小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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<   2014年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧

 (以下は新聞通信調査会発行の月刊「メディア展望」=7月1日号=に掲載された、筆者記事に補足したものです。時制を過去形にしている部分があります。敬称略。)

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 第1次世界大戦の勃発から今年で100年になる。主戦場となった欧州各国では、今年に入ってからさまざまな記念行事が進行中だ。新聞は特集記事を組み、テレビやラジオは特別番組を放映している。大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」(1914年6月28日)、オーストリア・ハンガリー帝国によるセルビアへの宣戦布告(7月28日)、ドイツ、ロシア、フランス、英国の宣戦布告(8月上旬)といった大きな節目の時に向けて盛り上がりを見せている。

 第1次大戦は連合国側(フランス、英国、ロシア、イタリア、米国、日本、セルビア、中国など)と中央同盟国側(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、ブルガリアなど)との間の戦いだが、戦場は中東、アフリカ、アジア太平洋地域にも広がった。戦闘員、民間人を含む犠牲者はもっとも大きな推定数では約3700万人(戦没者は約1600万人、戦傷者は約2100万人、各種統計によるーさまざまな説があることをご了解願いたい)という前代未聞の巨大さを記録した。飛行機や戦車が初めて本格的に導入され、化学兵器も初めて使われた。

 本稿では、第1次大戦から100年の欧州での記念行事から垣間見える各地の事情を紹介した後、筆者が住む英国での大戦の捉え方について詳細した。

 原稿の中には含まれていないが、ロシア、トルコ、「ガリポリの戦い」(1915―16年)で苦い体験をしたオーストラリアやニュージーランド(英連邦の一部として参戦)、米国そして日本でも個別の事情、捉え方があるだろう。こうした点については、後日、別の執筆者の方が論考を展開してくださる機会があればと思う。

なぜ100周年記念を行うのか

 なぜ100年も前に起きた戦争のことを今振り返り、国民全員が参加するようなイベントを行うのかという点について、若干補足したい。

 一つには欧州が主戦場であったこと、その「跡」まだ残っていることが挙げられるだろう。「跡」とは建物、戦闘場所、墓地、人など。元兵士たちはすでに故人になっていても、自分の父あるいは祖父が大戦に行ったということで、故人との生活体験があったり、写真など故人をしのぶ物を保管している場合が少なくない。

 第1次大戦、第2次大戦の両方で勝利者側に位置し、現在でも世界の紛争解決に軍隊を派遣する英国では、大戦の兵士たちは英雄だ。

 毎年11月の「戦没者追悼の日」(「リメンバランス・サンデー」)の黙祷は、第1次大戦とその後の第2次大戦で勇敢に戦った兵士たち、現在の英軍の兵士たち、その家族、そして軍隊を持つことで国民を守る仕組みになっている英国全体に思いをめぐらせる時だ。

 100周年記念は歴史に学ぶ努力の一環でもある。記憶は大人でも風化しがちだ。だからこそ、「記念日」を重視し、この機会に改めて学べるような努力を政府や民間団体が続けている。

 過去を検証し、問いかけをする意味もある。戦没者、戦傷者ともに千万人規模となり、以前の戦争とは比べ物にならないほど大きな人的被害が生じた。さらに第2次大戦が後に続いたことで「第1次大戦は無駄だったのではないか」という疑問がわく。こうした疑問への答えを市民が望み、歴史家、学者、ジャーナリストらがさまざまな論を展開している。

サラエボ

 1914年の戦争勃発のきっかけは、ご存知のようにオーストリア・ハンガリー帝国のフェルディナント大公夫妻が、サラエボ(現在、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で暗殺された事件だ。ボスニアは当時、帝国に併合されていた。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ地域にはボシャニク人、セルビア人、クロアチア人など複数の民族が住んでいたが、セルビア人の一部は国境を接する隣国セルビアやほかの南スラブ諸国との統合を望んでいた。セルビア人住民の中で、併合を不服と思う民族主義のグループが大公の暗殺を計画。6月28日、帝国の次の皇帝になるはずだった大公と妻のソフィアは、サラエボを表敬訪問中に暗殺グループの攻撃にあった。いったんは難を逃れたものの、後に車中にいたところ、グループの1人ガブリロ・プリンツィプによってピストルで撃たれた。夫妻は助からなかった。

 今年6月9日、100周年記念イベントの1つとして、サラエボ博物館が特別展示を開始した。フェルディナント大公、プリンツィプの顔をイメージした作品を陳列したほか、博物館の前がピストルが発射された場所でもあるため、プリンツィプがどのような経路をたどってその場に居合わせたかを再現した。

 展示以外にも、6月28日前後には大戦の原因を検証する会議や、現在の視点から大公やプリンツィプの存在を振り返る会議が開催された。改装されたばかりの市庁舎でウイーンフィル管弦楽団による記念コンサートも行われた。「平和イベント、サラエボ2014年」と題したイベントに出席するため、世界中から平和活動家や若者たちが集まり、ワークショップ、セミナー、討論会などに参加した。

 暗殺場所に近い橋(「ラテン橋」、あるいは「プリンツィプ橋」)の上からはボスニアのアーチストたちが平和のパフォーマンス「幾つもの戦争の世紀の後に平和の世紀」を実行。「20世紀に少なくとも1億8700万人が戦争で亡くなった。2014年6月28日という象徴的な日に、世界に平和の力強いビジョンを送りたい」(パフォーマー集団の声明文より)。

 プリンツィプの評価は民族によって異なる。セルビア人にとっては民族のために立ちあがった英雄だが、クロアチア人住民にとってはテロリストで、大戦の開始につながったオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊に喜ぶ気持ちにはなれないという。

 ボスニア・ヘルツェゴビナはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国(セルビア人共和国)の2つの部分で構成されている。ニュースサイト「バルカン・インサイト」(6月10日付)によると、スルプスカでは政府レベルではサラエボ事件を記念する式典は特に計画されていないようだ。

 サラエボが「平和のメッセージ」を送るのは理解できるとしても、「ボスニア・ヘルツェゴビナとしてはふさわしくない」と主張するのが同国の国際法教授ザリエ・セイゾビッチだ。

 「バルカン・インサイト」(6月13日付)のインタビューで、教授は「この地域全体は平和のメッセージを送るほどの資質を持ち合わせていない」と語る。ボスニア・ヘルツェゴビナには他民族を排除するために暴行や虐殺などを行ってきた過去がある。1994年、ボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間に停戦が成立し、翌年、米国が間に入って和平合意が調停されたが、民族間の緊張感は消えていない。

フランス

 フランス(戦没者約170万人、内民間人約30万人)は、100周年の記念行事を「国家の結束の時」と定義付ける(政府ウェブサイトより)。2014年から終戦から100年の18年の間に数々の記念行事を予定している。その意義は「第1次大戦の教訓を学ぶこと」だ。「ともに結束する時の国家の力強さ」を改めて教える時でもあるという。欧州が一つになっているからこそ、「連帯と平和が保障」されていると説明されている。

 フランスでは7月14日、共和国の成立を祝う日(「パリ祭」)に、毎年軍事パレードを行うが、今年は同時に「平和の行進」を行った。第1次大戦に関与したすべての国の市民の参加を呼びかけ、70カ国以上が参加した。

 ドイツに宣戦布告された8月3日には100周年の記念式典を行い、9月にはベルギーを突破したドイツ軍をフランス軍がマルヌ河畔でくい止めたマルヌ会戦から100年を祝うイベントの開催を予定している。

