小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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 フランスの日刊経済紙ラ・トリビューンが、ウェブサイト上の記事の課金方法を多様化させる。狙いは完全購読制へと読者を誘うこと。

 「ペイドコンテンツ」の報道によると、ラ・トリビューンは既に毎月10ユーロ(約1160円)の有料購読制を提供している。10ユーロを払うと、紙媒体のオリジナル記事をネット上で読める。ラ・トリビューンの場合、紙面の60%がこのオリジナル記事に相当する。

 毎月一定の料金を払う制度に加えて、新しく導入されるのが、1つ1つの記事に小額を払うという制度。例えば、論説面の記事一本につき49セント払う。この際、マイクロ決済システムの「Cleeng」を使う。http://cleeng.com/

 Cleengの創始者でCEOのガイルズ・ドマルティニによれば、広告を出して無料でニュース記事を提供する場合と、毎月の購読料を課金し、有料で記事が提供されている場合との距離が大きすぎる。そこで、個々の記事や動画視聴の一部に小額のお金を払うという中間に位置する行為を導入し、月間有料購読者となる道につなぎたいという。

 ラ・トリビューンは、一日パス(24時間閲読するサービスに支払う)やウェブのみの過去記事へのアクセスにお金を払う方式を近く導入予定。Cleengの利用者は、ビザやマスターカード、ペイパル、SMS(携帯のテキストメッセージ)、電話料金から差し引かれるなどの形で支払いをする。このサービス提供で得たお金は、ラ・トリビューンが80%、Cleengが20%を取るという。

 ラ・トリビューンでは、「簡単な手順」であることが成功の鍵という。

参考:ペイドコンテンツ記事
http://paidcontent.co.uk/article/419-la-tribune-starts-charging-for-more-online-content/
by polimediauk | 2011-06-28 18:53 | 欧州のメディア
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  以前に取材をしたことがあるロンドン・シティ大学の関係者から、ある日、メールをもらった。数々のジャーナリズム・コースで名高いシティ大学が、昨年秋から新設した「金融ジャーナリズム」修士号(MA)のコースに、唯ひとり日本人の学生がいて、経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)・グループで研修をしているという。

 ジャーナリズムを英国の大学で勉強していると聞くだけでも、私にしてみれば「すごい!」と感嘆してしまうのだけれど、英国の高級紙の中でも質の面でトップクラスのFTで、研修するほどの能力があるというのは、輪をかけてすごい。「唯一の日本人学生」というのも、相当のがんばり屋さんという思いがする。

 私がぼやぼやしている間に月日は過ぎ、今年春、当の学生さんは研修を追え、コース卒業のための最終プロジェクトに取り掛かっているところだった。7月には日本に帰国するという瀬口美由貴さん(26歳)とシティ大学近くのタイ料理の店で落ち合い、英国に来るまでの経緯やこれからを聞いてみた。

 タイ料理のランチは、飲み物からランチ・ボックスまで、趣向を凝らした盛り付けをしていた。瀬口さんは歓声を上げながら、飲み物のグラスやランチ・ボックスの写真を携帯で撮りだした。ひとしきりの興奮と写真撮影が終わってから、話が始まった。

―岐阜県で生まれ、英国に飛ぶ

 瀬口さんは岐阜県生まれ。高校卒業後、英国の大学に入った。もともと、海外への関心は高かったようだ。最初の1年は、スコットランドのセント・アンドリューズ大学(ウィリアム王子が妻となったケイト・ミドルトンさんと知り合った大学だ)で過ごし、次の2年はオックスフォード・ブルックス大学で、3年間、言語学を学んだ。

 言語学を学習する中で、メディアを分析する授業があった。「新聞を読んで、記事を分析したり、ラジオに出た人が何故そういったのかを議論しあう」授業だ。瀬口さんの中で、メディアに関する興味が湧き出したという。

 卒業後、瀬口さんは英国で就職せず、日本に一旦帰国する。日本の外に出て、「日本のことをあまり知らないことに気づいた」という。

 「もっと日本のことを知りたい」-そんな思いにかられた瀬口さんが就職したのは、航空・旅行業界の専門紙で、主に法人向けの業界紙(日刊と週刊を発行)だった。読者層は国交省、旅行会社、国内・海外エアライン、ホテル、在日政府観光局関係者。主に、海外エアライン担当の記者として、2年半、ビジネスや経営に関わる取材、本社から出張で来日した経営陣や、在日の統括責任者のインタビュー等を経験した。業務の中で、瀬口さんは英ロイター通信や米ブルームバーグが流す英文記事に遭遇した。

 英文のビジネス記事を読むービジネスに興味のない人であれば信じられない話かもしれないが、瀬口さんはここで、心が熱くなった。英文記事を読み、その意味を理解して、適宜、業界紙の仕事に役立てる作業を続ける中で、「自分は何故ここにいるのだろう」と思うようになった。英文記事を発信するロイターやブルームバーグが存在する世界に自分は何故いないのか、と。英語圏に行きたい、そこで勝負してみたいという感情が、瀬口さんの中に芽生えた。

 「リスクがあっても、行ってみるべきだ」、「1%の可能性があるなら、挑戦してみるべきだ」-そう思った瀬口さんは、早速、海外留学への準備を始めた。

 英文ジャーナリズムの世界に入るには、一体どうしたらいいのだろう?瀬口さんは考え出した。フィナンシャル・タイムズや週刊誌「エコノミスト」がある、英国に行こう、と瀬口さんは思った。英国に行くなら、金融の中心地シティーがある、ロンドンだと。

 シティ大学の卒業生や外資系メディアで働く記者などに話を聞いて、業界内の評判が高いロンドン・シティ大学で勉学することにした。2010年9月から始まった、MA金融ジャーナリズムコースである。瀬口さんの関心は文化よりも経済やビジネス一般だったので、自然のなりゆきだった。

 シティ大学では、途中でメディアで研修できる。それも選んだ理由の1つだった。

―24時間、勉強の日々

 金融ジャーナリズムのコースの13人の学生の一人に選ばれた瀬口さん。勉強はどのようにして進んだのだろう?

 「とっても厳しいスケジュールでした」。授業は朝9時から午後5時までびっちりあり、毎日宿題が出る。週末も宿題に追われ、「起きている間は常に勉強」。それでもめげなかったのは、会社員時代に1年間準備してやってきたときの強い思いだった。

 最初の留学で大学の授業を受け、卒業した経験があったので、英語には普通は不自由しかなったが、金融コースで学問的な単語が飛び交うようになると語学が「壁に思えた」という。大学では、「英語力や金融に関する知識の不足、文化的ショック」など、瀬口さんは「三重苦だね」と言われたこともあった。

 しかし、そのうち、瀬口さんは次第に厳しいスケジュールになれてゆく。コースの楽しさも功を奏した。コースの学生たちは、英中銀をはじめとする金融関係の組織をいくつも訪問し、ロイター、ブルームバーグ、エコノミスト、BBCなどにも訪れる機会を与えられた。また、米英の主要メディア、ニューヨークタイムズやBBCなどの現役・元記者や英国でトップのビジネススクール、CASSビジネススクールやロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの教授による講義も勉強になったという。

 最初はあまり気が進まなかったが、振り返ってみれば非常に貴重だったと思うのが、メディア法に関する講義だった。「裁判では何をどこまで報道できるのか」「陪審員を保護する報道とは」について、詳しく学んだ。英イングランド地方の司法体制が対象だったため、当初は「どこまで役に立つのか」と思ったのだが。

 また、これからのメディア記者とは「書くだけではなく、動画も作れて、テレビ、ラジオ、ネットのどれにも対応できなければいけない」というのがコースのモットーだったため、瀬口さんを含むコースの学生たちは、新聞記者として、かつ放送記者としての訓練も受けたという。

―「研修生でもチームの一員」

 実際に、フィナンシャル・タイムズ・グループで働いたときは、どんな感じだったのだろう?

