしても、本当に普通に考えると、基地が集中していることへの問題意識は、実はとても持ちやすいと思う。地理的に離れていることはあまり理由にならないだろう。

 そこで、なぜ「本土の報道陣」が「皮膚感覚がもてない」のか、この部分を探りながら読んだ。

 いくつかの答えが特集の中で示唆されている。例えば、琉球新報政治部長松元剛氏は、「外務省や防衛省で政治部の主流に携わっている記者」が、「政府の言う『日米同盟の強化』『アメリカとの関係の強化』という枠の中で、思考停止して、官僚と似たような目線で沖縄問題を扱ってないでしょうか」と問いかける。

 ジャーナリスト外岡秀俊氏が、「外務省には、アメリカが撤退したらどうしようという恐怖心があるんだと思います」、「アメリカが守ってくれているから退かれたら大変だという恐怖心でがんじがらめになっている。記者も取材しているうちに自然とそうなっていく気がします。」

 ほかにもいろいろ、興味深い指摘が続く。

 以下はその主な見出しである。

特集

沖縄報道を問い直す

[鼎談]

本土紙と地元紙の溝を埋める -「沖縄報道」に欠けている視点(松元 剛、琉球新報政治部長、比屋根 照夫、琉球大学名誉教授、外岡 秀俊、ジャーナリスト)

普天間問題の打開策を探る -メディアの役割とメディアへの期待( 長元 朝浩、沖縄タイムス社論説委員長)

沖縄報道を考える -問われるのは国民国家としての日本 (大野 博人、朝日新聞論説主幹)

地元メディアと本土メディア -沖縄報道を考えるための基礎知識 (語り手、音 好宏、上智大学文学部新聞学科教授)

復帰40年の幻想と現実を映す -沖縄イメージと地元雑誌の変遷 (新城 和博、沖縄県産本編集者)

アメリカの大手メディアでは「沖縄」はどう伝えられているのか(瀧口 範子、フリーランス編集者、ジャーナリスト)


(詳細は上のウェブサイトからご覧ください。)

***

 私も、今月号に性犯罪疑惑放送中止事件とBBCについて、寄稿している。この事件は、当初、BBC上層部からの圧力があって、番組の放送が中止になったといわれていた。しかし、12月末に発表された調査報告書によると、そうではなかった。担当者の自粛や他部署との連絡の悪さなど、管理上の問題から生じていた、という話だ。
by polimediauk | 2013-02-16 23:18 | 日本関連
 英「情報コミッショナー事務所」(ICO)が、24日、PlayStationシリーズの家庭用ゲーム機、ならびにゲームソフトの開発、製造、販売などを行うソニー・コンピューター・エンタテインメント欧州社に対し、2011年の個人情報大量流出によって個人情報保護法を重大に違反したとして、25万ポンド(約3500万円)の罰金を課すと発表した。

Sony fined £250,000 after millions of UK gamers’ details compromised
http://www.ico.gov.uk/news/latest_news/2013/ico-news-release-2013.aspx

 ICOは、公的機関の情報公開の促進、個人の情報保護のために活動する特殊法人。

 罰金は、2年前の4月、同社のプレイステーションの端末がハッキングされ、数百万人に上る利用者の名前、住所、電子メールのアドレス、生年月日、パスワード、クレジットカード情報などが流出した件を対象とする。

 ICOの調べによると、ハッキングによる攻撃は、プレイステーションのソフトウェアが最新のものに更新されていれば、防ぐことができた可能性があるという。また、パスワードも十分に保護されていなかった。

 ICOの副所長デービッド・スミス氏は、ICOのウェブサイトの動画の中で、「これほどの規模のカード情報やログイン情報を取り扱っている場合、個人情報の保全は最優先事項になるべきだった。今回はそうはなっておらず、データベースが攻撃されたとき、当時の保全対策では十分ではなかった」と述べた。

 「専門技術を取り扱う会社であるから、個人情報を安全にするための知識とリソースへのアクセスがあったはずだ」

 「この罰金が高額であることは承知している」が、「非常に多くの消費者が直接影響を受けた、少なくとも身元情報を他人に盗まれる可能性もあった」。 (つまるところ、一つの例として高額罰金とした、とも言えるのだろう。)

 スミス氏によると、もし今回の措置で明るいニュースがあるとしたら、ウェブサイト「PRウィーク」が調査をしたところ、プレイステーションへのハッキング行為が明るみに出た後、77%の消費者が個人情報をウェブサイトに出すときに以前よりも注意するようになったと答えていることだという。