 休戦日(第一次大戦の停戦条約が締結された11月11日)には大戦で亡くなったすべての兵士を追悼する記念碑が公開される。西部戦線で亡くなった約60万人の兵士の名前が、国籍別ではなくアルファベット順に記されているという。「自国のために、兵士たちは互いに戦った。人類愛の名前の下に今は隣同士として一緒になれる」(オランド仏大統領)。

 関連の展示、コンサート、式典、議論などを運営するために、公的組織「100周年ミッション」を立ち上げた。歴史を風化させないよう、市民は第1次大戦にかかわる手紙、スケッチ、新聞、写真などを持ち寄り、画像スキャンをすることで、コレクションを美術館に収められるようにした。

ドイツ

 政府が中心となって100周年を記念するフランスと異なる様相を示すのがドイツ(戦没者約247万人、内民間人約42万5000人)だ。

 英ガーディアン紙が伝えたところによると(3月2日付)、ドイツ政府が100周年式典関連のために使う予算は450万ユーロ。フランスや英国のそれぞれの政府の関連予算が約6000万ユーロで、オーストラリアの5000万ユーロ、ニュージーランドの1000万ユーロと比較しても、ずいぶんと低い金額だ。

 450万ユーロはベルリンのドイツ歴史博物館やドレスデンの軍隊博物館での特別展示に使われる予定だ。フランス・アルザス地方のかつての戦場に建てられた仏独による第1次大戦博物館にも資金を提供する。

 ドイツ政府の関連予算が判明したのは、国会で「左翼党」(「リンケ」)の議員が質問をしたためだ。メルケル首相が記念式典に出席する予定はなく、大臣2人が海外での記念式典に出席するだけだという。左翼党はこれまで戦争に批判的な立場をとってきたが、質問をしたセビム・ダグデレン議員は「新しい世代に戦争の恐ろしさを教えることが必要だ」と思うようになったという。

 連邦レベルでは大きな予算があてがわれていないものの、第1次大戦の記念行事は数多く行われている。中心主体の1つが慈善団体「ドイツ戦没者の墓委員会」で、各地で実施予定のイベント(戦没者の追悼、討論会、講演会、展示など)をウェブサイト上で紹介している。

 委員会は第1次大戦を「欧州市民の生活、社会、国家を変えた」と表現。「(大戦の)集合記憶としての悪夢、その原因や結果を共有する思い出は、欧州統合の過程への欠かせない部分であった」と定義付けた。「追悼の方法はその国によって異なるが、現在の私たちは、金融や経済の問題を解決するために人工的に作られたコミュニティーを超えた存在だ」―。

英国

 英国では、陸海空軍は現役で活動しており、国民生活の一部となっている。過去の戦争を題材にした書籍、雑誌、テレビやラジオの番組、新聞の特集なども日常的な光景だ。毎年秋になると、戦争の犠牲者への追悼を表す赤いケシの花の飾りをいっせいに上着の襟に付けるのが慣わしだ。つい先日も第2次大戦で欧州戦線の転機となったノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日)から70年の記念式典を大々的に開催したばかりだ。

 第1次大戦の100周年では、関連書籍が続々と出版され、テレビやラジオでも特集番組が放送されている。8月1日には大戦についての国際会議をロンドンで開催。英国が参戦した4日には全国各地で記念式典が開催され、エリザベス女王夫妻が出席する。帝国戦争博物館では特別展示が開催中で、国立公文書館では第1次大戦に関係する書類、日記、地図などがまとめて公開されている。

 英国内の各地にある戦争記念碑をケアするための運動や学校の遠足や小旅行として戦場を訪れるツアーもある。記念行事は今年で終了せず、戦争終結から100年の2018年まで続く。

なぜ参戦したかの問い

 今年2月末、BBCが「果たして英国は第1次大戦に参加する必要があったのか」を問う番組を放送した。

 戦争のきっかけがサラエボ事件であることは衆目の一致するところだが、なぜフランス、ロシア、ドイツ、そして海をはさんだ英国までも次々と参戦してしまったのかについては諸説あるようだ。よく挙げられるのは欧州大国間の軍事上の対抗意識、ナショナリズムの台頭、領土問題、海上制覇にむけての戦い、入り組んだ同盟関係、外交の失敗など。

 英国で参戦の必要性について疑問の声が上がる背景には、大戦以前には想像もできないほどの大量の死者(約99万5000人の戦没者、内民間人10万7000人、英領他国は含まず)を出してしまったことへの衝撃もある。所詮は(少なくとも当初は)海を隔てた場所での戦争であったことから、宣戦布告と言う当時の政府の決断が間違ったものではなかったか、犠牲者を出さずに済んだのではないかという問いが出てくる。

 番組は2部構成になっており、最初が「テレグラフ」の編集長だったこともあるジャーナリストで、戦史の本を何冊も出してきたマックス・ヘイスティングスがナレーターとなる「必要な戦争」。第2部はスコットランド出身で米ハーバード大学などで教える歴史学者ニアール・ファーガソンによる「戦争の悲哀」。ファーガソンは番組名と同名の本を先に出版している。

 ヘイスティングスは戦地や墓地を訪ね、複数の歴史学者にインタビューしながら、「必要な戦争だったのか」を検証してゆく。その結論は、大戦は大きな悲劇だったが、避けられないものだったとして、参戦の意義を認めた。

 ヘイスティングスによれば、1914年当時、ドイツは欧州制覇を狙っており、オーストリアがセルビアに侵攻することを奨励した。そのドイツが中立国ベルギーに侵攻したとき、英国はドイツに宣戦布告をせざるを得なくなった。1839年のロンドン条約で、英国はベルギーの独立と中立性を保証していた。欧州で孤立するわけには行かず、中立国が侵攻されるのを黙ってみていることはできなかった。「100周年は大喜びのときではないが、子供や孫に対し、上の世代が戦ったのは無駄ではなかったと伝える時だ。ドイツが勝っていたら、欧州は多大な犠牲を払っていただろう」。

 一方のファーガソンは第1次大戦が無駄だったと主張する。スタジオ内でグラフを立体化したモデルや、大戦時のドキュメンタリー映像も見せて、持論を紹介。英国の参戦は「死者を出したことで悲劇だった」ばかりか、全体主義の時代や虐殺を生み出した「大きな間違いだった」と述べた。また、大戦はいかに人間が暴力を好むかを示したとも主張した。ファーガソンはスタジオに数人の歴史学者とともに観客を入れた。

 興味深いのは学者の大部分がファーガソンの見方に賛同せず、「論理が破綻している」などと批判したことだ。筆者自身もファーガソンの主張はやや強引で、時に「論理が破綻している」と思ったものの、果たして学者陣の中に「あの大戦が無駄だったとは言えない」という気持ちが無意識にも共有されていたために、賛同者がいなかったのかどうかは不明だがー。

当時の英外相の発言と一般的解釈

 大戦参加の決定に大きな役割を果たしたのがエドワード・グレイ外相であった。

 グレイは1926年に出版した回顧録「25年間、1892―1916年」の中で、「戦争に参加した本当の理由は、もし英国がフランスを支援し、(ドイツの)武力侵略に反対してベルギーのために立ち上がらなければ、英国は孤立化し、信用をなくし、嫌われていただろう」と書いた。

