小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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 ブログサイト「BLOGOS」と松竹映画が共同で主催した映画「日本のいちばん長い日」の試写会に、先月末、足を運んだ。真夏の盛りの1日で、汗だくで東京・銀座の松竹の試写室に入った。

 戦後70年ということで、2015年現在の自分にとってこの映画がどう映るのかを確かめてみたかった。上映後のジャーナリスト田原総一郎氏と漫画家小林よしのり氏のトークにも大いに興味が湧いた。

 皆さんご存知のように、映画(原田眞人監督)は作家半藤一利氏のノンフィクション「決定版 日本のいちばん長い日」(文春文庫)が原作だ。1967年には岡本喜八監督が三船敏郎氏の主演で映像化している。

 戦争、そして日本でいちばん長い日と言えば、1945年8月15日の終戦記念日のことだ。降伏するのか、本土決戦を選ぶかを巡って、政治家たちが苦悩する日々をドラマ化している。

 公式サイトの紹介や物語の筋を読むと大体の流れが分かるが、15日の昭和天皇による玉音放送までのてんまつは、日本人であれば、知らない人はいないといってよいだろう。

 何故この映画が、今、作られたのか?

  戦後70年と言うことが背景にあるようだが、原田監督のBLOGOSでのインタビューを読むと、以前から構想があり、「昭和天皇を魅力的な人間として描きたい」という思いがあったという。昭和天皇が主役の映画「太陽」(2006年)でイッセー尾形が演じた天皇が「違うな」と思ったそうだ。

 戦争をテーマにしている、終戦にまつわる報道が増える夏に公開・・・と聞いただけで、戦争を好意的なトーンで描くのかな、だとしたら、それは一体どうなのか、とひねて考えてしまう自分だが、この映画については、すっと抵抗なく物語の中に入っていけた。

 一つ、映画を観ていて、「ああ、これは見たことがある」という思いを持ったことがある。政治家や軍人がこの先をどうするかをなかなか決められない中、天皇による「ご聖断」を待つ動きに、東京五輪に向けての新国立劇場建設についてのドタバタが重なった。誰も責任者がいないようで右往左往する、2015年のスポーツ関係者の動きだ。

 70年前の止むに止まれぬ状況と、現在の政治家やスポーツ組織の上層部の迷走振りを並列させるなんて、滅相もない話なのだろうけれどー。2015年の今だから、こんなことを言えるのだろうけれど。

 途中で、若い兵士たちが徹底抗戦を望んで、クーデターを試みる。その血気盛んな様子を見ていて、非常に悲しくなった。最期は結局、無理だったことが今となっては分かるせいだろう。今日まで米国と言う敵を倒すことに全身全霊を傾けていて、明日から終戦と言われても、納得がいかないだろうし、体もそうはいかない。

 話の展開を追うことに集中していたら、座席から飛び上がるほどに驚いたのが、爆撃されたときの音だ。東京大空襲の後の焼け野原の様子もありありと映された。原爆落下も。東京の試写室に座っているだけの自分だが、すさまじさを感じたし、怖いと思った。こういう場面を体感するだけでも、この映画を観る価値があると思った。

 最期は昭和天皇のご聖断で映画は静かに終わる(本木雅弘氏の演技が秀逸)。

 映画が終わる頃、私の頭は「何故」で一杯だった。それは、先ほどの「ドカン!」という爆撃・爆弾落下の音や映像による衝撃がまだあったからだ。悲惨な焼け野原の光景も見た。当時、米国は敵だった。それなのに、70年後の現在、日本人は米国が大好きのようである。何故なのか。いつから、どうやってそうなったのだろう?

「敵=米国」から、「米国、大好き」へ

 皆さんも不思議に思ったことはないだろうか?日本人の米国好きについて。

 70年前の日本では米国は敵だった。それが何故、現在に至るまで、米国への大きな好感が日本に存在するのだろうーこれが大きな疑問だった。国によっては、現在に至るまでも旧敵国を憎み続ける場合もあるのだから。

 広島、長崎に原子爆弾を落とされた衝撃は相当のものだったはずだ。どうやってこれを呑み込んで、先に進めたのだろう?

 私が(勝手に)理解しているところでは、戦後、米政府(進駐軍政府)による、徹底的な軍備排除政策及び親米策がとられたからだと思っている。しかし、それ以外にもたくさん理由があるだろう。

 敗戦国としての日本ばかりか、ほかの多くの国にとっても、経済的にはるかに豊かな国、米国は憧れの国として映ったはずだ。

 日本の場合は、他に何か理由があるのだろうか?