 企業側が情報保全についてもっと気をつけることはもちろんだが、「私たち全員が、自分の個人情報を誰に公開するかについて注意する必要がある」。

 ソニーは英BBCの取材に対し、「ICOの結論には同意しない」とし、控訴予定だと述べている。

Sony fined over 'preventable' PlayStation data hack http://www.bbc.co.uk/news/technology-21160818
by polimediauk | 2013-01-24 22:01 | 日本関連
 先日、日本でメディアを研究する若手の人と、会話をする機会があった。

 この方はベースは日本だが、他国のトレンドも研究対象としており、今回は米国や欧州への出張中であるという。

 メディア利用者の生の声を取材しながら、メディアの役割、日本のメディアの現状、そして日本の将来などについて深く考察している方で、自分にとっても大いに知的刺激になった。

 メディアの現状や未来について、普段から考えてきたことと一致する部分があったので、メモ代わりに記してみたい。

 まず、

①同じトピックばかりが上に来る状況をどうするか?

 今、さまざまなニュース媒体、情報ポータルがネット上に存在している。

 この中で、例えば著名検索サイトのニュース・ポータルに注目すると、ヒット数によってランキングが決まってくる。昨年1年間で何が上位に来たかを見ると、研究者によると、ある芸能人の話題だったそうだ。

 芸能トピック自体が悪いというのではないのだが、大手ニュースポータルのランキングに注目すれば、「不特定多数の人=みんな=が興味のあること」が上に来る。これは構成上そうなっているので、これ自体が悪いわけではもちろんない。

 問題は、「ヒット数のランキング」=「最も重要」という視点でずっとサイトを作っている、あるいは読み手となっていると、「重要なことが抜け落ちるのではないか」という点だ。あるいは、多様性が減じるのでは、と。

 もちろん、この点をカバーするために、「ちょっと変わった話題」、「編集部お勧めトピック」などを、ポータルの中に入れるという試みが続いているわけだけれどもー。

 ポータルの作り手が、「今、これがおもしろい!」、「重要!」と思うものを目立つ所に置いて、読者をグングン引き込むーそんなサイトを(もっと)見てみたい。

 マイナーなトピックだけれども、一定の価値観で拾ったテーマをずっと追うというのもおもしろいだろう。作り手(チームでやっているにしても)の広く深い関心・興味・知識が物を言う。

 放送業の話になるが、例えば英民放チャンネル4が「Unreported World」(報道されない世界)と題するドキュメンタリー番組を放映している。

http://www.channel4.com/programmes/unreported-world/

 世界のさまざまな地域で起きている状況をリポーターが取材する。毎回、目からウロコ状態の内容が放送されている。

②似たようなトピックが上に並んだら、なぜ駄目なのか?

 似たようなトピックが上に並んだポータルサイトがたくさんあるとき、一体、「だから、どうなの?」と思われる方もいらっしゃるだろう。

 それ自体が悪いというのではないのだけれども、「言論の厚みが薄くなる」ことが一つの懸念だ。

 「言論」は、ここではネット空間の言論だ。

 言論の厚みを保障するには、いろいろな人が、「本気で書いた論考が、どんどんネット空間に出ていること」が必要だと思う。

 もちろん今でも、本気で書いている人はたくさんいるのだけれども、私が感じているのは、例えば新聞・雑誌の論考・意見が、ネット空間にもっと出てもいいのではないかと思う。具体的に言うと、例えば新聞の解説記事が、多くの人が読めるように=つまりは、無料か廉価で=どんどん出ればどうかと思う。

 経営上の理由があることは承知しているのだけれども、ネット空間の言論の更なる充実化、厚みを出す1つの方法として、解説面に出ているような記事が、どんどんネットに出て、これが一定の量になることが必要ではないかと思う。(ネット上では新聞報道への批判があることは承知しているけれども。)いろいろなやり方があるだろうから、これは1つの案だ。

③ソーシャルメディア上の言論はどうやったら、充実するか?