 英国は日本と日英同盟(1902年)、フランスと英仏協商(1904年)、ロシアと英露協商(1907年)を結んでいた。ベルギーの中立を守るために立ち上がったという政府の姿勢は当時の議会で高い評価を受けた。道義としての宣戦布告とはいかにも支持を受けやすい理由だ。しかし、ドイツのベルギー侵攻とは別に、英国はもともと欧州が一国に牛耳られてしまうことを好まなかった。そうなれば英国の地位が脅かされると思ったからだ。1914年以前から英国はドイツと軍事力を競うようになっていた。

 国内の政局がドイツへの宣戦布告を決定したという見方をする学者も複数いる。当時の自由党政権がドイツに宣戦布告をしたのは、軍事的行動をとることに積極的な野党・保守党に政権を奪われたくなかったからだという解釈だ。

第1次大戦後と欧州

 「戦争を終わらせる戦争」(War to end wars)とも呼ばれた第1次大戦だが、終戦から約20年後にはドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次世界大戦へとつながってゆく。犠牲者の数は先の大戦を超え、5000万人から8000万人といわれる(軍人、民間人含む)。

 1945年に戦争は終結し、私たちは現在に至るまで、連合国側(米、英、ロシア、フランス、中国など)が勝利し、枢軸国側(ドイツ、日本、イタリアなど)が負けた「第2次大戦後」の世界に生きている。

 戦後の欧州は、第1次と第2次大戦で敵国同士だったドイツとフランスが1950年代に手をつなぎ、後に「欧州連合」(EU)となる流れができてゆく。現在のEU(1993年発足)には英国、旧東欧諸国など28カ国が加盟している。戦後の欧州地域の平和、安定、協調を促進したということで、EUは2012年度のノーベル平和賞を受賞した。

 ドイツ、フランス、英国などいわゆる「西欧」の主要国が軍事的手段を用いて互いに戦うという選択肢は、EUの存在によって事実上消えた。この点は2つの戦争の犠牲を思い起こすとき、平和賞を受賞するに足る功績だろう。

 しかし、グローバル化の進展で米国のサブプライムローン制度の破綻に端を発した金融危機は欧州の単一通貨ユーロ圏に属する各国の経済に大きな負の影響を及ぼした。また、巨大化したEUの官僚制度がEUを市民から遠い存在にさせている。域内での人、モノ、サービスの移動の自由により、国によっては移民が目だち、先住EU市民は自分たちの生活が脅かされていると感じるようになった。

 今年5月のEU議会選挙では、英国とフランスで特に反EU派の候補者が大きく躍進した。EUからの脱退を目指す英独立党は英国ではもっとも票を集めた。将来、英国がEUを脱退する可能性は現時点では低いが、投票者がEUの拡大に「ノー」と言う声を上げたことは確かだ。

 世界を見渡すと、連日のように国家間あるいは国内の紛争で命を落とす人々がいる。EUという枠組みが存在することで互いに軍事的に攻撃することがない状態にいるEU市民は幸運と言えるかもしれない。

 しかし、過去には何世紀にも渡って国同士の戦いがあり、第1次、第2次大戦のように何百万人単位、何千万人単位で犠牲者が出た。行き着くところまで行かないと、「互いに戦争をしない」という状態に人間は到達できないのだろうか。

 欧州内の若い世代、戦争を知らない世代に過去に何が起きたかを伝えることは重要だ。特に、70年以上、戦争をしていない日本の若い世代に欧州の2つの大きな戦争について知ってもらうことは意義があるだろう。

 第1次大戦勃発以前に、欧州で大きな戦争が起きたのは普仏戦争(1870―71年)だった。1914年までに多くの人にとって戦争の記憶は風化していた。欧州大国が次々と宣戦布告をしていく中で、いつの間にかとてつもなく大きな規模の戦争に発展していった過去があった。このことを忘れないようにしたい。

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(新聞通信調査会発行の月刊「メディア展望」=7月1日号=に掲載された、筆者記事に補足。時制を過去形にしている部分があります。敬称略。)
by polimediauk | 2014-07-31 21:49 | 政治とメディア
(上)についてこちらをご覧ください。

バトラー調査が諜報情報を吟味する

 ハットン委員会の報告書が「何故イラク戦争を開始したのか?」の疑問に答えてくれると思った国民は、落胆した。そこで、戦争前の政府の情報活動を検証するため、政府は新たに調査を開始することになったーこれもまた、税金を使っての調査である。同時期に、米国でもブッシュ政権がイラク戦争にかかわる諜報情報についての調査委員会を立ち上げる動きを見せていた。

 政府が元官房長官のバトラー卿に命じる形で始まった調査は正式には「大量破壊兵器の情報の見直し」という名前だったが、通称「バトラー調査」と呼ばれるようになった。先のハットン委員会同様、政府が命じた調査であるので、国税が運営資金だ。

 調査会のメンバーは政府が主要野党との交渉で最終決定した。バトラー卿に加え、労働党議員(当時は与党)、保守党議員(当時は野党)、元国防省高官、後に別の委員会を率いることになる高級官僚ジョン・チルコットであった。2月から始まった会合は非公開で回を重ね、7月14日に報告書を公表した。結果は、既にギリガン記者が報道していた内容、国民がうすうす感じていた状況を、概ね裏付けるものだった。 

 報告書は、「イラクは配備できる生物化学兵器を開戦前に保有していなかった」、「この点からイラクが他の国より緊急な課題であった証拠はなかった」、「45分の箇所を裏付ける十分な情報がなく、2002年の報告書に入れるべきではなかった」とした。

 また、「官邸が02年の時点でブッシュ政権のフセイン打倒方針を支持する意向を固めていた中、統合情報委員会は不十分な情報をもとに性急な報告書をまとめた」とし、スカーレット統合情報委員会委員長が何らかの形で官邸からプレッシャーを受けていたことを示唆した。 

 先のハットン報告書では、スカーレット委員長が、02年文書の作者として、脅威を強い表現で書き表したいという官邸の意向を「潜在的に汲んだ可能性がある」とした部分を裏付けた。 

 しかし、バトラー報告書は、「統合情報委員会の評価や判断が政策への配慮から特定の方向に引っ張られたという評価は見つからなかった」ともしている。 ギリガン報道の中の、「政府が誇張した」という部分は証明されたとしても、「嘘と知りながら」とした部分は証明されたのだろうか? 

 ギリガン自身は、「自分の報道が正しかったことがバトラー報告書で証明された」とBBCのニュース解説番組で語った。報告書は「45分の箇所を裏付ける十分な情報がなく、2002年の政府文書に入れるべきではなかった」など、充分に確証がない情報が入ったことを明言し、これは「確証がないのを知っていて入れた」、つまりは「嘘と知りつつ」という部分を意味し、「報告書そのものが、自分の報道の裏づけ」とした。 

今度は政治的判断を解明へ

 ハットン委員会、バトラー調査も、ブレア政権がイラクの脅威を誇張し、国民を「だまして」戦争に参加させたのではないかという疑念を解明することができなかった。

 そこで、2010年から開戦にかかわる政治事情を検証する「チルコット委員会」(枢密院メンバーのチルコットが委員長。チルコットはバトラー調査にも参加)が調査を行った。正式名称は「イラク調査」である。時のブラウン首相が調査を命じる形で発足させ、国税を使っての調査である。

 委員会のメンバーは首相が選出した。チルコットのほかには、歴史家が二人、前ロシア大使、上院議員が一人の前6名である。

 2012年2月に調査は終了したが、2014年7月現在、報告書の発表時期は正確には決定していない。

 公表が遅れていた大きな理由の1つは、委員長が報告書に入れることを希望していた書類が機密扱いになっていたためだ。

 委員会によれば、03年の開戦にいたるまでの時期の閣僚レベルの会議の議事録、ブレアがブッシュ米大統領に送った25の書簡、ブレア、次の首相となったゴードン・ブラウン、そしてブッシュ間の130以上の会話記録だ。

 チルコット委員長は政府に対して一連の記録の公表願いを出し続けてきたが、「司法上及び外交上の理由」から許可が下りないままでいた。公開の最終的判断はキャメロン首相のアドバイザー役となる官房長長官が行う。もし公開されても、部分的に黒塗りになるとも言われていた。

 今年5月、委員会と官房長長官側が会話の要約の公開について合意したと報道された。これを機に、年末には報告書が出るといわれている。

新たな国連決議は必要だったか?