 英国の企業では、学生を一定時期「インターン」(研修生)として雇用する習慣がある。これはインターンの後、その企業に必ずしも就職する、つまり、就職斡旋ではなく、「青田買い」でもないが、コネができることで、就職口を見つけやすくなることは確かだ。

 瀬口さんがインターンとして働いたとき、「チームの一員として扱われた」という。働いた年月の差によって特別な扱いを受けるということはなく、署名記事を書くところまで行ったという。あることを「やったことがなくても、やり方を教えてもらって、できるところまでやる」、そして、「やった結果で評価される」仕組みを肌で経験した。

 ジャーナリズムの面でも学んだことがある。瀬口さんが言われたのは、「難しい言葉を使うな、分かりやすい言葉で、全部説明するように書くように」。ブログで市民がどんどんニュースを読むようになった現在、「新聞の役目は、いま世の中で話題になっていることを(読者が分かるように)説明することだ」と言われた。「分かっているだろうということでも、書くこと。分かっている人はその部分を飛ばすだけだから」。

 瀬口さんは、日本に帰国後、東京にある外資系メディアで働くことが決まっている。「プロとして、英語で記事を書いて、お金を『稼ぐ』ことをきちんとやりたい」という。当面は、英語でのジャーナリズムに集中する。「国境を越えた仕事をしたい」からだ。

 「どんどん、日本人の学生にシティ大学で勉強してもらいたい」「後に続いてもらいたい」と瀬口さんは言う。

 シティ大学の金融ジャーナリズムコース(MA)は、EUの外からの学生の場合、学費が1万9000ポンド(約240万円)かかる。これだけの投資をするからには、相当の覚悟と意気込みが必要だ。

 改めて留学の意味合いを聞いてみると、瀬口さんは、おそらく、どれほどお金を積んでもおいそれとは買えない醍醐味について語ってくれた。

 それは、「人生のもう一つの選択肢ができる」ことだ。生まれ育った一つの社会だけを知っている場合、この社会の中で失敗したら、終わりになってしまう。「引きこもりになることも」。海外で生活すると、「別の見方があることが分かる。いろいろと視野を広げられる」。

 瀬口さんは英国で、世界中の様々な大陸からやってきた、学生たちと勉強した。「自分が予想もしなかったことを普通に言ってくる」。日本がいいか、それとも英国がいいのかという二者択一ではなく、「自分に選択肢が広がる。ぜひそれを知ってほい」。

 個性を尊重する教育も気に入ったという。英国では「こうしなさい、というのがなく、こちらが意見を出すと、『じゃあ、それもやるか』となる」。

***
 
 英語でジャーナリズムをやりたい、そのためには英国の大学でジャーナリズムを勉強したいー目的を持ち、これをやり遂げた瀬口さんと話す中で、私はかねてから英国での生活で感じていた、「自分は自分」という考えを、瀬口さんも共有していることが分かった。「人と自分を比較してあれこれ考える必要はなく、良かれあしかれ、自分は自分」―非常に単純なことなのだが、なぜか日本から英国に来ると、これが新鮮に思える。英国で生まれ育った人は、階級や収入などの面から、生きていることの窮屈さを感じているのかもしれないのだけれど。また、英国に住んで、日本にいたときよりも自由さを感じるのは、もしかしたら、外国人であることや、ほかに比較しようにも同じような状況の人がいないというせいもあるのかもしれないけれども。


 
 
 

 
by polimediauk | 2011-06-25 02:36 | 新聞業界
 
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 英議会の建物前にある、「パーラメント広場」で、2001年から反戦ストを行ってきたブライアン・ホー(Brian Haw)さんが、肺ガンで亡くなった。家族が19日、明らかにした。

 英米の外交政策に対する抗議運動は、ホーさん自身が広場に居座って(寝泊りして)反戦を訴えるという独自のものだった。次第にホーさんの周りには反戦のポスターやメッセージなどが陳列されるようになり、ホーさんは様々な取材に応じた。英国の反戦の、そして抗議行為やデモを行うためのシンボルと見なされるようになった。

 この広場は反戦に限らず、さまざまな抗議運動が行われる場所でもあり、議会の真向かいにあるので、議員らがメディアの取材を受けるときにも、よく使われてきた。

 ロンドン市当局や政府側にとっては、実に目障りな存在で、ロンドン警察は何度もホーさんを広場から立ち退かせようとしてきた。時には展示物を撤去する行為を行うこともあった。ホーさん側は、これにまでに何度も、裁判所を通じて抗議行為を続けられるよう戦ってきたが、今年3月、ロンドン市長が高等法院(第2審にあたる)からホーさんの立ち退き判決を獲得。ホーさんは広場内から歩道に抗議行動を移さざるを得なくなった。

 ホーさんの家族によると、18日、ホーさんはガンの治療を受けていたドイツで亡くなったという。62歳。

 ホーさんが広場に反戦キャンプを作ったのは、2001年6月2日。サダム・フセイン大統領下のイラクに対する経済制裁が発動されてからだ。その後アフガン戦争(同年10月)、イラク戦争の勃発(2003年3月)を通じて、抗議運動は支援者をどんどん増やした。

 2002年4月、議会があるロンドン・ウェストミンスター区は、道路法を使ってホーさんのキャンプを撤去させようと裁判に訴える姿勢を見せた。撤去理由は道路の「妨害」となっていること。しかし、実際に裁判所がこの件を取り扱うところまではなかなか行かず、ホーさんが拡声器を使う時間に対し、法的縛りをかけるところまでは行ったものの、ホーさんの展示物の中のプラカードが「邪魔」、「非合法の広告」という理由からの撤去は認められなかった。

 2005年、議会から1マイル四方での非認可の抗議行為が禁止された。しかし、当初、ホーさんの運動はこれに入らないとされた。ホーさんがこの法律の施行前から抗議活動を続けていたからだ。

 2006年5月、控訴院は、ホーさんが抗議運動を続けたいなら、警察から許可を得る必要がある、という判定を出した。ロンドン警視庁はホーさんに抗議の許可を与えたものの、展示物の大きさを限定させた(最大でも横3メートル、高さ3メートルなど)。また、この「限定基準を破った」、「テロの攻撃対象になりやすい」などの理由から、当局はホーさんのプラカードなどすべてを撤去しようとした(2007年、別の裁判官がこれを却下)。

 2010年5月、ホーさんは、警察による、広場に設置された複数のテント(当時、総選挙が行われ、様々な抗議活動をする人のテントが点在していた)の捜査作業を妨害したという理由で起訴された。