 (ソーシャルメディアを使うことの是非問題がまずあり、また、SNS上の言論が充実する必要があるかどうかも、一つの問題だがー。)

 具体的に私が頭に描いたのは、ツイッターだ。必ずしも日本が英米のまねをする必要はないのだが、ジャーナリズムの話をすれば、英国ではジャーナリストがツイッターを使うのはほぼ常識になっている。情報発信や収集などで、欠かせない。

 ツイッターがジャーナリズムの1手法になったのは、ツイッター利用者がたくさんいて、実際にジャーナリストたちが使ったから。

 ツイッターにしろ、そのほかのネット言論にしろ、さまざまな意見を本気で出してゆく人がたくさんいて、紙で言論を作ってきた新聞などがネットにも充実した記事をどんどん放っていって、一つの、厚みがある生態圏ができてゆくのではないかと思う。

 若手研究者と話していたときに、日本語空間では、「厚み」の面で、もっと充実してもいいのでは、と思った次第だーー主観的な見方になるかもしれないが。

 議論の厚みがない言論空間を持つ国では、例えばだが、強烈な意見を持った政治家が、選挙で圧倒的な票を得て当選する・・・といった事態が起きるのではないか。

④本気の議論を阻むものは何か?

 時々、ネット言論を見ていると(主に各種ニュースサイト、ブログなど)、議論がぐるぐる回っているような思いにかられることがある。本当の議論を迂回しているようなー。

 本当の議論とは何か?これはあまりにもドデカイ問いだが、あくまで主観的な話をすれば、日本のいろいろな難しい問題(原発の行方、沖縄基地問題、生活苦などなど)を根本的に解決しようとすると、どうも日米問題に行き着いてしまう気がしてならない(議論があまりにも唐突だと思う方がいらっしゃるだろうが、そんな風に感じている人は、私だけではないと思う)。つまるところ、日本はどうやってやっていくのか、その戦略というか、方針が定まっているのかどうか。(あえて戦略を表には出していない可能性もあるが。)

 「最後の最後には、米国が解決してくれる」―そんな「空気」を感じてしまう。

 これ自体がいいことか悪いことか、戦後に日本で生まれた私にとって、ストレートな答えは出ない。しかし、「誰かほかの人が、最終的には責任を取ってくれる」という生き方、国のあり方は、一体、どうだろうか?今、大きなひずみが出ている感じがする。

 自分の行動に自分で責任を取る状態になっていないと、本気での議論ができていかないのではないか。

 本当に、自分の頭を使って、自分の責任で、自分の手と足で物事を決められるーそんな事態が発生したのが、3・11の大震災だったのだと思う。避難するのかしないのか、被災地からの農産物を自分の子供に食べさせるのか、食べさせないのか。

 その後、外から見ているだけだが、(原発を推進してきた)自民党が先月の総選挙で圧勝し、「自分の責任で、自分で物事を決められる」機会は、一体どうなったのかなと思う。

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 そのほかにも、ソーシャルメディアの多用によって、じっくりと物事を考える時間が失われているのではないか(トレードオフとして)、「ツイッターの言論は、信用しない」という外国の若者の話などが、会話に出た。あっという間の1時間半だった。
by polimediauk | 2013-01-21 21:04 | 日本関連
 日本帰国中に、メディアの研究会で話していたところ、「日本のメディア(新聞界)は、外に住む人からすれば、どう見えるか」と聞かれた。

 普段私は日本に住んでおらず、日本のメディアを詳しくウオッチングしているわけでもないので、十分に論評できるほどの事実をつかまえていないと思っている。

 しかし、印象論のレベルで言えば、「これはもしかして、まずいのではないか?」と思ったことはある。今回、特にそれを感じた。

 その印象をまとめて見ると、「いくつかの小さなことが日本で起きていない、あるいは非常に小規模でしか、起きていない。一つ一つは、ある意味ではたいしたことはないが、総合すると、これだけ知的レベルが高い国民がいる先進国としては、非常に残念な状態となっている」。私はこうした状況に、愕然としている。

 英国は日本からすると、別世界の感がある。言語も文化も、歴史も地政学的条件も違うから確かに別世界だけれども、あえて、この「別世界ぶり」を書いたほうがいいのかなと思った。

 日本が英国たれ、と思っているわけではない。住むほどにこれほど違う国もあるかなと思うほど、異なる二つの国。日本が英国の模倣をする必要はなく、「英国=日本が理想とするべき国」とも思っていない。

 しかし、いつぞやの「ハイテク日本」が「時が止まった昔の国」に見えてしまう部分があって、「これは、やばいぞ」と思わざるを得なかった。

 日本で起きていない、あるいは非常に小規模でしか起きていない「いくつかの小さなこと」、「一つ一つは、ある意味ではたいしたことはないが、総合すると非常に残念な状態」と私が思うことを、いくつか、挙げてみたい。