 そこで、上映が終わった後、田原氏に「何故そうなったのか」を聞いてみた。その時の様子はBLOGOSの記事に掲載されている。

 同氏によれば、3つ理由があった。一つは「憲法」、「日本国民は民主主義という考え方にしびれた」、「日本は戦後、経済復興に力を入れるようにされたから」だった。国防については考えなくても良いような政治がずっと続いてきたのである。

 以下、原文を書き取った部分である。(文中の「小林」は「小林よしのり」氏のこと。)

田原:日本人がアメリカを好きになっちゃたのは、結局、小林(よしのり)さんがダメだと言っている憲法だね。

憲法にはアメリカにとって3つの目的があった。1つは日本を弱体化すると。再び戦争を出来ない国にすると。

もう1つは、日本を徹底的な理想的な民主主義の国にしたと。それで、言論・表現の自由、男女同権、基本的人権の尊重。これにね、日本人は相当しびれたところがある。「いいじゃないか」と。

そしてもう1つ。戦後日本は、経済の発展のためには、エネルギーのほとんどを使ったの。安全保障は、ほとんどアメリカに委ねちゃったんですよね。委ねて、なんとなく安心したと。そこがあるんじゃないですか。

安全保障をアメリカに依頼するってことは、実は外交の主権をアメリカに委ねちゃってるんですよね。今になって、そこに気がついて、さあ、どうするかっていう問題になっている。

by polimediauk | 2015-08-26 22:13 | 日本関連
 神戸連続児童殺傷事件(1997年) の実行犯であった元「少年A」が書いたとされる「絶歌」。出版直後からずいぶんと話題が沸騰した。多く目に付いたのは「こういう本を出してはいけない」「被害者のことをどう思っているのか」という否定的なものだったように思う。「知りたい」「読んでみたい」と言えなくなるような雰囲気が、一時、あったように感じた。

 本が出版されるべきではなかった、遺族の感情を考えていない、十分な敬意が払われていない、お金儲けのためだろう・・・・それぞれの主張にはそれなりの正当性があるのだろうと思う。

 しかし、私は読んでみたかった。それは、1つには、1997年のあの殺傷事件が頭にこびりついて離れなかったからだ。

 ここでは詳細しないが、非常にショッキングな事件だった。

 事件のあらましを知ったとき、犠牲者となった男児や女児、それぞれの遺族の方への痛ましい思い、胸苦しさ、悲しさがあった。同時に、それと同じぐらいの強さで、当時14歳と言う少年の心中を思うと、胸が締め付けられるような感じがした。

 何故、加害者の心のうちなど気にするのかー?そう、それは確かにそうなのだが、こちらはどうしても何かをそこに読み取ろうとする。一体全体、いかほどのことがあって、あんな殺傷行為に走ったのか。

 また、どうしても「どこかの知らない人」がやった犯罪とは思えなかった。まるで自分の身内の1人がやったように感じるほど、身近に思えた。今回は少年Aだったかもしれないが、ひょっとしたら、自分の身内の誰かが殺傷行為をしたかもしれない、自分は止めることができただろうか、と。

 1997年と言うと、今の若い人にとってはもう昔のことで知らない・覚えていない人が多いかもしれない。

 しかし、当時は、「あの少年は自分の息子だったかもしれない」と思う母親たちがたくさんいた。そういう声がテレビや新聞、雑誌で取り上げられたし、母親たちの緊急集会なども開かれたように記憶している。私だけが自分のことのように感じたのではなかった。

 殺害者が14歳と言う年齢だったこと自体が、その若さ、幼さが衝撃だった。

 14歳と言えば思春期だ。もう小さな子供ではないが、大人でもない。急に背が伸びたり、声変わりをしたりする。家族の中で、この間まで子供と思っていた1人が、なんだか、別人のように思えてくるー。わが子ながら、わが子でないような。

 家庭の中の異人と化した息子に母親たちは少年Aの影を見た。

 少なくとも、私はそう記憶している。

 実際、そんな当時の熱風のような状態を、2015年の現在、この本について書くときに誰も指摘していないようなのが、非常に不思議である。当時、単なる殺人事件ではなかったし、「14歳」という年齢は非常に大きな意味を持っていた。誰しもが打ちのめされたのである。