 裁判所に出廷後、ホーさんは報道陣に対し、「一生涯、広場にい続けるつもりだ」と語った。「私たちがここにいるのは、祖国が幼児殺害、殺りく、他国の略奪行為を行っているからだ。殺されるまでここにいる。後どれだけの時間があるだろう?」(BBC報道)

 今年3月、ロンドンのジョンソン市長はロンドン市庁が管轄するパーラメント広場から、ホーさんやほかの運動参加者たちの追い出し令を裁判所から勝ち取った。

 このため、ホーさんとほかの参加者たちは、歩道に抗議場所を移動させた。歩道はウェストミンスター区の管轄である。同区は、キャンプが公道の邪魔になっているという理由で撤去令を求めた。

 ホーさんは1949年、英南部エセックス州のバーキングで生まれた。商船員、引越し業、大工などの仕事に従事した。熱心なキリスト教徒でもあるホーさんは、プロテスタント系とカトリック系の住民同士の争いが続く英領北アイルランドや、大量の殺りくが行われたことで「キリング・フィールド」(殺人の野原)と呼ばれたカンボジアなどを訪れた。

 パーラメント広場で抗議運動を始める前は、ウースターシャーのレディッチで、妻ケイトさんと7人の子供と生活していた。

 ホーさんは、イラクのやほかの国の子供たちは、「私の妻や子供たちと同じぐらい、大切で、愛情の対象となるべき存在だ」と語っていたという(BBC).

 「自分の子供のところに戻って、イラクやほかの国の子供たちのために、自分ができうる限りのことをやったと思って、子供たちの顔をじっくり見たい。(イラクやほかの国の)子供たちが死にそうになっているのは、わが英国の政府が不正で、道徳に反し、お金目当ての政策を実行した結果なんだよ」。

ホーさんに関する過去記事(ブログ)
http://ukmedia.exblog.jp/10220797
日刊ベリタの記事
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200606180912040 


 
 
by polimediauk | 2011-06-20 20:14 | 英国事情
 ガーディアン紙と日曜紙オブザーバー(ともにガーディアン・メディア・グループが発行)が、紙媒体の発行による損失が膨らむばかりなので、「デジタル・ファースト」という戦略を実行してゆくことになった。つまるところ、ウェブ=本体、紙媒体=その補助という位置づけになるようだ。

 「ジャーナリズムUK」とガーディアン紙が報じたところを参考にすると、以下のようになる。

 グループの責任者アンドリュー・ミラー氏は、昨年度のグループの営業赤字が約3300万ポンド(現金ベース)に達したと発表した。デジタル・ファースト戦略を実行しないと、今後「3-5年で、現金が底をつく可能性もある」。

 ガーディアンの調査によると、読者の半分が紙媒体のガーディアンを朝ではなく夕方に読んでいることが分かった(私もガーディアンを午後読むことが多いーちなみに、英国の日刊紙は特別の表記がない場合、原則、朝刊紙)。そこで、まず、月曜から金曜の紙媒体ガーディアンの構成を、ニュースの本数自体は少なくして、その代わり解説をもっと増やす予定だ。

 ガーディアンの編集長アラン・ラスブリジャー氏は、紙のガーディアンを朝9時ではなく、午後9時に読んでも十分に価値あるものに変えるという。ガーディアンは午後10時のBBCテレビの基幹ニュース番組と張り合うのではなく、午後10時半からのBBCテレビのニュース解説番組「ニューズナイト」と張り合うことにする、と。

 ガーディアンは紙媒体の印刷から撤退するわけではないが、将来はデジタルにあるとして、年内にもっとこれに力を傾ける。しかし、その間、ウェブサイトを有料化する予定はないようだ。

 ちなみに、英ABCによると、4月のガーディアンの発行部数は約26万部で、前年同月比では12・5%減。オブザーバーは約29万部で、前年同月比で13・9%減だった。

 しかし、その一方で、4月のガーディアンのウェブサイトのユニークユーザー数は240万だった。これは、前年同月比では31%の増加である。

 ガーディアン・メディア・グループの2009-10年度の売上げは2億2100万ポンドで、デジタル収入はこの中で4000万ポンド。

 2010-11年度の売上げは2300万ポンド減の1億9800万ポンドだった。雇用関係の広告収入は、過去4年間で4100万ポンド、減少している。

 2011-12年度のデジタル収入は4700万ポンドの見込みだ。ガーディアン・グループは、この部分を早急にかつ大きく増やすことを狙っている。

 ミラー氏によると、紙の印刷に関わるスタッフの一部をデジタル部門に移動させ、2016年までにデジタル収入を1億ポンドにする意向。同時に、この間に2500万ポンドの経費削減をする。

 デジタル収入をどうやって大きく増やすのかは、参考にした2つの記事は必ずしも詳細に書いていないが、まずは紙媒体の構成の変更、編集方針の変更(ニュースよりも解説)、人の移動などで順次やっていくようだ。

 現在、ガーディアンとオブザーバーには約1500人のスタッフが働き、630人が記者である。今回の動きで、人員削減はない見込み。
 
 「ジャーナリズムUK」によると、2006年、「ウェブ・ファースト」(紙媒体で出すまえにニュースをウェブサイトで出す)方式を英国で初めて導入したのはガーディアンだという(ガーディアン自身がそういっている)。

参考:
Guardian announces new 'digital-first' strategy amid losses
http://www.journalism.co.uk/news/guardian-announces-new-digital-first-strategy-amid-losses/s2/a544759/
Guardian and Observer to adopt 'digital-first' strategyhttp://www.guardian.co.uk/media/2011/jun/16/guardian-observer-digital-first-strategy
by polimediauk | 2011-06-18 23:30 | 新聞業界
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 このところ、大手企業や組織のウェブサイトがハッカー集団の攻撃を受け、ニュースになることが増えている。

 ウィキリークスがらみで、「アノニマス」という集団(といっても、ゆるいネットワークのようだが)がウィキリークスの活動へのシンパとして、ペイパルなどのサイトにサイバー攻撃をかけたことを覚えている方もいらっしゃるだろう。

 16日付のBBCなどの報道によると、いま騒ぎを起こしているグループのひとつが、「ラルズ・セキュリティー(Lulz Security)」だ。http://lulzsecurity.com/ 

 15日夕方、米CIAのウェブサイトが、おそらくラルズ・セキュリティーの仕業で一時開けない状態になった。

 大量の情報を送りつけてサーバーが動かないようにする攻撃の形をとったようだが、CIA自体はラルズの攻撃にあったとは認めていない。ラルズ・セキュリティーのツイッターのつぶやきで、CIAに攻撃をかけたことが分かった(つまり、推測された)、ということだ。(ツイッターはhttps://twitter.com/#!/LulzSec)

 ラルズセキュリティーは最近、数々の組織のウェブサイトにサイバー攻撃を加えてきた。

 BBCのサイトによれば、米国の番組「Xファクター」の出演者のデータベース(5月7日)、フォックス・コムのユーザーのパスワード(10日)、英国のキャッシュマシーン(現金支払機)の場所の一覧データベース(15日)、ソニー・ミュージックの日本のウェブサイト(23日)、米放送局PBS(5月30日)、ソニーピクチャーズのユーザー情報(6月2日)、FBI関連のインフラガード社のウェブサイト(3日)、任天堂の米サイト(3日)、ポルノのサイト、プロン・コム(10日)、米上院議員の政府サイト(13日)、ソフトウェアのBethesdaのサイト(13日)、イーブ・オンライン、リーグ・オブ・レジンド、ザ・エスケーピストなど複数のサイト(14日)。非常に忙しく動き回っている。