 (1)カード決済ができない店舗が、いまだに結構ある

 大量の現金を持ち歩かず、カード(クレジット、およびデビット)でほぼすべてを済ませてしまう英国で暮らしていると、日本の店舗でカードが使えないところがまだあったりすることに驚いてしまう。といっても、日本でも、ほとんどのところでは使えるのだけれども、英国ではカード利用ができる店舗が徹底している。現金中心の生活だと、いざ大きな買い物をしようとしたら、事前に銀行からお金を引き落とし、財布に持っていないといけない。いつ大きなお金(といっても、2-3万円のことだけど)を使うかは予測できない場合もある。現金中心主義は行動の自由度を狭められるようで、窮屈さを感じた。

 (2)ATMが24時間体制になっていない

 自分の銀行のATMでも利用時間に制限があり、他行となると、利用時間がもっと狭められる。行動の自由を縛るように思える。

 (3)海外で作ったカードを使えるATMが限られている

 郵便局とセブンイレブンのATMでは使えるが、私の経験からは、他行では原則、使えない。欧州他国やトルコでも、普通の銀行のATMから英国で作ったカードで現金引き落としなどができるのだが。銀行の決済体制が、よそ者に「閉じられている」感じがする。

 (4)プリペイドの携帯電話が多くない

 一部で限定的にはあるが、一般的にはプリペイドの携帯電話が選択肢の中に入っていないようだ。空港ではレンタルサービスがあるが、契約者として登録してから使えるようになる。外からふらっとやってきて、携帯電話を買って使うようにはなっていない。プリペイド携帯がある国からやってくると、日本では日本に何らかの形で根を下ろした人を対象にしたサービスになっているので、不自由な感じがする。

 日本に住んでいる人からすれば、(1)から(4)についてあまり不便さを感じないかもしれないし、「関係ない」と思われるだろうか?

 そんな方には、ある人による都市の定義を紹介したい。

 フィンランド・ヘルシンキで会った、ソマリア人の移民の男性と話していたときだ。「都市の特徴は、無名でいられること」と言われ、どきっとしたものだ。

 人口が極度に少ない、ある小さな村のことを考えてみよう(あくまで例として)。誰もが誰もを知っている。良くも悪くも互いの行動を知っている、ある意味では監視して・されている。無名では生きられない。ところが都市には、顔を見ても誰かを識別できないほど色々な人が生きている。

 村では派手と見られる服装をしたら、親戚や親が何か言うかもしれない(言わないかもしれないが)。ところが都市では、他人は眉をつり上げることさえしない。自分で行動に責任を持つならば、どんな風に生きても誰にもうるさく言われない。ロンドンに住んでいると、この「無名で生きられる自由」を感じる。

 そこで、メディア、デジタル面の話になる。

 (5)英国では、自由に生きるあなたのニーズを満たし、知識を与え、楽しませ、いつでも、どこでも情報(あるいは娯楽)が受け取れるように、メディア同士が競争をしている。

 冒頭の話に戻れば、「日本の新聞界は、外から見ると、どうか?」と聞かれ、私は、「日本のメディア組織は、現状維持と組織を守ることを非常に重要視しているように見える」と答えた。

 英国の場合、民間企業であれば、利益を上げることが目標ではあるのはもちろんだが、具体的には、(お金のことを考えつつも)利用者の利便性、自由度(=選択肢)を増大させ、自分たちのサービスを使ってもらえるようにする、つまりは、「利用者の心をつかむ」ことに、血道が注がれている。

 日本の場合は、「組織維持、現状維持」のほうに傾いているように見えるが、いかがであろうか。

 英メディアは、まず利用者のほうを向いている感じがする。利他的ということではなく、「市場」がそうする。競争が働くので、一社が便利なサービスをしたら、他者も同様のサービスを開始しないと、出遅れる(こうした市場中心主義への反対論も根強い。「占拠」運動はその1つだろう)。

 (6)金持ちでなくても一定の質のサービスが受けられるように工夫されている

 例えば、テレビのオンデマンド・サービスのことだが、これは1週間以内に放送された番組を無料で何度でも視聴できる仕組み(=見逃し番組再視聴サービス)。この件については前にも何度も書いているが、日本ではNHKなどもやっている。米フールーも利用できるようになっているが、有料である。