 「一体何故、少年はあんなむごいことをしたのか」?私も母親たちもそう思った。何故かをみんなが知りたがった。

 そして、18年が経った。

 今年になって、ようやく、私たちはあのときの14歳の少年の生の言葉を聞くことができた(この本をあの少年が書いたものではないと言っている人も一部でいるようだが、ひとまず、彼が書いたものとして話を進める)。

 途中から、私は涙が止まらなくなった。少年の家族がどう反応しているかのくだりである。

 自分の子供がひどい殺傷事件を起こして、自分の元に返ってきたら、親としてどう対応するだろう?気持ち的にはどうなるだろう?

 書店の中には販売していないところもあると聞いたが、ぜひ手にとって、自分の目で元少年Aの言葉をたどってみて欲しいー特に、1997年当時、少年とわが子を一時でもクロスさせた親たちにとって、意義深いものになるのではないか。

 人を裁くとはどういうことか、罪はいつかは消えるべきものなのか、生きることはどういうことか、所定の刑期を終えた元少年Aには人間らしく生きる権利があるのだろうが、それは遺族や犠牲者にとってはどうなのか。自分が、あるいは自分の子供が加害者になったら、自分はどうするか?どうやって罪と向き合いながら、生きてゆくべきなのか。読みながら、そんなことを考えていた。
by polimediauk | 2015-08-21 02:21 | 日本関連
 日本初のニュース専門インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム]を主宰するビデオ・ジャーナリスト神保哲生氏に、最近の政治によるメディアへの圧力、日本の政治メディアの現状について外国特派員クラブで聞いた(取材日は7月7日)。

***

「特権」という弱点をたくさん持つメディア

ー日本の政権とメディアの関係をどう見るか。

 これまで日本の歴代の政権はメディアの特権を容認し、メディアとの良好な関係を維持することで、共存を図ってきた。ロッキード事件やリクルート事件など、時折、政権中枢のスキャンダルが大きく弾け、メディアも「政府との良好な関係」などと言っていられない事態が起きることはあったが、私から見ると政権とメディアの関係は、表面的にジャブの応酬はあっても、底流では深く良好な関係が続いていた。

 しかし、安倍政権が、第一次政権の時にメディア対策を甘く見たことで、大きな痛手を受けた。懐柔したつもりでも、メディアはいざ支持率が下がったり、政権に逆風が吹き始めると、ものすごい勢いで攻勢に出てくることを、安倍政権は身をもって思い知った。少なくとも第一次安倍政権で首相を精神的に追い詰めた主要因の一つが、メディアの攻勢だったと見ていいだろう。

 安倍政権は1回目の失敗から多くを学んだ。その中の重要なものが、メディアは一瞬たりとも心を許せば、そこにつけ込んで来る、いざメディアにつけ込まれると、押し返すことが難しいということだった。そこでメディア対策を厳しくやることが必要だと痛感した。

 ただし、そこでいうメディア対策というのは、欧米で盛んに行われているような、PR企業のノウハウを駆使した、いわゆるパブリック・リレーションではない。一応、PR会社や代理店を使ったメディア対策は行っているようだが、日本ではそれよりももっと有効で手っ取り早いメディア対策がある。それが、メディアに直接圧力をかける方法だ。日本ではメディアが「特権」と言う名の弱点をたくさん持っているために、それがとても有効になる。

 政権は実際に圧力などかける必要はない。先ほども言ったが、実際に報道機関に圧力をかけて報道の内容に介入するのは、憲法で表現の自由が保障されている日本では容易ではない。

 しかし、メディアが政府が認めてくれる数々の特権に依存する限り、間接的な圧力で十分だし、それが有効となる。要するに「特権」の蛇口をちょっと閉める素振りを見せれば、メディアは少なくとも経営レベルではたちまち狼狽する。

ー今回の「つぶす」発言がそうかもしれない。

 まさにそうだ。

 実際につぶすことなどできるはずがないが、それを口にするだけで、日本では一定の効果が期待できる。そこが問題だ。

 「つぶす」発言には、メディア問題とは性格を異にしながらも同根の問題がある。なぜ自民党や政権が経団連に頼めば、経団連がそれを無視できないと考えるかといえば、政府が経団連に対して影響力を行使できる立場にあるからだ。