 ラルズ・セキュリティーのLulzラルズとは、大笑いを意味する「LOL(Laugh out loud)」をもじったものと言われている。

 ラルズ・セキュリティーはツイッターを通じて同組織の電話番号の詳細を公表した。その電話番号(米国)にかけると、フランス語のアクセントの強い英語を話す、「ピエール・デュボア」なる人物が答えるーそしてすぐ切れる。この電話番号は米国のオハイオ州を指すものだったが、ラルズ・セキュリティーが米オハイオにベースを置く、というのでもなさそうだ。

 BBCのウェブサイトのQ&Aを見ると、ラルズ・セキュリティーが何者かを分かっている人はいないようだ(当人以外は)。特に誰が指導しているというわけでもなく、ゆるいつながりのグループだという。

 以下はBBCの定義なので、ほかの見方もあるかもしれないが、ハッカーに関する説明が載っている。

 それによるとーーご存知の方も多いとは思うがーーハッカーたちは、もともとは悪い人たちではなく、学生たちのことだった。米マサチューセッツ工科大学を1950-60年代に通っていた人たちのあいだで、ハッカーとは、問題を解決する人を指していたという。MITの初期のハッカーたちは冗談好きだった。

 しかし、次第にコンピューター業界で使われるようになり、コンピューターのプログラミングに長けている人たちを指すように。専門的知識とクリエイティブな本能を併せ持つ、一種の尊敬の対象と見なされることも。

(追加)
アルクの英辞書の定義:
hack:他動詞の場合は
1.~をたたき切る、刈り込む、切り開く、切り刻む
2.《スポーツ》(球)をたたき切るように打つ、~にハッキングする
3.~をうまくやって行く、うまくやり抜く、やり遂げる、我慢する、耐える、許す
・I can't hack it anymore. : もうこれ以上耐えられない。
4.《コ》(コンピュータシステム)に不正侵入する、~にハッカー行為をする
5.~を解決する◆【同】solve


 いまや、ハッカーといえば、男性のイメージがあるが、これは、SF作家ブルース・スターリングなどが男性のハッカーたちを小説に書いたことがその一因だった。

 ハッカーの第一世代の話を書いたのが、スターリングの「ザ・ハッカー・クラックダウン」である。ハッキング用の雑誌も出ていて、有名なのは、「Phrack」「2600」など。ハッカーたちは、ハンドルネームとしてフライ・ガイ、ナイト・ライトニング、レフティスト、アービルなどを使ったという。グループでは、リージョン・オブ・ドゥーム、マスターズ・オブ・デセプション、ネオン・ナイツなど。

 ハッカーたちは、次第に政府と対立するようになって行く。1980年代や90年代、米国や英国では、コンピューターを社会に悪影響を与えるようなやり方で使った場合にこれを罰する法令が制定された。

 ハッカーたちへの弾圧が次々と行われ、その最も著名な事件は、1990年に起きたサンデビル作戦で、米国の諜報機関がハッカーたちを捕まえたのである。

 しかし、この作戦は、ハッカーたちの活動を根絶やしにすることはできなかった。どんどん、新しいハッカーたちや集団がでてきたのである。例えば、L0phtヘビー・インダストリーズ、ザ・カルト・オブ・ザ・デッド・カウ、ザ・ケイオス・コンピュータークラブ(ちなみに、この集会の1つで、今はウィキリークスのジュリアン・アサンジと元No2のダニエル・ドムシャイトベルクが顔を合わせている)など。人物では、ケビン・ミトニック、マフィア・ボーイ、ダーク・ダンテなど。

 1998年には、L0phtのメンバーの一人が、米国議会で、30分でインターネットをダウンさせて見せると公言した。

 ハッカーたちは、自分たちの好みによって、「ブラック・ハット」「ホワイト・ハット」「グレイハット」を選んでいるという。ホワイト・ハットは良い人で、ブラック・ハットとは犯罪行為に手染める人だそう。いまや、ハッカー行為は国境を超える。

 悪い奴か良い奴か??なのだけれど、ラルズ・セキュリティーのサイトを開けると、実に楽しい音楽が流れてくるー。http://lulzsecurity.com/

 「僕たちは、サイバー社会のつまらなさが、重要なことーー楽しむことーーの重荷になっていると考えるlulzyな個人の小さな集まりだ」とある。「1年中を通じて、楽しいこと、楽しいこと、楽しいことを広めたい」と。

 ウェブサイトの「リリース」というところを開くと、一番上に米上院のウェブサイトに関する情報がある。

http://lulzsecurity.com/releases/senate.gov.txt

 「私たちは米政府のことがあまり好きじゃない」、米上院のウェブサイトは「あまりセキュリティーが強くない」、「問題の解決を助けるために」ハッキングをした、と説明がある。

 その下に上院サイトのシステム情報がある。これは果たして「危ない」情報なのだろうかー?

 どことなく、痛快な感じがしてしまうのだが、いかがだろう。

参考記事
LulzSec hackers claim CIA website shutdown
http://www.bbc.co.uk/news/technology-13787229
A brief history of hacking
http://www.bbc.co.uk/news/technology-13686141
Q&A: Lulz Security
http://www.bbc.co.uk/news/technology-13671195
by polimediauk | 2011-06-17 06:01 | ネット業界
c0016826_1761582.jpg 米CNNの看板トーク番組「ラリー・キング・ライブ」が昨年末で終了し、その後を引き継いだ新番組のホスト役に抜擢されたのは、英国人で元デイリー・ミラー紙の編集長ピアス・モーガン(Piers Morgan)であった。

 モーガンは、英兵らによるイラク人への「虐待」写真が本物ではなかったことが分かり、同紙を解雇された過去を持っている。一体どのようにして、米国テレビ界のスター番組を担うところまで上り詰めたのだろう。モーガンの人気の秘密を、「英国ニュース・ダイジェスト」最新号(9日付)にまとめてみた。〔「英国ニュース・ダイジェスト」:http://www.news-digest.co.uk/news/index.php) 以下はそれに補足したものである。

―経歴

 左派系大衆紙デイリー・ミラーの元編集長で、今年1月から米CNNの新トーク番組「ピアス・モーガン・ツナイト」の司会者、ジャーナリスト。熱心なツイート利用者(@piersmorgan)でもある。1965年、英南部サリー州ギルフォード生まれの46歳。幼少時に父を亡くし、再婚した母と3人の兄弟とともに育つ。ハーロー・カレッジでジャーナリズムを勉強後、ロンドンの複数の地元紙に原稿を書く記者となる。大衆紙サンに転職し、ニューズ・オブ・ザ・ワールド紙の、そしてデイリー・ミラーの編集長に就任。2004年、ミラーを解任されてからは、月刊誌「GQ」でコラムを執筆するほか、テレビ界に本格的に進出。著名人とのランチの逸話などが入った「ザ・インサイダー」(2005年)など、著書多数。2010年、デイリー・テレグラフの記者シリア・ウォルデンさんと再婚。先妻との間に3人の息子をもうけた。クリケットが大好き。サッカーはアーセナルのファン。