 色々な規制やしがらみなどがあって、有料になっていることは理解できる。

 しかし、英国ではBBCや民放テレビがこれを無料で提供している。

 不思議に思われるかもしれないが、テレビのオンデマンドサービスが無料で使える状態というのは、視聴者に大きな自由感、解放感を与える。まるで「別世界」である。誰にも気兼ねなく、自分の好きなときに、好きな番組を、好きなプラットフォームで見れるのだ。テレビの前に張り付いていなくてもよいし、自宅に録画機を持つ必要もない。テレビ局が自社でコンテンツを維持してくれている。

 例えば1ヶ月1000円を切るほどの利用料が、果たして高いかあるいは手ごろかといったら、「それほど高いとは思えない」という人が案外、いるかもしれない。しかし、ちょっと想像して見て欲しい、これがまったく無料になった状態を。

 無料ということは、オンデマンドサービスが社会の基盤として提供されていることを示すだろう。一部の人向けに、「プラスアルファ」として有料で提供されるのではない。「基本」として、誰にでも提供されている。この意味は大きいと思う。

 (7)大部分の新聞の記事が過去記事も含め、ネットで無料で読める

 経済紙フィナンシャル・タイムズや一般紙でもタイムズは、電子版を有料課金制にしているのだけれども、そのほかの新聞はPCをつければ、無料で原則すべてが読める。

 英国の新聞界は紙の部数がどんどん減っていて、台所事情は非常に苦しい。携帯機器用アプリを有料化するなど、苦心の策を講じているが、いったんPCをつけて、ブラウザーで該当新聞のウェブサイトに行けば、すべてが無料で読めるのである。

 自殺行為?確かにそうかもしれない。でも、取材や執筆に時間をかけた新聞の記事をネット上で誰でもすべてが読める状態にすることで、いかに市民の知的議論が深まることか。「民主主義社会」という言葉を持ち出さずとも、計り知れない好影響があることは想像できるかと思う。

 一方の日本の大手新聞の場合、ネット上には十分に記事が出ていない感じがする。先日、ある新聞の電子版を購読しようとしたら、紙を購読していないとだめと分かった。紙を守りたいのは理解できるが、がっかりしてしまった。読者(=私)が読みたい方法(電子版のみ)での購読の選択肢がないとはー!選択肢が狭められることは、自由度がせばめられることと同じだ。

 売店に行って、新聞を紙で買うか、あるいは、定期購読者=契約者にならないと、十分に新聞が読めないのだ。これがとても旧式に映ってしまう。「公共空間(=ネット空間)に高品質の論考を出す」という面での責任はどうなるのだろう?(無料で新聞が読みたかったら図書館に行けばよいというのは、やや酷だろう。家の隣に図書館があればまだいいかもしれないが、知識への渇望は開館している時間のみには限らないし、ネットで情報を取ることがますます主になっている現在、この公空間に十分に出さないのはまずい感じがする)。

                 ****

 ほかにもいろいろと目に付くことはあるけれども、いろいろなサービス形態が「日本に住む日本人」をもっぱら対象にしており、「ふらっと、自由に」かつ「無名」のままでは、サービスが利用できるようにはなっていないようだ。つまるところ、「閉じている」感じがする。窮屈な感じもし、自由度が少ない感じもする。

 最後に、「日本は大丈夫か」ということをしみじみと感じたことを挙げておきたい。

 (8)アマゾンのサービスが日本独特になっている

 まず、最も話題になっている、アマゾン・キンドルの件がある。

 もろもろの理由で、これまでに参入できず、いよいよ始まることになった経緯は、理解できる。それに、現時点で電子書籍端末には興味がない人がたくさんいるだろうことや、今後も大規模には広がらない可能性もまた、理解できる。

 それにしても、である。まず、米国でキンドルが発売されたのが2007年末。英国を含む諸外国で販売されたのが、2009年である。日本はさまざまな理由から、2012年末からとなった。この間、諸外国と比較しても、導入までに3年のギャップがあった。デジタルの世界で、3年はかなり長い。

 50年、100年単位で物事を考えたら、3年は短い。でも、この間に、米英では自費出版でベストセラーを出す人が続々生まれている。実際に使って見て、分かったこと、分からなかったこと、いろいろあるだろう。この間の知識や運用の経験・情報の蓄積はかなり大きいのではないだろうか。それに、実際に導入されていないと、この間、電子書籍端末にかかわる議論や商戦に、日本や日本のメーカーは、そして、日本に住む人の多くが本気では加われないことになる。これを私は悔しく思う。