 チルコット委員会の調査を通し、「嘘をついたのかどうか」、「合法か違法か」の2点についてどのような証言が出ているかを若干、拾ってみたい。

 開戦前、イラクには大量破壊兵器があると政府は国民に対して繰り返し説いた。また、武力行使の理論的根拠は、さらなる情報開示と査察の全面受入れ求めた国連決議1441にイラクが違反している、という説明があった。

 当時外務省の副主席法律顧問だったエリザベス・ウイルムスハーストは、開戦前夜、イラクへの武力行使は新たな国連決議なしには国際法に違反するというのが法律顧問チームの一致した見方だったと述べた(2010年1月26日の公聴会にて)。

 一方、ピーター・ゴールドスミス法務長官(イラク戦争当時)は外務省の法律顧問とは異なる見方をした。法務長官は政府の最高法律顧問の役割を持つ。

 ウィルムスハーストが召還された日の翌日27日の公聴会に出席したゴールドスミスは、当初は既に採択された国連決議だけではイラク攻撃を正当化するには「不十分」と考えていたが、開戦直前に、新たな決議がなくても合法と司法判断を変えたという。理由は、明確な判断を必要としていた軍部や官僚への配慮だった。「戦場に派遣されるのに、もしかしたら合法、もしかしたら合法ではないかもしれない、という判断では十分ではない」。

 29日に公聴会に出席したブレア元首相はフセイン元イラク大統領の危険性を繰り返し、イラクへの武力行使を「今でも正しかったと思っている」と述べた。

 政府文書の「45分で実装配備できる」という箇所については、「諜報情報は「非常に信ぴょう性の高い」ものであると当時確信しており、イラクが大量破壊兵器の開発を継続していたと「疑いなく」信じていた、と述べた。「情報自体の信ぴょう性は低かった」と委員が指摘すると、元首相は「嘘でも、陰謀でも、欺瞞でもないーこれは決断だった」、フセイン元大統元大統領に「破壊兵器の計画を再開させるリスク」を取らないことを決断したのだ、と答えた。 

シリア危機を押しとめたのは

 イラク戦争について、開戦から10年余が過ぎても、国民の間には「国際法を無視した戦争」、「政権に嘘を疲れた」という思いが消えていない。

 それが如実に現れたのが、昨年夏のいわゆる「シリア危機」だ。シリア政府が反政府勢力に化学兵器を用いて攻撃したという報道を元に、米英はシリアに対して懲罰的な武力攻撃を行う一歩手前まで行った。(この件について、中東関係に詳しい方にはまた違う見方があろうかと思う。ここでは、英国から見た経緯を記してみたい。)

 キャメロン首相は攻撃開始に向けての十分な支持が下院議員らから受けられることを想定し、攻撃を可能にするための法案を提出した。ところが、審議の直前になって、野党労働党側が与党支持を撤回。労働党はイラク戦争時の政権党だった。

 労働党の態度急変は、多くの国民が武力攻撃を不支持であることが原因だった。イラク戦争の影が国民の心に落ちていた。国連を通じての合意がない、米英主導の武力攻撃に対して、嫌気感情が強くなっていた。

 法案は否決され、キャメロン首相は翌日の新聞で影響力の低下を批判された。米国とともに攻撃ができなくなったことで、米英間の「特別な関係」が危うくなったという見方が出た。

 しかし、オバマ米大統領は英下院の動きを見て、米国会でも同様の法案を審議すると発表。その後、紆余曲折があり、ロシアの仲裁をもあって攻撃は実現しなかった。世界最大の軍事力を持つ米国の勇み足を英国(やロシア)が止めた格好となった。

 国家がかかわる事項の中でも最も真剣度が問われる戦争・武力攻撃の是非に、メディア報道と世論が大きな役割を果たした一例となった。イラク戦争という多大な犠牲を払った後の結果ではあるがー。

最後に

 英国メディアの報道を見ていると、権力者側が出したがらない情報を市民のために暴露・公開しようとする努力の重要さを痛切する。

 日本の特定秘密保護法を含め、各国の秘密法、公的機密維持法はしてはいけないことや罰側を列挙するため、文章だけを読んでいると萎縮しがちになるが、日本のメディアが市民のために、そして市民として生きる自分や家族、同僚、友人たちのために、果敢な報道を続けることを望んでいる。(敬称略)

***

 以上、日本民間放送連盟の研究所が出している「海外調査情報 VOL9」(2014年3月)に、「国家機密と報道」というテーマで書いた拙稿に補足しました。

長い記事をお読みいただき、ありがとうございます。

***

参考

「英国メディア史」(中央公論新社)、小林恭子著

「ケリー博士の死をめぐる BBCと英政府の確執 -イラク文書疑惑の顛末」(東進堂)、蓑葉信弘著
「イギリス現代政治史」(ミネルヴァ書房)、梅川正美、阪野智一、力久雅幸編著
「ブレアのイラク戦争―イギリスの世界戦略 (朝日選書) 」梅川 正美、 阪野 智一著
「放送研究と調査」2004年8月号より 「ニール・リポート、BBCのと報道のあり方を提言 -ギリガン事件の教訓からー」、中村美子著

ハットン委員会(アーカイブ版)
http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20090128221546/http://www.the-hutton-inquiry.org.uk/index.htm
バトラー委員会の報告書(PDF)
http://image.guardian.co.uk/sys-files/Politics/documents/2004/07/14/butler.pdf
チルコット委員会
http://www.iraqinquiry.org.uk/
チルコット委員会のタイムライン(BBC)
http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-12224606
by polimediauk | 2014-07-13 18:45 | イラク
 日本民間放送連盟の研究所が出している「海外調査情報 VOL9」(2014年3月)に、「国家機密と報道」というテーマで、英国のメディアについて書く機会を得た。

 ブログでの公開の承諾をいただいたので、その一部(後半)を掲載したい。なぜ後半のみかと言うと、前半は英国や欧州での国家機密の維持の仕方や報道の取り組みなどの話で、このブログですでに同様の内容を出しているからだ。

 集団的自衛権をめぐって議論が発生したことで、日本でも戦争についての関心が高まっている。英国は常に戦争をしてきた国だ。なぜイラク戦争の開戦を防げなかったのか、国内にどんな世論があり、メディアはどうしたかについて書いてみた。

英国の報道機関と規制

 まず最初に、メディア状況について若干説明したい。

 英国では放送業、通信業(ネット企業含む)はOfcomが監督している。事前に規制をかけるのではなく、番組内容が不適切であった、違法行為があったとなれば、罰金が科される場合もある。