―モーガンのこれまで

 25年間続いた米CNNの看板トーク番組「ラリー・キング・ライブ」の代わりとして、今年から始まった「ピアス・モーガン・ツナイト」の司会者であるピアス・モーガンのこれまでを振り返ってみる。

―28歳で日曜大衆紙の編集長に

 モーガンの幸運は、メディア王といわれるルパート・マードックにその存在を知られたことだった。学業を終えてロンドンの数紙の記者をしていたところ、マードック傘下の大衆紙サンに引き抜かれ、ゴシップ・コラムを担当した。このコラムを通じて芸能界のみならならず幅広い人脈網を築き上げたモーガンは、マードックの一声で、同じく同氏傘下の日曜大衆紙ニューズ・オブ・ザ・ワールドの編集長に、28歳にして抜擢された。

 しかし、日刊紙の編集長を夢見たモーガンは、1995年、ニューズ社のライバルとなるミラー・グループ発行の大衆紙デイリー・ミラーの編集長に鞍替えした。約10年に渡り、同紙の編集長としてダイアナ元皇太子妃やブレア首相(当時)を含む著名人、政治家などと頻ぱんに食事やお茶をともにし、人脈網を拡大させた。

 2004年、イラクのアブグレイブ刑務所での米兵らによるイラク人拘束者への虐待写真が暴露された。モーガンは、頭部に袋をかぶせられた数人のイラク人拘束者に英兵らが放尿するなどの虐待写真を1面に掲載した。衝撃的な写真はミラーの部数を伸ばしたが、この写真が偽物である疑惑が発生した。本物ではないとする見方が確定すると、モーガンは編集室から護衛付きで追い出され、解雇処分となった。

―カムバックへ

 モーガンの評判は地に落ちた。2005年、著名人との交流が興味深い、編集長時代の日記を元にした自著「ザ・インサイダー」が出版されると、「有名人好きの実態のない奴」「傲慢」というイメージがさらに強化された。

 その後、モーガンは政治家や著名人から思いがけない一言を引き出す人物として知られるようになった。2008年、雑誌「GQ」用のインタビューで、自由民主党党首ニック・クレッグの口から「30人ほどの女性と寝た」という文句を引き出した。2010年2月にはITVの番組の中でブラウン首相(当時)をインタビューし、首相が生後まもなく亡くなったジェニファーを思って涙する場面を作った。

 2006年ごろからはテレビ界に進出し、タレント発掘番組の制作者で友人のサイモン・コーウェルの口利きで、「アメリカズ・ガット・タレント」の審査員役になった。「コーウェルが友人だった」-ここに、モーガンの成功の秘密があった。その後は次第にテレビ出演の機会を増やし、米国テレビ界の重要人物になるべく、歩を進めた。

―人懐っこさと真剣さ

 モーガンの魅力は、下世話な話題へのあきることのない関心と普通であれば失礼と思われるような話題を相手に聞いても、決していやな気持ちを与えない、天然のソフトさであろう。今年1月から始まった「ピアス・モーガン・ツナイト」で、モーガンはコンドリーザ・ライス元国務長官に「あなたを誘惑するにはどうしたらいいですか」と聞いている。怒るどころか、ライスはこれに嬉々として答えた。
 「なんだか憎めない奴」として出演者がモーガンを許してしまうのは、モーガンの人懐っこさやその童顔の笑顔が効いているせいもあるだろう。

 その一方で、モーガンは時には「厳しい質問を放つジャーナリスト」という面も見せる。米軍によるオサマ・ビンラディン殺害の是非を映画監督マイケル・ムーアに聞く中で、ムーアが「オバマ米大統領の決断を支持する」、「オバマは言行が一致している」と話すと、「でもキューバの米グアンタナモ基地をオバマは閉鎖するといっておきながら、まだ閉鎖してないではないか」と切り返した。

ムーアのインタビューの一部:http://piersmorgan.blogs.cnn.com/2011/05/06/clips-from-last-night-michael-moore-on-bin-ladens-death-republican-party-focus/

 窮地を一瞬にして自分の利にする手際も抜群だ。米俳優チャーリー・シーンが番組に出演することになっていたある日、シーンは放送の打ち合わせに姿を見せず、番組が成立しない危機に見舞われた。オンエア5分前にシーンが放送局に入ると、モーガンはツイッターで「今、シーンがやってきました。この後、すぐ生中継です」と打った。このたった5分で、約50万人が番組にチャンネルを合わせたという。

 独自に作り上げた人脈網、著名人・有名人を取材対象として限定していること、持ち前のソフトさ、そしてこれに相反するようなジャーナリスティックな視点―そんな複数の要素を内包するモーガンは、これまでにいくつもの人生の浮き沈みを乗り越えてきた。本国英国よりも米国でもっと著名になる可能性もあるだろう。

―モーガンの人生の浮き沈み年表

1965年:誕生。幸福のスタート?
1987年:地元紙の新聞記者として取材に専念
1989年:サン紙の編集長ケルビン・マッケンジーに「才能」を見込まれ、芸能ゴシップ・コラム「ビザーレ」担当として引き抜かれる
1994年:メディア大手ニューズ社の最高経営責任者ルパート・マードックに気に入られ、28歳にしてニューズ・オブ・ザ・ワールド紙の編集長に就任
1995年:デイリー・ミラーの編集長に就任
2000年:IT企業ビグレン社の株購入にインサイダー取引の疑惑が発生。この件で部下二人が解雇された。
2002年:9・11米国中枢大規模テロの優れた報道で、ミラーが最優秀新聞賞を取る
2003年:BBCのドキュメンタリー番組に出演
2004年:英兵らがイラク人らを虐待する写真を掲載。偽装写真と判明し、編集長職を解任される
同年:チャンネル4の番組で司会役を務める
2006年:米国のタレント発掘番組「アメリカズ・ガット・タレント」の審査員に
2007年:本家英国の「ブリテンズ・ガット・タレント」(ITV)の審査員に
2008年:米著名人版の「アメリカズ・ガット・タレント」で勝利者に
2009年:世界各地を訪れる旅のドキュメンタリー「ピアス・モーガン・オン・・・」(ITV)が人気に。 
同年:著名人の人生を振り返る「ライフ・ストーりーズ」(ITV)開始
2010年9月:米CNNの「ラリー・キング・ライブ」が翌年から「ピアス・モーガン・ツナイト」に引き継がれると発表
2011年1月:「ピアス・モーガン・ツナイト」開始

―関連キーワード

Daily Mirror:デイリー・ミラー。1903年創刊の大衆紙。英国で元祖新聞王といわれるアルフレッド・ハームズワース(後のノースクリフ卿)が、女性が作る女性のための新聞として創刊した。当初部数が伸び悩んだ。1904年、全員が女性だった編集陣は解雇され、男性編集長ハミルトン・ファイフェの下に、写真を中心にした紙面に変えて再出発。第2次大戦中、兵士や国民の思いを汲み取る新聞として部数を大きく伸ばした。1940年代末から1960年代半ばが人気の頂点で、500万部の部数を誇った。その後はセックスとゴシップを前面に出したライバル紙サンの攻勢に、大衆紙トップの座を奪われた。左派系ミラーは労働党を一貫して支持する。現編集長はピアス・モーガンの後を継いだリチャード・ウォレス。
by polimediauk | 2011-06-09 17:04 | 放送業界
 