 そして、止めを刺すのが、アマゾンで販売されている本の価格に自由度があまりないことだ。普通、英米でアマゾンを使って本を買う一つの醍醐味は、あるいはほとんど唯一の醍醐味は、配達の速さよりも、値段である。アマゾンで買うと、書店で買うよりもはるかに本が安いのである。日本語キンドルの開始で、この状況は日本でも変わるだろうが、アマゾンで「本を半額以下で買えた」という喜びを享受できない状態というのは、これまた悔しい感じがするー。

 このために、書店が大打撃を受けて、閉店に追い込まれるといった問題もあるだろうから単純な話ではないだろうが、どうも、出版社やそのほか、本を売る側の都合が大きな幅を利かせていたように見える。つまり、購買者としての国民が十分な利を得ていないのではないかという点が、心配なのである。

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 それでは、一体どうしたらいいのか?という話になるが、とにもかくにも、読者、視聴者、利用者の利便がもっと反映される社会になって欲しいと願っている。

 選択肢が幅広く、(より)自由な社会、かつ貧乏でも同等のサービスが受けられる国になって欲しいと、遠い国から思っている。勇気を持って一歩を踏み出せば、貧富の差や居住地の違いに関わらず、すべての人が享受できるサービスが実行できるのではないか。
by polimediauk | 2012-11-16 21:33 | 日本関連
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 早稲田大学の「公共ネットワーク研究会」が、13日午後1時半から4時半まで、シンポジウムを開催する。タイトルは「若者にだって社会は変えられる」だ。

 研究会(http://www.kikou.waseda.ac.jp/WSD322_open.php?KenkyujoId=2D&kbn=0&KikoId=01)が作成したパンフレットには、このシンポジウムのファシリテーターとなる、荻上チキさんのメッセージが載っている。

 「新しい公共」を作っていくには、何が必要で、どういったことをしていけばいいのか?

 さて、学生のみなさんは自身の課題として、明日から何をしたいと思いますか?

 主催者によれば、「朝まで生テレビ」の若者版にしたいという。

 申し込みフォームは以下から。私も予定が入っていなかったら、ぜひぜひ、行ってみたいイベントだ。

 フォームから若干内容をコピーしてみると、

https://docs.google.com/spreadsheet/viewform?formkey=dEIzN293YUFvcm5KeGZZOW1xTkhmWHc6MQ

『公共ネットワーク研究会』シンポジウム2012

日本経済が弱体化する中、その脆弱な社会基盤が露わになっています。雇用、福祉、教育、医療など、様々な分野でのひずみが大きくなる中、セーフティーネットである「公共サービス」の重要性が問われています。

今回のシンポジウムでは、基調講演やパネルディスカッションを通じて、不安社会からの脱却に向けた「公共サービスの真にあるべき姿」を追究します。

 パネリストには、”公共サービス従事者の代表”として、公務公共サービス労働組合協議会の加藤良輔氏、”地域の現場を知る実践者”として内閣官房地域活性化伝道師の木村俊昭氏、”社会的弱者を支援する民間団体の代表”としてあしなが育英会の林田吉司氏、”若者の雇用不安の専門家”として教育学者の本田由紀氏をお迎えし、新進気鋭の評論家である荻上チキ氏にファシリテーターとしてまとめていただきながら、熱い議論を繰り広げて参ります。

学生・一般を問わず、積極的な参加をお待ちしています!!


 【日時】  2012年11月13日(火)13:30~16:30 (12:30開場)

 【会場】  早稲田大学大隈講堂(小講堂・300席)

 ●第一部<13:30~13:55>

 基調講演:片木淳メディア文化研究所所長(早稲田大学公共経営大学院教授)

 ●第二部・第三部<14:00~16:30>

 パネルディスカッション
   ・ファシリテーター: 荻上チキ氏(評論家)
   ・パネリスト:
    加藤良輔氏(公務公共サービス労働組合協議会議長)
    木村俊昭氏(東京農業大学教授・内閣官房地域活性化伝道師)
    林田吉司氏(あしなが育英会東北事務所長)
  本田由紀氏(東京大学大学院教授)