 数々の許認可や、法人税減税、消費税増税の際の税率軽減、TPP、派遣法の改正等々、経団連加盟の企業は政権のさじ加減一つで、自分たちの利益が大きく左右される立場にいる。加盟企業には旧来型の古い産業構造下にある企業が多いので、それをどこまで政府が守ってくれるかによって、大きく利益が左右されやすい。

アクセスの見返りに、好意的な報道を引き出そうとする政府

 また、メディアの特権としては先にあげた三大特権の他にも、アクセスの問題がある。

 これは記者クラブ問題と近接している問題ではあるが、政府は特定のメディアに対して「Preferred Access」(優先的アクセス)や、「 Privileged Access」(特権的アクセス)を認めることの見返りに、政権に好意的な報道を引き出す力を持っている。総理の単独インタビューはもとより、政権が持っている情報には報道機関にとっては価値の高い情報が無数にある。それを材料に、メディアに好意的な報道をさせることは容易だ。

 特に日本では、そもそも記者クラブ体制の下で、大手メディアは最初から優先的アクセスや特権的アクセスを得ている。つまり、最初から政権に対して脆弱な立場に身を置いているということだ。

 日頃からメディアは自らを律し、政府や政府から受ける特権に依存しない経営体質を構築しておかなければならない。平時に政権から特権を頂戴していると、いざというときに、政権がちょっと特権の蛇口を閉じる素振りを見せただけで、メディアは白旗をあげなければならなくなってしまう。特権に依存した経営体質を持つメディアが特権を失えば、たちまち干上がってしまうからだ。

 安倍政権の特徴は、過去の政権は、メディアが政府から多くの特権を受けていることは当然知っていたが、政権にとってはむしろメディアと共存する方が得策だと考えて、あえてそこにはちょっかいを出さないようにしてきた。メディアと全面戦争となれば政権も無傷ではいられない可能性が高いし、大手メディアが総力を挙げて共同戦線を張れば、政権の一つや二つは飛んでもおかしくない。

 どんな政権でもメディア利権に手をつければ、メディア全体を敵に回すことになる。政権にとっては何もいいことはない。しかし、逆に、一つ一つのメディアは意外に脆いことを、今回、安倍政権は見抜いたようだ。

 つまり、例えば記者クラブ制度を廃止すると言えば、メディアは総力をあげて抵抗してくるだろう。それは再販についても、クロスオーナーシップについても然りだ。

 しかし、例えば、優先的に総理に単独インタビューする機会を与えるとか、TPPに関するインサイド情報をリークするなど、メディアにとって大きな価値のある餌を眼前に吊せば、個々のメディアは意外と簡単に落ち、競って政権に好意的な報道しようとすることが、今回ばれてしまった。

ーでも、これをきっかけに、新聞や放送のメディアが、権力に委縮せずに批判する下地が理論的にはできたのでは?

 理論的にはそうだが、なかなかそうはいきそうにない。日本の既存メディアは政府に対して弱点が多すぎる。要するに特権を多く持っていて、インターネット時代を迎え、既存のメディアはこれまで以上にそうした特権を手放すのが難しくなっているのだ。

 これは他の国にも言えることだが、新聞とテレビの2大オールドメディアはいろいろな意味でネット時代に対応できていない。特に日本のメディアは享受している特権が大きいために、より競争の厳しいネットにフルに参入して競争することが難しい。

 そもそも特権によって護られてきた既存のメディアは人件費を含めコスト構造が極端に高いので、基本的な競争力がない。しかし、仮に競争力があったとしても、既存のメディア市場で大きな利益をあげてきた既存のメディアがネットにフル参入し、自由競争を前提とするために利益率がずっと低いネット市場でシェアを増やせば、それはより利益率が低い商品でより利益率の高い商品のシェアを食ってしまうことも意味する。自ら自分の尻尾を食っていく構造だが、ネットと既存メディアを対比した場合、尻尾を1センチ食べても、胴体の方は0.1ミリも延びない。ネットに力を入れれば入れるほど、特権的な儲かる商売を、自分から手放すというジレンマに陥ってしまう。

 例えば、今テレビで見れる番組がすべてネットで見れるようになれば、番組を見る視聴者の絶対数は減らないどころか、むしろ増えるかもしれないが、テレビの視聴率の低下による広告費の減少分をネットで補填することは不可能なばかりか、その10分の1も回収できない。それほどネットが厳しい、というよりも、それほど既存のメディア市場は美味しい。