 
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 知人から教えてもらったのですが、原発で働いた人たちが、その後、様々な健康被害に苦しんでいること、何故危険な原発作業員になったかなどを、カメラマン樋口健二さんが丹念に追った25分間の動画があります。

 「隠された被爆労働 -日本の原発労働者」という題で、1995年に英チャンネル4で放映されたとのことです。

http://video.google.com/videoplay?docid=4411946789896689299#


 この件にご関心のある方は、是非、ご覧ください。

 1995年時点から、2011年の現在までに、作業員が働く状況は大きく変わっているのでしょうか?(もし分かっている方は教えてください。)「もうすっかり、状況は変わっているよ」という声が届くことを期待しています。
by polimediauk | 2011-06-06 02:40 | 日本関連
c0016826_18293049.jpg ロンドンに住む知人から、「冬の兵士」(岩波書店)という本を頂いた。知人は本の校閲に関わっていた女性である。

 副題に「イラク・アフガン帰還米兵が語る戦場の真実」とある。米国では「反戦イラク帰還兵の会(IVAW)」という組織が2004年、発足したという。

 この会が、「イラクからの即時無条件撤退」「退役・現役軍人への医療保障そのほかの給付」「イラク国民への賠償」の3つを掲げて行動を開始し、2008年、「冬の兵士」と題した公聴会を開催したのだという。公聴会では多くの兵士が戦場の実態を語り、その証言をまとめたのがこの本だ。

 2008年の話、そしてイラクに行った米兵の話ということで、いま英国に住む自分からすれば、この本に出会わなければ、公聴会のことやこの会のことを知らないでいただろうと思う。

 英国では中東のニュースが非常に多い。イラク、アフガン戦争では、米英兵の死を聞くたびに、私はイラクやアフガン国民の犠牲者や死者も同時に気になってしまう。米英兵よりもイラク・アフガン国民で亡くなった数のほうがはるかに多いはずー。どことなく、こう言ってはなんだけれど、「加害者側」の話を聞くつもりで、やや身構えて本書を読みだした。

 最後まで読み終えたとき、私は、イラク戦争に関わる様々な断片の事実が、この本によって裏付けられたことを知った。

 ウィキリークスが広く世界に知られるようになった1つのきっかけは、バグダッドにいたロイターの記者などを含む市民を、米軍のアパッチ戦闘機から銃撃した動画が、昨年4月、公開されたことだった。動画は、兵士たちがまるで戦闘行為を楽しんでいるかのような声を伝えた。たった一つの動画。でも、これが「たまたま」ではなく、日常茶飯事で、時にはもっとひどいことが行われていたことが、「冬の兵士」を読むとわかる。ウィキリークスが大手報道機関と一緒に公開した、イラクやアフガンでの米軍戦闘記録から見えてきた市民たちの犠牲は、決して偶然ではなかったことを、「冬の兵士」の証言が教えてくれる。

 私は、本を読んでいる途中で、思い出したことがあった。イラク戦争の初期、米兵らが民家を「捜索」する映像が英国のテレビ局で放映された。その家に、テロ要員がいるらしいのだ。武装した数人の米兵が家の中に入ると、おびえた市民たちがいた。私が衝撃を受けたのは、米兵らがおびえるイラク人の前で、英語で怒鳴っていることだった。「男たちはどこへ行ったんだ?」「立ち上がれ、立ち上がれ、と言っているのが分からないのか!」と怒鳴り続けていた。普通のイラクの民家に入って、相手が英語が分かると何故思うのか、不思議でたまらなかった。何故、少なくともイラクの言葉で話しかけないのかー?ほんの小さな断片の話。でも、似たようなことがイラク中で起きていたことが、ウィキリークスや「冬の兵士」で分かるのだ。

 「交戦規則」というものがある。これは、「国際的に承認された」諸規範により、「戦闘に動員された兵士の行為として法的に許されるものと許されないもの」を規定したものだ(19ページ)。「双方の兵士を拷問や虐待の危険から守り、罪のない民間人が不必要に殺害されないよう保証することを意図している」という。

 しかし、この規則は、戦争が続くにつれ、有名無実化してゆく。「不安を感じたら誰でも撃って良い」になり、最初の殺しをナイフで実行したら帰国休暇の日数を増やしてやる、と上官が言うようになる。暗黙の了解として、うっかり市民を撃ち殺してしまったときのために、武器やシャベルを持参していたとある兵士は語る。武器を死体の上に置いておくだけで、「抵抗分子のように見せかけることができるから」(30ページ)だ。さらには、この兵士は、イラク人がシャベルか重そうなバッグを持っているか、どこかに穴を掘っていたら、それだけですぐ撃っていいと上官から言われるようになった。

 ほかの兵士は,亡くなったイラク人にはまったく敬意を払わなくなり、あるイラク人の男性の顔の一部を見つけると、ヘルメットをかぶせ、写真を撮っていた。この兵士は、「罪のない人々に憎しみをぶつけ、破壊をもたらしたことを謝罪したい」と述べた。イラク人の死体とともに記念写真を撮るのは、日常茶飯事であったと別の兵士が証言している。

 殺害を行う圧力に耐えられず、自殺した海兵隊の話も紹介されている。

 次々と証言を読んでいくと、最初は「人殺し」をした兵士たちに不快感と疑問を感じるが(何故人を殺害するような仕事に志願したのか、何故一度のお勤めを終わって、また続行するのかという気持ちが、読む間中、常にあった)、耳や目をそむけたくなるような行為こそが、戦争の真実・実態である、ということでもあろう。

 若き兵士たちが大きな機械の1つの歯車になって実際の人殺しを担当し、心身ともに摩滅してゆく様子を知り、人殺しをさせる戦争という仕組みそのものに対する怒りがわいてくる。

 戦争という仕組みの中で、有名無実の交戦規制の下、多くのイラク人を殺傷することを強いられた兵隊たち。兵士たちを後押しするのは、米国の政治家や国民による、イラクに米兵を送るという決断だ。米兵たちは、イラクやアフガンの国民からすれば、加害者そのものだろう。「犠牲者」か「加害者」かと二者択一で分けられるものでもないのかもしれないが、イラクやアフガニスタンの国民には選択肢がなかった。市民レベルでは、戦争に同意したわけではない。勝手に始まった戦争で、傷つけられ、殺されている。しかし、兵士となった米国民は、少なくとも志願したという意味では、その人生を選択したことになる。

 ―とは思うけれど、そんなことは、戦争に行ったことがなく、のほほんと英国で暮らしている私が(他の人が戦っているからこそ、平和であるのだろうから)漠然と考えるたわごとに違いない。

 武力を持って相手を殺しあう戦争という仕組みがなくならなければ、いつまでも、加害者が、犠牲者が、死者が、遺族が出る。

 数日前にも、またひとり、英軍兵士がアフガニスタンで攻撃を受けて、命を落とした。10年前の開戦から、もう300人以上の英兵が亡くなっている。しかし、アフガンでは、300人どころから、数千人規模で人が亡くなっているはずだ。