 【参加費】   無料

by polimediauk | 2012-11-08 20:06 | 日本関連
 英国で始まった、ホームレスの人が販売する雑誌「ビッグイシュー」。その日本版「ビッグイシュー日本」(http://www.bigissue.jp/)が、創刊9周年を迎えた。ホームレスの人たちを助けるために設立された「ビッグイシュー基金」も設立から5年をむかえ、このほど、NPOとして認定されるに至った。

 3日、NPO取得を記念するパーティーがあり、早速、会場となった東京・四谷にある聖イグナチオ教会に足を運んでみた。

 会場入り口では、ビッグイシューの販売者の人たちや雑誌、基金で働くスタッフ、その支援者たちが参加者を迎えてくれた。

 「パーティー」と言っても、せっかくの集まりであるので、参加した方やビッグイシュー関係者らがホームレスについて考える機会、「場」にもなっていた。この日、みんなで考えたテーマは「いま、ホームレス問題を問い直す -誰もが包摂(ほうせつ)される社会へ」である。

 最初のあいさつはビッグイシュー日本の共同代表の水越洋子さん。

 10年近くビッグイシューを発行してきたわけだが、「常に不安を抱えながら」の作業であったという。もうベテランだろうと見るのは正しくなく、「今でもアマチュアである」と思いながら発行しているという。

 この数年のホームレスの状況を振り返ると、いわゆるリーマンショック以降、ホームレスの人の「年齢が10歳若くなった」と感じているという。昨今はネットカフェなどで夜を過ごす若い人が増えたために、厚労省の数には入らないホームレスが増えている、ホームレスの人が見えなくなっている事態が生じているという。

 昨年の3.11の大震災後には、家を失った人が多く出た。「ホームレスと何か?という定義が変わっていると思う」。

 水越さんは、ホームレス問題とは「住宅問題である」とも指摘した。

 その後は、「ルポ若者ホームレス」を書いた飯島裕子さん、自立生活サポートセンター・もやい代表理事の稲葉剛さん、ビッグイシュー協同代表の1人でビッグイシュー基金の理事長佐野章二さんのお話が続いた。

 飯島さんによると、調査を行った2008年から今年の間で、20代前半から30代後半のホームレスの人が増加しているという。10代―20代前半の若いホームレスの人の場合、仕事の経験がほとんどない場合が多い。「両親がいて、子供が2人」という近代的な家族のモデルが崩壊している、と飯島さんは指摘した。

 稲葉さんは、自立を目指す人がアパートを見つけるのに苦労する、と話す。「誰もが権利を主張できる社会」をめざすべき、と。

 最後に、佐野さんが「誰もが包摂される社会」の意味を説明する。これは、「誰にでも居場所があり、出番がある社会」ではないか、と。「包摂」の意味がピンと来ていなかった私にも、これでイメージがはっきりした。

 その後、参加者は、いくつかのテーブルの周りに座って、互いに自由に意見を述べた。テーブルには、それぞれのテーマが設定されている。例えば、「自立とは何か?」「誰もが包摂される社会」、「住まいとホームレス問題」、「若者をホームレスにしないためには?」「女性とホームレス」、「震災とホームレス」など。雑誌ビッグイシューの将来について話すテーブルもあった。

 この議論の方式を、ビッグイシューでは「ワールドカフェ」と呼んでいた。これは、「知識や知恵は機能的な会議室の中で生まれるのではなく、人々がオープンに会話を行い、自由にネットワークを築くことのできる『カフェ』のような空間でこそ創発される」という考えに基づいた話し合いの手法だそうだ。

 私が最初に行ったテーブルは住宅問題について話しあう場で、次のテーブルは女性とホームレスがテーマだった。

 一人ひとりが自分の体験を話す中で、いかに多くの人が住居や福祉制度に不安を抱いているかをひしひしと感じた。

 いくつかを紹介してみるとー。

 ある男性は、「注目しているのは『0円ハウス』の存在」と話し出した。

 「0円ハウス」とは、建築家坂口恭平さんのプロジェクトだ。http://www.0yenhouse.com/house.html

 熊本にある築80年の日本家屋を、坂本さんは弟子2人とともに作り変え、被災者避難相談所にすることにした。「色んなことをゼロから、根本から考え、これからの人生を生き延びていこうという願いを込めて、ゼロセンター」と名付けたのだという。「ただ避難するのではなく、徹底的に考え直し、新しい生活を作り出す。ゼロセンターはそんな行動の拠点になればと思っています」とブログには書かれていた。