 BBCの場合は日本で言えばNHKの経営委員会に相当するBBCトラストが経営陣の給与体制、新規サービスの公的価値などを吟味し、活動方針を決定する。

 放送業全体で、ニュースは偏りなく、バランスがとれたものであることが要求される。

 一方の新聞界は17世紀以来の自主規制の歴史を持つ(最後の事前検閲制度が消えたのは17世紀末)。したがって、報道内容は原則自由である。「原則」というのは、法廷侮辱法、名既存法、公務守秘法、人種差別禁止法などさまざまな法律に違反しないようにすることが求められるからだ。新聞業界の自主団体PCC(Press Complaints Commission)は報道について苦情が出た場合に対処する。

 新聞報道には、放送業のような「偏りなく、バランスがとれた」記事である必要がなく、各紙はそれぞれの政治的立場や価値観を反映した報道を行っている。

権力とメディアの関係

 英国の社会全体で共有されている価値観の1つに報道の独立性がある。何世紀もかけて、事前検閲を可能にする「印刷免許法」(特定の印刷業者のみに出版を許可した)を廃止した歴史がある。

 現在、権力側が報道機関に対し、事前に直接報道を止めるように動く仕組みはなく、その必要がある場合(事前に報道することが分かっていれば)は司法の手に任せる、つまり裁判所に訴える形になる。政治家が何を報道するか、しないかについて、直接関与できないようになっている。

 放送業界の中でもっとも影響力が強いのはBBCだ。

 日々のニュース報道の判断は編集幹部あるいは経営幹部によるが、報道全体に偏向があるかどうかを判断するのはBBCトラストだ。判断の元になる報道基準についてはBBC内で文書をまとめている。

 BBCの報道あるいはそのほかの番組内容について政治家が口を挟むことができないため、もし何らかの形で放送前に圧力をかけたことが発覚すれば、「報道の自由の侵害・介入」となり、その政治家の政治生命が危うくなる。

 テレビも新聞も報道機関としては反権力の姿勢を維持する。権力者に説明責任を持たせ、国民の知る権利を満たすために、日々報道を続けている。

BBCとイラク戦争

 英国では、2003年のイラク戦争をめぐり、その原因や政治的判断について現在まで検証作業が続いている。

 10年余の検証作業を突き動かしてきたのは、国民の中にある、当時のブレア政権(1997―2010年)が開戦理由について嘘をついたのではないか、英国は「違法な」戦争に巻き込まれたのはではないか、という疑念だ。

 BBCのある報道がきっかけとなって、政府が嘘をついたのかどうか、そして合法な戦争だったかどうかを解明するための調査が複数回行なわれてきた。開戦の政治的判断を検証する調査委員会の報告書が年内にも発表されるといわれている(時期は未定)。

 それでも、未だ全貌が明らかになったとはいえない。いくつかの文書が非公開になっている。

BBCの報道が出るまでの経緯

 いわゆる「イラク戦争」は2003年3月に開戦したが、これを「第2次湾岸戦争」と呼ぶ人もいる。というのは、以前に湾岸戦争(1990年、イラク軍が隣国クウェートに侵攻し、91年1月、米英を含む各国による多国籍軍がイラクへの空爆を開始)があったからだ。

 この後には2001年9月11日に米国で発生した大規模同時中枢テロ、このテロの首謀者となるオサマ・ビンラディンが隠れているとされたアフガニスタンへの攻撃(「アフガニスタン戦争」、01年10月)という流れがあった。

 「対テロ戦争」を進めるブッシュ米政権が次の攻撃対象としたのはフセイン大統領政権下のイラクであった。

45分、大量破壊兵器、国連決議

 イラク攻撃の正当性について疑問を投げかける声が出ていたことから、国民を納得させる必要にかられたブレア英首相は、02年9月、「イラクの大量破壊兵器」と題された文書を統合情報委員会(英国の複数の情報機関を統括する組織)に作成させ、議会で発表した。

 議会制民主主義の英国では、政府は議会で政策事項について説明し、議員からの理解を求める。

 文書は、イラクが化学兵器、細菌兵器を含む大量破壊兵器を所持し、核兵器計画も再開させたと書かれていた。「指令から45分以内に大量破壊兵器の一部を配備できる」という箇所が、後に大きな問題に発展する。

 文書の発表翌日の大衆紙サンは「英国人が破滅まで45分」、デイリー・スターは「狂ったサダム(フセイン大統領)は攻撃の準備が整ったー化学戦争まで45分」などの見出しをつけ、国民の恐怖感をあおった。議会での発言が翌日の新聞で大きく報道されるだろう事を官邸側は承知していたと言われる。

 イラクでは国連の核査察チームによる調査が続いており、国連の場では「攻撃をするべきだ」(米国)、「査察を続けるべきだ」(独仏)という2つの大きな流れが出てきた。前者は国際社会からの支持は必要ないと見なし、後者は国連査察で大量破壊兵器が見つからない場合、攻撃する必要はないと考えた。

 02年11月、国連査察に対しイラクがその義務を果たさなかった場合には「深刻な結果」に直面するという国連安全保障理事会決議1441号が採択された。しかし、武力行使の実施については意見が分かれた。

 翌年03年の2月3日、政府は、イラクの大量破壊兵器の脅威と国連査察に対する妨害を書いた2つ目の調査文書を発表した。米国の大学院生の論文の一部をインターネットで拾った内容が入っており、内容がずさんであると批判された。

 そこで、ブレアは開戦の理由を大量破壊兵器からフセイン政権の人権侵害を問題視する方向に戦略を変えてゆく。「イラクではフセイン独裁によって様々な非人道的な行為が行われており、イラク戦争は人道的介入として必要という論理」(「イギリス現代政治史」、資料の詳細については最後に表記)だった。

 前後して、英国では大きな反戦デモが発生していた。争点は、攻撃の明確な理由がないのに戦争を始めようとしていることだった。安易に米国に追随しているという見方が出て、ブレアは「ブッシュのプードル」といわれた。首相支持率も急落した。

 03年2月14日の安全保障理事会で、15の理事国の意見表明の中で、明確に武力行使を指示したのは米英とスペインだけだった。フランスのドバルピン外相は「査察には時間が必要で、武力行使は適当ではない」と述べた。

 翌15日、世界60カ国600都市で200万人以上が参加する反戦デモが行われた(「ケリー博士の死をめぐるBBCと英政府の確執」より)。

 24日、米英とスペインは対イラク武力行使を容認する新たな決議案(第2決議案)を国連に提出した。これに対し、仏独とロシアは査察継続を求める覚書を発表した。

 3月10日、フランスのシラク大統領がこの決議案が採決に持ちこまれた場合、拒否権を行使すると明言し、ロシアも反対票を投ずる考えを明らかにした。米英とスペインが決議案を撤回したのは17日である。

 ここに来て、米英によるイラクへの武力攻撃は不可避となった。

 武力行使には政府与党内にも反対が根強かった。17日、ロビン・クック下院内総務職(議員運営を行う政府委員、閣僚級)が緊急閣議の直前に辞職を表明した。クックは元外相でトップクラスの諜報情報に接する立場にいたが、イラクへの武力攻撃に反対する抗議の辞職だった。

 翌18日、武力攻撃を可能にする政府方針の承認を求める動議(決議案)が下院に提出された。同日夜、ブレアは米国とともにイラク攻撃に参加する決意を熱っぽく語った。「イラクの武装解除を実現するため、必要とされるあらゆる手段を講じる決定を支持する」とする動議が、賛成412票、反対149票で可決された(「ブレアのイラク戦争」、参考)。与党労働党410人のうち、3分の1を占める139人がこれに反対した。政府案に対し、与党内でこれほどの反対者が出たことはない。