 自分が実際に手を下す代わりに、誰か他の人が、自分や自国の「敵」と戦っている結果、多くの人が平和な世界に住んでいる。兵士によって守ってもらっている平和を享受する人間は、兵士の殺害行為の共犯と言えなくもない。実際に人を殺し、かつ自国側も兵士の死を出す英国に住んでいると、この矛盾あるいは欺瞞をどうしたらいいのか、と思う。軍隊を持つことを肯定している国、英国。「一切の戦争がなくなってほしい」と考える自分は、「義務を果たさないのに、恩恵だけもらおうとしている」とも言えるのではないか?英兵の死の報道を聞くたびに、そんなことを、日々、感じる。一刻も早く完全撤退してもらいたいーひとり、またひとりと英兵の訃報が出るたびにそう思う。

***

 「冬の兵士」は、読んで、考える本。是非、実際に手にとってみていただきたい。
by polimediauk | 2011-06-04 18:30 | イラク
 アマゾン・キンドルを購入してから数ヶ月が経った。ある原稿を書くために必要となった本(新刊)が電子書籍のみの販売で(仕方なく)、エイヤっと思ってキンドルを買った。PCにキンドルのソフトをダウンロードしたので、PCでも読めたのだけれども、とりあえず。

 その後、ノン・フィクションの新刊を一冊買い、あまり面白くないので読むのをやめた。今は長い小説(紙だと800ページを超える)を楽しんで読んでいる。今日、取材に出かけたときにかばんに入れると、軽くてよく、早めにアポイント場所についてしまったので、続きを読んでいた。紙の本だったら、持って歩けなかっただろう。

 キンドル版は普通にアマゾンで買うよりも本の価格がやや安いこともあって、これからも少しずつ買いそうである。目が疲れにくいというのもうれしい。もちろん、字をでかくできることも。キンドルは自分の英国アマゾンの口座に直結しているので、例えばほかの国のアマゾンの口座(日本など)では本が買えないのどうか、分からないのだけれど。

 5月19日、米アマゾンがキンドルの売上げに関するリリースを出している。
Amazon.com Now Selling More Kindle Books Than Print Books
http://phx.corporate-ir.net/phoenix.zhtml?c=176060&p=irol-newsArticle&ID=1565581&highlight

 印刷された本よりもキンドルの電子書籍が売れているーというもので、例えば4月1日以降、100冊の紙の本がアマゾンを通じて発売されたとしたら、105冊のキンドル本が売れたという。昨年7月以来、キンドル本はハードカバーの本(いずれもアマゾンを通じて、という意味)の売上げを超えた。今年1月までには、ペーパーバックの本の売上げを超えたという。

 ちなみに、リリースによれば、アマゾンが本を売り出したのは1995年で、キンドルを米国で導入したのは2007年11月だという。

 しかし、キンドルの本の売り上げがハードカバーとペーパーバックの本の売上げを超えたというのは米国の話であって、英国アマゾンでは、「売上げを超えた」のはハードバックの本のみ。ただし、4月1日以降、紙の本の倍の数のキンドル本が売れているという。英国でキンドルの販売が開始されたのは1年ほど前だ。

 メディアのニュースを扱うペイドコンテンツ(5月19日付)によると、英国では「ペーパーバックのほうがハードカバーよりたくさん印刷されているので、まだペーパーバックの売上げをキンドルが抜く事態には至っていない」と分析している。


Amazon Hasn’t Yet Reached UK Digital Books Tipping Point
http://paidcontent.co.uk/article/419-amazon-hasnt-yet-reached-uk-digital-books-tipping-point/

 この記事の中に、ボーカー(Bowker)という企業が行った、すべての書籍購入者の中の電子書籍を購入した人の割合をグラフにしたものが入っている。

 これによると、今年1月時点で、英国での割合は3・3%である。ずいぶんと低いんだなと思った。ちなみに、米国では12・7%である。これからドンドン伸びてゆくのかもしれないが、「電子書籍ブーム」と聞くと、いかにももっと多い感じがしていた。こんなものなのだな、と思ったグラフであった。


参考関連記事
 
Not So Fast, Tablets: New Reports Say Long Road Ahead
http://paidcontent.co.uk/article/419-not-so-fast-tablets-new-reports-say-long-road-ahead/

Comparing E-Readers | May 2011
http://paidcontent.org/table/comparing-e-readers-may-2011
by polimediauk | 2011-06-03 01:26 | ネット業界
 3・11震災前と後では、日本に住む人の心の持ちようや考え方にーーたとえ自覚はなくてもーー何らかの違いがでてきているのではあるまいか?そんな気がするこの頃だが、ジャーナリスト佐々木俊尚氏の「キュレーションの時代」を、3・11前に大変興味深く読んだ。

 今でも、読んだ後の衝撃は変わっていない。しかし、その「衝撃」の大部分は個人的なものである。それでも、同様の思いをもたれた方もいらっしゃるかもしれないので、書いてみようと思う。

 この本を読んで、第一義的には、「キュレーション」(「無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること」-扉の中の文章からー)というアイデアが斬新で、いろいろと考えることがあった。同時に、同氏による日本社会の空気(=考え方)のつかみ方に、はっとさせられた。

 おそらく、佐々木氏の本というのは、メディア関係者、マーケティング関係者(=モノを売りたいと考える人)、ITに興味のある人(=若い人すべて)などが、主な購買者ではないかと思うー想像だが。つまり、「これから何が流行るのか」「マスメディアの将来はどうなるのか」「IT機器をどうやって自分のものにして使うのか」「グーグルやソーシャルメディアの意味や使い方はどうするのか」を知りたい人が興味を持つのではないだろうか。もちろん、私もそんな読者の一人なのだが。

 しかし、私にとっては、段々と、「次に何が流行るか・売れるか・マスメディアはどうなるか」という話よりも、佐々木氏が現在の日本社会をどう見ているのかがおもしろくなった。メディアの将来とかはもう語りつくされたような気がするのでー。

 「キュレーションの時代」は情報化時代の将来を書いたものであるから、本来はそういう視点から読むべきであろうが、自分にとっての大きな衝撃は、この本を読んで、「自分が、何故日本から遠く離れた英国に住み、今こうやって生きているのか」を、思いがけなく問われ、胸が突かれる思いがした。英国から、東京を、そして家がある秋田を一つの線上につなげて振り返ったのは、初めてだった。

 この本の92ページから、映画「青春の殺人者」の話が紹介される。千葉県の田舎町に住む、水谷豊が扮する若い青年が主人公。干渉が過ぎる母親を持つ青年は、ガールフレンドとスナックを経営している。ビジネスはうまく行かず、店は暴走族のたまり場に。青年は父親を殺害する羽目になり、しがみついてきた母親も殺してしまう。青年は、店に火をつけ、田舎町を逃げるようにして去ってゆく。

 映画のモチーフは、「どこにも逃げる場のない苦しさ」だった(「キュレーションの時代」、以下同)。「1980年代まで」、多くの人にとって「自分がいま生きているこの場所」からの逃走が「人生における重要なテーマの1つだった」。

 次に紹介されているのが永山則夫の事件。これは、1960年代末、19歳の永山青年が、各地で人を射殺し、逃亡した事件だ。つかまった後書いた小説がベストセラーになった。1997年、48歳で死刑となり、この世を去った。