会見は開放されたが

 記者クラブについては、これまで記者会見へのアクセスが記者クラブ加盟社に制限されていた問題が批判を受け、民主党政権で記者会見の多くが記者クラブ以外のメディアにも開放された。しかし、まだまだ問題は解決したわけではない。

 記者会見は開放されたが、それは記者クラブ問題のほんの一部に過ぎない。例えば、記者クラブというのは、政府の庁舎の中に記者クラブの加盟社だけが使える部屋を無償で提供されている。加盟社はそこに記者を常駐させ、会見の他にもレク、懇談などに自由に参加している。

 しかし、記者クラブに加盟できない社の記者やフリーの記者は、予め時間が決まっている大臣会見には参加できるが、随時行われるレクや懇談には参加できない。大手メディアの友人らの話では、記者会見がオープンになってしまったので、デリケートな話は会見ではなく、懇談など外部の記者がいない場で話されることが多くなったという。

 政府機関が特定の民間事業者のみに施設を提供し、同様のアクセスを希望する他の事業者への提供を拒むのは、行政の中立性から考えても問題は多いが、行政側も大手メディア側も、自らこの利権を手放そうとはしない。

 記者クラブメディアにとっては、これは情報への優先的アクセスだし、行政側からすれば、特定のメディアに優先的アクセスを与えることで、メディア操縦をより容易にしてくれるシステムなため、両者にとってメリットがある。

 行政とメディアがともに頬っかむりを決め込んでいる問題を解決するのは容易ではない。本気でこれを変えさせようと思えば、万全な体制を組んで裁判に訴えるほかないが、こっちもそんなことをやっているほど暇ではないし、そんな余裕もない。また、いきなり部屋をつかっていいという話になっても、すべての記者クラブにスタッフを常駐させるほどの人員もいない。

 結局、記者クラブというクローズドで特殊なシステムが存在することを前提に日本のメディア市場の秩序が形成されているため、ある日いきなりこれが変わっても、すぐに対応はできない。だから、記者クラブ制度のような、明らかに不当な、そして公共の利益に反する不公正な仕組みがいつまでも温存されてしまっているのは、日本にとって不幸なことだと思う。

統治権力に対する警戒心の欠如

ー外から見ると日本の政治メディアは権力と仲良くやっているように見える。礼儀正しい。それはシステムのせいなのか、それとも何か別の理由があるのか。

 もちろん、直接的にはシステムの問題だ。しかし、システムには元々、それを裏付ける社会の意思が存在する。社会の意思に反したシステムはいつまでも存在し続けることはできない。そこにはなぜそのようなシステムになっているのか、そしてなぜそれが容認されているのかという根源的な問題がある。

 単にシステムのせいではなくて、メディアを構成しているメディア関係者も、政治家や官僚も、そして市民社会全体としても、近代社会がどのような前提の上に成り立っていて、それがどのように回っていくことが健全なことなのかという基本的な問いに対する理解とコミットメントが欠けていると言うしかない。

 ただし、単純にこれを民度が低いとか、未熟だと言って、切り捨ててしまうのは間違っている。これは善し悪しの問題ではなくて、西洋と日本の考え方の違いだ、という主張もよく耳にする。

 ただ、そこには決定的に欠けているものが2つあると思う。

 1つは、統治権力に対する警戒心の欠如、もう一つはそれと表裏一体の関係にあるが、主権者意識の欠如だ。

 日本は戦前、当時の統治権力の暴走によって戦争に引きずり込まれ、全国民が塗炭の苦しみを味わった。それは日本のすべての人によって今でも共有されていると思うし、そう思いたいが、それは統治権力の暴走に対する警戒心という形ではなく、反戦とか戦争アレルギーといった形で日本人のDNAに刻み込まれてしまったように見える。

 つまり、統治権力の監視を怠った、あるいはそれに失敗したことの帰結としてあの戦争があったので、これからも統治権力の一挙手一投足は常に監視を怠ってはいけないという形での教訓ではなく、とにかく戦争につながるような政策を一切許さないという形でそれが残った。大変貴重な記憶ではあるが、結果的に戦争と直結しない統治権力の暴走については、日本人は総じて警戒心が弱いように見える。