 百万人規模で発生した反戦デモの声が届かなかったことで、ブレア政権に対する大きな失望感が出た。その一方で、法案への支持を求めたブレア首相の力のこもったスピーチの効果や、大量破壊兵器の存在を信じる人も多く、複数の世論調査では攻撃支持派と反対派が拮抗した。

2つの争点とBBCの放送

 開戦は「国際法上、違法だったのではないか」、そしてあるはずの大量破壊兵器がなかなか見つからず(結局、見つからなかった)、「首相にだまされたのではないか」という2点が、しこりとなって残った。
 
 03年5月29日放送の、BBCのある番組が「だまされたのではないか」という疑念を再燃させた。

 BBCラジオ4(フォー)というラジオ局の朝の報道番組「Today(トゥデー)」の中で、アンドリュー・ギリガン記者が政府のイラクの脅威についての文書(02年9月末、発表)を取り上げた。

 午前6時7分の放送分で、ギリガンは、文書中の「イラクは45分以内に大量破壊兵器を実動できる」とした部分について、「文書の作成を担当していたある高級官僚」によると、政府は文書に入れる前の段階で「すでに嘘であることを知っていた」、その上で中に「入れた」と述べた。

 官邸側はこの報道が「すべて間違い」とし、訂正を求める電話、ファックスなどをBBCに頻繁に送るようになった。

 6月1日、ギリガンは大衆紙デーリー・メールのコラムの中で、問題の政府文書を書いた統合情報委員会に対し、表現を誇張するよう圧力をかけたのは官邸のアラスター・キャンベル戦略局長であったと名指しした。キャンベルはこれに激怒し、BBCに対し謝罪と情報源の開示を要求した。

 BBCと政府側との間で報道の信憑性をめぐっての対立が激化してゆく中で、7月中旬、国防省顧問で核兵器査察の専門家デービッド・ケリーが自殺する事件が発生した。後に判明するが、ケリーはギリガン報道の情報源だった。

 ケリーの自殺が分水嶺となり、イラク戦争についての公的な検証作業が始まった。

独立調査委員会とはなにか?

 英国では、国全体にかかわり、公的意義が高い事柄について税金を使って調査する「独立調査委員会」の歴史がある。

 例えば、1920年代のBBCの発足には数回の委員会が立ち上げられ、その時々の方針を決めていった。裁判官、学者、政治家などさまざまな人物が委員長となり、知識人が委員会のメンバーとなる。議題とする事柄に関係がある人物を召還して意見を聞き、一般からも広く意見を聞く。メディアが進行過程を逐次報道し、最終的には報告書が出る。この報告書を元に、新たな仕組みを作ったり、既存体制を変更することによって、社会をよりよくすることを狙う。

 ただ、物事は理想どおりには進まないもので、真実を究明するための委員会だとすると、必ずしもそうはならない場合がある。報告書が長大になる場合がほとんどであるため、まともに読む人は少ないとも言われている。結論が国民の予測を裏切るものだと、大きな反感を買い、「税金の無駄遣い」と見なされることがある。政府が公的目的のために行う調査では、税金(国税)が使われるからだ。

 BBC報道の情報源となったケリーが自殺したことをきっかけに、2003年8月、ブレア政権は独立司法調査委員会を発足させた。長期の検証を想定したわけではない。官邸が「嘘をついた」とBBCに報道され、政権側には汚名をそそぐ必要があった。

 政府がブライアン・ハットン判事に対し、「ケリー博士の死をめぐる状況について、緊急に調査すること」を命じて設置された委員会は、判事の名前をとってハットン委員会と呼ばれるようになった。政府が命じたものであるため、国税を使っての調査である。

 委員会は政府による情報操作があったのかどうか、また、なぜ英国は開戦したかまでを吟味するようになったため、イラク戦争の是非を問う側面も持つことになった。 

 BBC側はギリガン記者、BBC幹部など、政府側はキャンベル、ブレア、それに統合情報委員会の委員長でイラク文書の著者となったジョン・スカーレット、通常は表に出ないほかの情報機関の首脳陣ら、大量破壊兵器の専門家、ケリーの遺族ら約70人が委員会の公聴会に召還された。それぞれ、ケリーの死因をめぐる状況について王室顧問弁護士5人による質疑を受けた。

 テレビでの同時放映はなかったが、証言内容を書き取ったものや関連書類など、約9000ページに渡る書類が委員会のホームページに掲載された。中には、通常は30年(当時。現在は20年)経たないと公開されない機密文書もあるなど、すべてを公開して調査を進める方針が貫かれた。 

報告書は情報操作を否定、BBCを批判

 2004年1月28日、委員会は報告書を出した。その結論は政府が「問題となった箇所が間違いと知りつつ文書に挿入した事実はなかった」として、情報操作を否定した。その一方で、BBCのジャーナリズムに不十分な部分があったと指摘した。

 これを受けて、BBCでは、ギャビン・デービス経営委員長が自ら辞任し、ギリガン擁護に徹してきたグレッグ・ダイク会長は経営委員会から辞任を通告された。BBCの経営委員長と会長が同時に辞めるのはBBCの歴史が始まって以来、初めてだ。ギリガン記者は前年、BBCを去っていた。

ジャーナリズムを批判されたBBCは、ベテラン記者による自局の報道体制の見直しを行った。

 その結果、6月23日に公に発表されたのが「ハットン以降のBBCのジャーナリズム」という報告書だ。見直し業務を統括した、元BBC報道局長ロナルド・ニールの名前をとって「ニール・レポート」とも呼ばれている。

 報告書は、BBCの報道の基礎となる価値観を「真実の確立と正確さ」、「公共の利益への奉仕」、「不偏不党と意見の多様性の反映」、「政府やさまざまな利害からの独立」、「視聴者への説明責任」と規定した(NHK放送研究所リポート、参考)。

 例えば、ツーウェーの手法(司会者が質問し、記者がこれに答えるという形で報道して行く)を使うのは熟練記者に限る、ギリガンがケリーとの会話を紙のノートに取らず、電子機器に概要のみを入力していたことから、インタビューは原則録音するなどの記者教育の徹底を求めた。また、編集責任者が匿名情報の情報源の名前を知る権利がある、とした。

 記者は改めて研修を行うよう定められ、継続的な研修を実施するための「ジャーナリズム大学」(カレッジ・オブ・ジャーナリズム)の創設を提言した。

 また、視聴者の立場からBBCの活動を見る経営委員会は、ギリガン報道を支持し続けた経営陣と一心胴体になりすぎていたのではないかという批判から、廃止されることになった。より独立性が高く、公的見地からBBCのサービスを決定する組織として、「BBCトラスト」が2007年から発足した。(つづく)
by polimediauk | 2014-07-12 21:00 | 政治とメディア
 第1次大戦勃発から100年となった今年6月末、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで「サラエボ事件を俯瞰する -1914年の事件、物語、記憶」と題された国際会議が5日間の日程で開催された。

 「サラエボ事件」とは、私たちが学校で教わったあの事件だ。オーストリア・ハンガリー帝国(当時ボスニア・ヘルツェゴビナは帝国の一部)の次期皇帝となるはずだったフェルディナント大公夫妻が、サラエボを表敬訪問中に暗殺された。暗殺グループがセルビア政府と関係があったことが発覚し、オーストリアは7月末、セルビアに最後通牒を突きつけた後で、宣戦布告。8月上旬には欧州主要大国が次々と互いに宣戦布告し、大規模な戦争に発展した。