 永山青年は青森県出身で、東京に集団就職で出てきたが、東京の人は「貧しい田舎者」としか見てくれない。佐々木氏は、社会学者見田宗介氏の言葉から、永山青年は「まなざしの囚人(とらわれびと)」になっていたという。「まなざし」とは「人々のアイデンティティーをパッケージによってくるみ、そのパッケージで規定することを強要してしまうこと」だ。永山青年は「牢獄のようなパッケージングのまなざしから逃れ、自由になろうと戦い続け」た。しかし、「パッケージの地獄に陥るばかりだった」。

 ここまで読んだとき、「青春の殺人者」の主人公や永山青年の息苦しさ、「まなざしのとらわれ人」のつらさが本当に心に迫ってきた。それは、私自身が秋田や青森で育ったことがあって、学校のことや田舎の家のことなどを思い出したからだ。私は秋田や青森に住んでいたときに、実際に「息苦しい」と思ったわけではなかったはずなのだがー。しかし、「秋田や青森=息苦しさの象徴」というわけでもないので、どうかこの地方に住んでいる方はお気を悪くしないでいただきたいのだけれど、1970年代まで地方都市に住んだ子供時代の自分が、この本のこの箇所を読んだとき、実は深い意味での息苦しさを経験していたようだと、我ながら、初めて気づいた。

 この「息苦しさ」といのは、おそらく、その時代の空気がそうだったのである。いま(2011年)と比べれば、窮屈さが確かにあった。例えば、私の母は家で内職をしていたが、まず主婦が仕事を持つだけで、サラリーマンの父が肩身の狭い思いをするという時代だった。家族だけで固まって、ひっそりと生きていた。今思うと、閉じられた空間の中で、父を家長とするヒエラルキーの中に生活があった。ロック音楽を聴きだしたのは16歳頃だが、隣町のレコード店で、欲しいレコードを注文し、これが家に届くまでに少なくとも1週間以上はかかったのである。

 私は、地元の中学を終えると、電車に乗って、隣町の進学校に入った。その後は大学に入るために東京に出たので、学校も生活もすべて地元の町の中での生活というのは、15歳まで。「一日も早く、家を出たいものだ」と思ったのは12-13歳の頃。18歳になると、待ちきれないように、東京に向かった。20数年東京に住んで、2002年からは英国に住んでいる。思えばずいぶんと遠くまで来たものだ。
 
 最初は、無意識だが次第に窮屈に感じていたのは生まれついた家庭であった。決して裕福ではなかったが、両親から愛されている充足感があった。それでも、家のことは両親が決めるというヒエラルキーの中から出て、自分で自分のことを決めたかった。その周りの環境もーーいま思えばだがーー息苦しいことが多かった。何せ、女性は学校を出たら働くことを期待されておらず、大学を卒業したら、就職口は「地元の学校の先生」。それしかなかったのである。〔学校の先生になることが悪いというのでは決してなく、選択肢がほかにないという意味。)

 それから英国に向かったのは家族の事情であり、日本が息苦しいと思っていたわけではなかった(ただ、これもいまになって思えば、会社生活は相当息苦しかった。それでも、そういうものだと思って生きていた)。しかし、家のある町から東京へ、そして東京から英国に来る流れの中で、自由度が大きく増したのは間違いがない。英国から東京での生活を振り返ってみると、いろいろな決まりごとが多く、「女性だから」「xx歳だから」などと、どんなにがんばってもあるいはがんばらなくても、それこそ、「パッケージで見られる」ことが多かった。こうした社会のまなざしから、どうしても逃れられなかった。(一つ付け加えると、自由度が増したのは、私が年を取ったせいも大いにあると思う、住む場所を変えただけではなく。自分自身が年長者になり、自分の人生を良かれ悪しかれ、自分自身の決定の結果であるとして、よりあるがままに受け止められるようになった、と。) 

 そして、私が佐々木氏の本のこの部分を読んで涙が出たのは、自分としてはほんの偶然でここ英国にいるのだとその時まで思っていたけれども、実際には、自分は「息苦しさから逃れてきた、逃げてきただけなのではないか」と、はっとしたからだった。

 どうして、自分は「逃げて」しまったのだろう?何故、その場で状況を自分が生きやすいように変えようとしなかったのだろう?これまでの人生で、自分は十分にやるべきことをやってきたんだろうか?何かを置き去りにしただけではなかったのかー?自分の田舎の家や、友達や家族の顔がありありと目に浮かんだ。

 しばし私は呆然として、佐々木氏の本に戻ったのは少し時間が経ってからだった。

 佐々木氏の本は、102ページから、11歳の少年を殺害した酒鬼薔薇少年の話になる。「ムラ社会は消え、透明な僕が始まる」という見出しがついた箇所である。社会学者大澤真幸氏の見方が紹介され、この少年にとっては、まなざしの「不在」が地獄であったのだ、という。この後、2008年の秋葉原連続殺人事件での加藤被告の話が続く。

 「農村、そして戦後は企業が社員を丸ごと抱え込み、そこに息苦しいほどのコミュニティを形成するという社会構造は90年代以降崩壊に向かい、『どのようにして自分は他人に承認されるのか』という、新たなテーマが日本社会の中心に躍り出て」きたという。

 90年代以降は、「かつてのような息苦しさはなくなり、逃走願望は消えてなくなり、風通しがよく、まるで風の吹き抜ける荒野にひとり立たされているような関係性へと変わってきた」。

 そして、「他者からの承認と社会への接続こそが、透明で風通しの良い新たな社会構造における、人々の最大のテーマになって」いる(115ページ)。

 こんな社会の「消費」とは、「消費するという行為の向こう側に、他者の存在を認知し、その他者とつながり、承認してもらうというあり方。そういう承認と接続のツールとしての消費」である。

 この後の詳しい話は(マーケティングの将来やメディアのあり方に関して実用的に知りたい方は)是非、本を手にとっていただきたいが、私が特に興味を引かれたのは、「視座」の話である。

 例えば、ツイッターである。ツイッターで、誰かをフォローすると、自分のタイムラインにその人のつぶやきが入っている。つまりその人の「視座」(佐々木氏)だ。「他者の視座へのチェックイン」で、「世界が驚きに満ちていることが分かる」という。そして、様々な視座の提供者=キュレーターというわけである。

 また、「そもそも会社や業界のような、自分を繭のようにくるんでくれるコミュニティーなんていまの日本に存在しない」(256ページ)という箇所も心に残った。

 私がもろもろ考えるのは、つまるところ、キュレーションの時代の意味するところは、これからは「個人の視座の時代」になってゆくのかな、と。

 だとすれば、日本社会の将来は明るいーそんな思いがした。「パッケージ」で考えない、個人の視座の時代は、そうでない時代よりも、もっともっと自由があるはずだー発想にも、生き方にも。

 ただ、「個人の視座の時代」はまだ完全には現実になっていないと、特に3・11震災の後に、思うのだけれども。

 おそらく、私の読みは非常に個人的な読みであろうけれど、佐々木氏の「キュレーションの時代」、読み応えのある一冊だった。どんな人にも薦めたい。今後は震災後の日本社会をテーマに佐々木氏は本を書くそうであるから、これもまた、楽しみである。


 

 

 

 
 
by polimediauk | 2011-06-01 20:56 | ネット業界