 一方、最初の男性の隣に座った人がこう語った。「東京で家賃が月4万円のところに住んでいるが、独身者が住める住居がドンドン減っている。都市には潤いが減っていると思う。周囲には高層建築物が立ち並ぶけれども」。

 私も自分の思うところを話した。「日本国内で、あるところでは住む場所がたくさんあるのに、住む人がいない。その一方で、住居がなくて困っている人がいる。マッチングが機能していない」。

 私の隣に座っていた男性は、「六本木ヒルズを見ていると、怒りを覚える。普通の人が住める場所が欲しい」。

 ホームレスの人の自立支援を行っているという別の男性は、「月に年金15万円をもらっても、満足な家に住めない人もいる。年金のほとんどをギャンブルに使ってしまうから。救いたいが、こうした人を収容する住居を設置したいと思っても、地域からの反発、偏見がある」。また、「生活保護の申請を、故意に受け付けない自治体が多い」。

 女性とホームレスのテーブルでは、

 「女性でホームレスって本当にいるのだろうか?」

 「実際にいるし、見たことがある」

 「女性は職場でも、年金受給額でも差別を受けている」-などの意見が出た。

 このテーブルで心に残ったのが、2人の女性のコメントだった。1人は「40代で、独身。自分もホームレスになるかもと思って、ここのテーブルに来ました」という。もう1人は、20代後半から30代ぐらいの女性。「私も独身なので、ホームレスになったらどうしようとう思いがある」。

 日本で、普通に働いていている独身女性たちが、将来、ホームレスになるかもしれないと思ってしまうなんて、一体、どういうことなのだろう。

 毎日、仕事に出かけて、賃金を得るという行為が、何らかの形で停止したとき、社会に居場所がなくなってしまう・・・そんな国なのだろうか、日本は?いやそんなはずではー。しかし?

 日本で、貧困問題がクローズアップされたのは数年前からになる。貧困とはお金がない状態だけでなく、住居問題だったり、家族の問題だったり、心のトラウマの問題だったりするのだろう。

 もっともっと、ホームレス、貧困、社会福祉の問題に光があたってもいいのではないか、もっと税金が使われてもいいのではないかーそんな思いを持った。テクノロジーの開発でも、「こんなアプリを使うと、安いものが買える」という、消費行動につながる発案よりも、社会福祉に関連したアプリ、開発、努力がもっとあってもいいのではないかー。そんな感じがした。そして、自分には何ができるかな、と考える日でもあった。

 ビッグイシュー日本版は月2回発売。最新号の特集は「人々をホームレスにしない方法」だ。

 ウェブサイトには、特集についての以下の記載があった。

 
(引用)
 今、日本には100万人をこえるホームレスやホームレス予備軍の人が存在する?

 !ここ20年ほどで、生活保護受給者は2.4倍(95年88万人から12 年210万人)、非正規雇用者の比率は2.2倍(85年16パーセントから11年35パーセント)となった。このようななか、08年リーマン・ショックでは多くの若者が雇い止めされ、路上では見えない若者ホームレスが増えた。この背後には、若年無業者60万人、ひきこもり70万人、フリーターなどの人々が控えている。さらに、震災や原発事故によって、数十万人がホームレス状態になり、いまだ避難所で暮らす人もいる。

 彼らを路上に出さないためには?安定した暮らしへの希望を持ってもらうためには?その鍵は住宅問題にあるのではないか。

 そこで、住宅政策を研究する平山洋介さん(神戸大学大学院教授)と、路上生活者を支援する稲葉剛さん(NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」理事長)に「人々をホームレスにしない住宅政策」について対談をお願いした。また、「もやい」のスタッフに「若者ホームレスの今」について、作家の雨宮処凛さんに「ホームレス状態の若い女性」について聞いた。さらに、今も県外の避難所に残る福島県双葉町の方々に取材した。

 ホームレスとはいったい誰なのか?人々をホームレスにしない方法は?今、ホームレス問題を問い直したい。(引用終)


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ビッグイシュー日本版の過去記事はこちらへ
http://bigissue-online.jp/

大分前になりますが、創始者の英国人ジョン・バードさんにインタビューしました。
【インタビュー】「ホームレスに機会を与えたい」 英雑誌「ビッグイシュー」創始者
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200405251410322

関連:ホームレスが売るストリート・ペーパーが、世界中で部数増加 -慈善団体INSP調べ
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201011220534341
by polimediauk | 2012-11-04 22:40 | 日本関連