 サラエボ事件は20世紀でもっとも議論が行われ、神格化された事件の1つともいわれている。本当に第1次大戦の原因と言い切れるのか、誰が悪者あるいは犠牲者なのか、暗殺者の真意は何かなど、誰に聞くかでその答えが変わってくる。

 そこでサラエボ大学のバヒディン・プレヤビッチ教授とアイルランドのトリニティー・カレッジ・ダブリン(TCD)大学のクレメンス・ラスナー教授が、国際会議を発案した。「事件を再現する」、「メディア、文学、書物、政治に投影されたさまざまな解釈を検証する」、「一連の解釈が欧州内でどのように記憶されているか」を探るプログラムを作った。

 6月24日から28日、サラエボ市内の複数の会場で開催された会議には、20カ国から100人を超える学者、メディア関係者、学生らが参加。45人のスピーカーの意見に耳を傾け、議論に参加した。運営資金は欧州連合(EU)のほかにオーストリアのシンクタンク、サラエボ市などが提供した。

 会議終了の翌日、オーストリア・ウイーン出身のラスナー教授に会議の意義や、サラエボ事件、第1次大戦についてのボスニア・ヘルツェゴビナとオーストリアでの受け取り方を聞いてみた。
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―複数のセッションに参加したが、出席者の数人が「会議開催までが一つの物語だった」と発言していた。この点も含め、経緯を改めて教えて欲しい。

クレメンス・ラスナー教授(写真、右):2011年ごろから地元で100周年にかかわる会議を開こうという動きが出てきた。

 サラエボでの暗殺事件を扱うことを決めた後、フランス政府が自分たちが行う100周年記念行事の一つにしたがった。私たちは特定の国の行事の1つにはなりたくなかった。オーストリア、ドイツ、英国などほかの国の大使館がフランスに対し、「フランスの行事の1つにはしないように」と圧力をかけた。(最終的に、フランスは手を引いた格好となった。)

 サラエボ事件から100年経ったのに、今でさえ、欧州の大国が地元の事件を議論するための会議に自分たちの特定の視点を押し付けようとするーそんな感じがした。

 会議では、スピーカーたちがさまざまな視点を提供した。民族や国によって大きく解釈が異なるサラエボ事件について、欧州の共通の視点を形成するための一歩としたかった。

―オーストリア人の学者として、オーストリア・ハンガリーによるボスニア・ヘルツェゴビナの統治(1878年から支配下に。1908年併合。1918年まで続いた)をどのように受け止めているか。

 40年間の統治時代、ボスニアは一種の植民地だったと言っていいだろう。よい意味でも悪い意味でもオーストリアは宗主国だった。近代化をもたらしたが、民族間(イスラム教徒のボスニャック人、クロアチア人、セルビア人)の緊張感を悪化させた。

 1990年代、民族間の争いで多くの人が犠牲になったが、オーストリア・ハンガリーの統治時代と後のユーゴ時代は民族間の対立という糸でつながっている。言わば「隠れた階段」があったと言える。(注:第2次大戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦の一部となるが、ユーゴ解体後、独立をめぐって各民族が全土で戦闘を繰り広げた。死者が20万人、難民らが200万人出たと言われる。戦後欧州で最悪の紛争となった。)

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(内戦時代の砲撃の後が見える建物。サラエボ空港近く)

 オーストリアの歴史的遺産がここにある。併合していたという過去の上に、皇太子がサラエボで殺害されたからだ。プラハでもなければウイーンでもない、ここで、だ。オーストリアの植民地支配がここで頂点に達し、終結した。象徴だった。歴史家エリック・ホブスボームが言った様に「20世紀は1914年に始まり、1989年に終わった」のだろう。1989年、ベルリンの壁が崩壊した年だ。私だったら、20世紀がここで始まったと言うだろう。

―暗殺者である、ボスニア系セルビア人ガブリロ・プリンツィプをどう見るか。

 「セルビア人の民族主義者」と言い切るのはどうかと思う。賛同しない。あえて言えば、(バルカン半島地域に住む南スラブ人による国家)「ユーゴスラビア」の建設を実現しようとした民族主義者だった。オーストリア・ハンガリーの支配から、南スラブ人が住む地域を解放したかったのだ。

―まだ19歳だった。若い。

 10代の青年だったに過ぎないという人もいる。確かにそうだ。しかし、非常に知的で、本をたくさん読んでいた。西欧の思想をよく知っていたし、マルクス主義の本を読んでいた。単なる民族主義者ではなかった。

―会議の参加者にはさまざまな民族の人が混じっていたのだろうか?

 そうだ。この地域の異なる民族の人たちが自分たちの考えを外に出す機会にしたかった。90年代の内戦はまだ記憶に生々しい。だからこそ、意義があると思った。

―隣国となるセルビアからも学者が参加したのか?

 参加した。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナの半分をなす、セルビア系住民が多く住むスルプスカ共和国(注:ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国とで「ボスニア・ヘルツェゴビナ」という1つの国家を構成)からの参加はごく少数だった。多くの学者が来たがっていたが、「大学や政治家から出席しないように圧力がかかっているので、出られない」とプライベートで言っていた。

ーなぜ参加しにくいのか?

 スルプスカ共和国にとってはプリンツィプは英雄だ。事件やプリンツィプについて議論をするような場所に学者が参加して欲しくないのだろう。議論自体がおきることを好まない。残念だ。参加者の出身国はかつて第1次大戦に参戦しており、会議が和解の場の1つになっていたことはうれしかったが。

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(6月27日、サラエボ東部にプリンツィプの像が建った。会議のサイトから)

―どんなことが争点になったか。

 1つはプリンツィプの解釈だ。英作家ティム・ブッチャーはプリンツィプを好意的に見た本を書き、議論に参加した。米学者チャールズ・イングラオは帝国による統治をやや正当化する論を展開した。

 個人的に興味深かったのは、プリンツィプが世界的なレベルでアイドル化しているという指摘だ。プリンツィプと言う名前の音楽バンドがある。ポップカルチャーのアイコンとなっている。

 プリンツィプも暗殺された側のフェルディナントもその時々の政治によって利用されてきたのは確かだ。

 自分自身は、1970年代、80年代の学生時代、プリンツィプに憧れ感を抱いた。大人への反発があったのだと思う。オーストリア・ハンガリー帝国を既得権のある体制と同一視していた。

 現在は、憧れ感は消えた。しかし、プリンツィプはスラブ民族の国家を作ろうとした自由の闘志だと思っている。オーストリアの政府の見解ではプリンツィプはテロリストだ。

 米大規模中枢テロ(2001年9月11日のテロ)以降、見方は変わったと思う。暗殺の受け止め方が変わってきた。100年前は、暴君を倒すという文脈での暗殺と言う解釈があったと思う。

 現在では、プリンツィプを犠牲者とみなす事もできるだろう。今の人権活動家からみたら、劣悪な状態で投獄されていたからだ。会議の中では、まるでかつてのキューバ・グアンタナモ米軍拘束所にいたようなものだと発言した人がいた(注:プリンツィプは受刑中に亡くなった)。

 好ましくないと思うのは、セルビア人地域では若者たちがプリンツィプをロールモデルとみなす場合があることだ。特に10代の男性たちがそう思うとすれば、危険だ。問題を解決したければ、銃を持って、撃つことだと教えることになるからだ。事件をもっと知的に捉えて欲しい。