 欧米のように、統治権力が暴走した結果、戦争を凌ぐ大虐殺や民族浄化のような残忍なことが国内で行われた経験がないため、いわゆる「悲劇の共有」が足りないことに原因があると説明されることが多い。

 また、今日の日本の民主主義は多くの血を流した市民革命によって得たものではなく、戦争に負けた結果、進駐してきたアメリカのGHQによって憲法ともども、棚ぼた式に上から与えられたものであることに問題があるという指摘もある。

 どちらの学説がより説得力があるかは各人の判断に任せるとしても、日本では、統治権力というものは不断の監視を行わないと、簡単に暴走するものであり、いざ暴走が始まったら、市民の力でこれを抑えることは難しいという考えが広く共有されているとは言えない。そのような悲劇を経験したことがないということは、民族としては素晴らしいことだが、それが近代民主主義の下では弱点になっているのも事実ではないか。

 それが、官僚機構の中にも、また大手メディアの中にも、下手に市民に政治参加などをさせるよりも、エリートに任せておいた方が国はうまく回るし、その方が大きな間違いはないという、エリート主義=愚民観が少なからずあるように思う。

 専門家に任せておいた方が特定の国家目的の達成のためには効率的かもしれない。しかし、その命題はそもそも大前提が逆立ちしている。

 国民は国家目的を達成するための道具ではなく、政府は国民の幸福実現のためのツールとして存在する、だから国民はしっかりと政府を操縦しなければならない、という大前提が共有されていないと、国家運営のような難しい仕事は偉い人に任せておいた方がいい、というような他力本願が支配的になってしまう。

 メディアの世界にもそのような考え方が根底にあるように思う。つまり、国家運営は官僚などの偉い人に委せ、何を報じ何を報じないかは、われわれエリート記者の判断に任せておいた方がいいのだという、考え方だ。

 だから、大手メディアに所属していない、得体の知れない報道機関の記者やフリーランスの記者などは、自分たちが長らく聖域として護ってきた政治や行政の世界に入ってこない方が、日本のためだくらいに思っているのではないか。

「偉い人にまかせておけば万事うまくいく」の罠

ーそのような状況は、ジャーナリズムにとって悪いことだろか?

 どういう社会を望むかが個々人の価値観によるのと同じように、どういうジャーナリズムを好ましいと考えるかも、個々人の価値観に依存する。しかし、現在の日本のジャーナリズムのシステムにどんな問題が存在するかは明らかだ。

 「偉い人にまかせておけば万事うまくいく」というような「エリート主義+他力本願=おまかせ主義」を肯定してしまうと、すべてが内輪で完結してしまい、外部からの監視を受けないために、癒着や腐敗が横行することが避けられない。メディアについても、その体質がメデイア全体の堕落につながっていることはまちがいない。

 大手報道機関に所属する記者の誰もが、特定の大手報道機関が政府情報に特権的なアクセスを持ち、彼らが何がどう報じられるべきかを判断し、国民はそれをありがたく受け取ればいいと考えているとは思わないが、残念ながらこれまでの日本のジャーナリズムのシステムはそのような考え方を前提としたシステムになっていると言わざるを得ない。

 もし大手メディアの記者たちにそれだけの使命感があるのであれば、それはそれで結構なことだが、それでは競争も起きないために記者の能力は上がらないし、記者クラブ固有の横並びの報道が続くことになる。恐らく、結果的に誰も幸せにならない。

 また、今日、そうした特殊な温室の中で温々とやってきた既存のメディアの記者たちが、突如インターネットの登場によって市場競争に晒されると、実はジャーナリストとしての基本的な競争力が欠如していることが露呈してしまっている。

 記者クラブの記者たちを見ていると、日頃から本当の意味での競争を経験していないので、どうすれば他社と差別化ができるのかとか、どのような取材・報道をすれば独自の視点を提供できるかといった、ジャーナリズムの最も基本的な素養が身についていない記者が多いことに驚かされる。

 そうしたノウハウは、日夜、市場競争に晒されているあらゆる産業分野では大昔から当たり前のように要求されてきた能力だったが、ことメディアについてはあまりに寡占度が高いために、そのような基本的な競争力が備わっていなくても、これまでは通用したかもしれない。

 インターネットによって既存メディアの寡占の前提だった伝送路が開放され、メディアが普通の産業として競争していかなければならなくなった。

 既存のメディアにとっては受難の時代だと思うし、これまでジャーナリズム機能を一手に担ってきた既存のメディアが弱体化すれば、一時的にはジャーナリズムの力も低下するかもしれない。