 例えば、セルビア民族の国家の樹立を願ったプリンツィプだが、もし事件を起こさず、亡くなっていなかったら、政治家や何らかの形での指導者になっていたかもしれない。自分の人生を犠牲にする必要はなく、セルビア人の同胞のためにもっとためになることができたかもしれないのだ。

 暗殺によって、オーストリアによる統治という問題を解決するのではなく、もっと大きな問題をたくさん生じさせてしまった。

 政治家はプリンツィプをモデルとして使うべきではない。セルビアがもしEUに入りたいのであれば、よい方法ではない。

 フェルディナント大公については、暗殺グループは間違った人を殺したともいえるだろう。大公は民族間の緊張を解くことに関心があった。もし皇帝になっていたら、ゆるやかな地方統治や独立を認めていた可能性もある。皮肉なことだ。

―サラエボ事件がなかったら、第1次大戦は起きなかったと思うか。

 思わない。1908年以降、世界は何かが起きるのを待っていたのだと思う。プリンツィプ個人が悪いというよりも、世界中に植民地を抱えていた欧州がいたことが悪いのではないか。1914年、欧州はサラエボ事件によって、自分で自分を撃ってしまったのだと思う。

―教授の目から見て、ボスニア・ヘルツェゴビナに住む人は事件や第1次大戦勃発から100年をどう捉えていると思うか。関心が余りないという人もいる。民族間の対立が消えていないといってよいだろうか。

 関心は低いと思う。1908年にボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国に併合された。オーストリアはボスニアを1つのまとまりのある国にしようとした。共通した、1つのボスニアというアイデンティティーを作ろうとした。しかし、これが異なる民族間の緊張を、特にセルビア人とクロアチア人との対立を悪化させた。

 宗主国が植民地に住む人に文明を教えてやるなんて、大きな間違いだったのだろうと思う。欧州のほかの地域を見ても、自分には失敗のほうが目に付く。

 ボスニア・ヘルツェゴビナの国民は第1次大戦とははるか昔のことだと思っているし、90年代の内戦の記憶が強い。サラエボ事件を記念する100周年のコンサートが、市庁舎であった。テレビで放送されたが、サッカーのワールドカップの試合を見ている人がほとんどだったと思う。

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(コンサートが開催された市庁舎の建物)
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(柱の一つに「セルビア人の犯罪人による攻撃」を忘れるなというプレート)

 関心の低さを変えたいと思っていた。欧州他国から外国の知識陣がここにやってきて、国際会議を開き、議論が終わったら、はいさよなら、地元には何も残らない、という風にはしたくなかった。国際会議であっても、ボスニアにとっても意味があるものにするのが目的だった。

 第1次大戦、第2次大戦、90年代のユーゴ紛争―。この3つはつながっている。ユーゴ紛争は100年前の戦争がなかったら、発生しなかったのではないか。つなぎ合わせる物語が必要なのだと思う。

 100年前のサラエボ事件では、2発の銃弾がプリンツィプのピストルから放たれた。1992年から95年の内戦では、サラエボだけでも1万人以上が亡くなった。数え切れないほどの攻撃があった。(注:1992年4月から96年2月末まで、サラエボはスルプスカ共和国とユーゴスラビア人民軍によって包囲された。攻撃によって亡くなった人の大部分が民間人であった。)

―オーストリアはサラエボ事件や100周年をどのようにとらえているか。

 ノスタルジアがある。自分が少年時代、歴史の先生がこう言っていた。オーストリアのよき時代は1918年に終わったと。地理的に小さい国になった。ハプスブルク家に対するノスタルジアを多くの人が今でも持っている。

 アナクロだと思ったのは、先のコンサートで演奏をしたのがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団だったことだ。曲目の1つが、オーストリア皇帝讃歌の「神よ、皇帝フランツを守り給え」だったことに驚いた。かつての帝国主義の最たるものだ。これが選ばれたと聞いて、ショックだった。

 しかし、実はこの曲はボスニアに住む人のために演奏しているのではないのだろうと思った。オーストリア国民に向けて演奏している。オーストリアの文脈で行けば、プリンツィプは英雄ではない。オーストリアの統治時代はよき時代だった、近代化をもたらしたと考える。

 ボスニアに住む人の一部にさえも「あの時代はよかった」と見る、ハプスブルク家へのノスタルジアがある。ドイツ人による占領や後の戦争に比べればーという意味で。

 私自身は、そういうノスタルジア感情の存在をあまり真剣に捉えていない。国民は普通の生活をしたいだけだ。90年代の内戦からまだ20年だ。トラウマがある。お金はあまりない、失業率が高く、社会的問題も多い。過去のノスタルジアの世界では、すべてがよかったとなる。

―自国が第1次大戦を始めたという認識はオーストリアではないのだろうか?

 議論が分かれるところだ。プリンツィプが大戦を勃発させたという人もいるだろう。大戦の原因については諸説ある。オーストリアとドイツ(ルクセンブルク、ベルギーに侵攻)が始めたのだという人もいる。学者クリストファー・クラークは欧州の主要国家全部に責任があるという。

 誰に責任があって大戦が起きたのかという話よりも、現在の問題をどうするかに力を注ぎたいと思っている。ボスニアに愛情と支援を注ぐべきと思っている。EUへの加盟にも協力したい。統合欧州の一部になってほしい。

 かつての宗主国として、オーストリアはボスニアの歴史に責任があると思う。1970年代以降、多くの移民もオーストリアにやってきた。

ー欧州の中では勝利国だった英国やフランスが、第1次大戦勃発100周年を記念する行事を非常に大々的に行っているが。

 いろいろな記念の方法があるが、英国がいまだに大戦の勝利国として祝うことへの批判があると思う。記念したり、祝うことが何もない国もある。ある意味では、(大きな犠牲を出した)第1次大戦は集団自殺だったように思う。何も祝うようなことはない。たとえ勝利の側にいた国にも、大きな犠牲があった。第1次大戦がなかったら、第2次大戦やホロコーストもなかったかもしれない。

 英仏で記念行事が盛大であるのには理由があると聞いたことがある。公然の秘密だ。2つの大戦で負けたドイツが、現在では欧州を牛耳っている。英仏の影響力は大きく減少した。近年のユーロ危機を救ったのもドイツの力が大きい。ドイツ自身はそんな一人勝ち状態を居心地悪くも感じている。

 英仏は勝利者として自分たちを見せたがっているが、実際はどうか。英国はEUから脱退したがっている。フランスのEUでの地位はかつてと比べて大きく後退している。せめて記念行事で自分たちを大きく見せたいのではないか。

 歴史を現在の政治のために使う、乱用することはやってはいけないと思う。それでも、実際には、頻繁にあるのだがー。

***


会議のフェースブックのページ

ーーボスニア・ヘルツェゴビナのこれまで

6世紀:スラブ人の定住化
14世紀:ハンガリーに抵抗しつつ、ボスニア王国を確立
15世紀:オスマントルコによるボスニア征服。オスマン帝国の支配下へ
1878年:オーストリア・ハンガリー帝国の支配下へ
1908年:併合
1918年:セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国領に
1945年:旧ユーゴを構成する共和国として発足
1992年2月:独立を問う住民投票の実施
4月:本格的紛争
1995年12月:デイトン和平合意発足

(参考:外務省サイト)
by polimediauk | 2014-07-05 15:44 | 欧州のメディア