 しかし、このメディア革命が結果的に市民社会にとっていいものだったと言えるかどうかは、一重にこれからの私たちの出方にかかっているのだと思う。ただ、どっちにしても一つはっきりしていることは、時計の針を後ろに戻すことはできないということだ。

(取材:東京の外国特派員クラブにて)
by polimediauk | 2015-08-05 05:58 | 政治とメディア
 インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」を主宰するビデオ・ジャーナリスト神保哲生氏に、最近の政治によるメディアへの圧力、日本の政治メディアの現状について聞いた(取材日は7月7日)。カッコ内は筆者による補足。

***

 このところ、大きな話題を集めたのが、例の新聞を「つぶす」発言が出た自民党の会合だった。6月25日、安倍首相に近い若手議員による勉強会「文化芸術懇話会」の初会合が自民党本部で開催され、これまでにない強い口調のメディア批判があったという。朝日新聞、毎日新聞、沖縄タイムズなどの報道によると、「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番だ。文化人や民間人が不買運動などを経団連に働きかけて欲しい」と言った議員がいたほか、講師として呼ばれた作家百田尚樹氏が「沖縄の二つの新聞者は頭にくる。つぶさないとけない」と発言したという。同氏はその後のツイッターで、「本当につぶれてしまってほしい新聞」として朝日、毎日、東京新聞をあげた。まず、この問題から、神保氏に聞いてみた。

文化芸術懇話会の会合の本当の意味とは

ー安倍政権や自民党のメディアへの圧力については近年も幾つか目立つものがあったが、まず、今回の「つぶす」発言をどう見ているか。

神保哲生氏:自民党の文化芸術懇話会の性格が、必ずしも正確に理解されていないと思う。

 一部では私的な会合でのオフレコ発言がメディアに報道され、それが問題になるのはおかしいとの主張があるようだが、あの会合を単なる私的な会合と考えるには無理がある。

 確かに、あれは自民党の当選1、2回の若手議員の会合であり、政府の正式な会合でもなかったし、党の正規の部会や委員会の会合でもなかった。あくまで若手議員たちの私的な勉強会という位置づけということになっているようだが、しかし、実際は安倍チルドレンと呼ばれる、首相を支える立場にある若手国会議員の集まりで、しかもそこに首相に非常に近い立場にある、党と政権の幹部の二人が参加していた。

 一人は安倍さんの特別顧問を務める萩生田光一さん。萩生田さんは特に自民党でメディア対応の窓口となっている人で、前回の総選挙の直前に、萩生田さんの名前で、報道機関に対して公立中性な報道を要請する書簡が届いたことは周知の事実。

 その書簡は、中立性を損なったとしてテレビ朝日の報道局長が国会に証人喚問された件((注:「椿事件」:1993年にテレビ朝日が放送法で禁止されている偏向報道を行ったと疑われる事件)を「以前にこういうことがあった」という形で仄めかすことで、放送局を威嚇する内容だった。

 会合に参加していたもう一人の首相側近は、加藤勝信官房副長官。官房副長官なので、日頃から総理官邸で首相を補佐する立場にある。いずれも首相と日常的に直接会っている人たちだ。

 萩生田さんは4回当選で、加藤さんは5回当選なので、本来は今回の若手の会合に顔を出すような立場の人ではない、言うなれば大物だ。他の参加者がいずれも1、2回生だったことから、安倍さんの若手応援団の会合に首相の代理としてその側近中の側近の2人が参加しているというのが、あの会合の位置づけだった。ちなみに自民党の1、2回生というのは、いずれも安倍政権になってから初めて当選した人たちだ。

あえて政権中枢の大物を招いた

 つまりその会合には、あえて官邸と党の首相側近の二人が招かれていた。もしあれが若手議員だけの集まりであれば、メディアも取材はしていないかもしれないし、その場での発言内容があそこまで大きく報じられることもなかっただろう。

 しかし、あえて政権中枢の大物を招いて、なおかつあえて、保守的な立場から物議を醸す問題発言を繰り返している著名なベストセラー作家の百田さんを呼んでいる。そうすることで、意図的に会合の注目度を高めている。つまり、そこでの発言をあえてニュースに取り上げられやすいように、しっかりと「メディア対策」を講じているということだ。

 しかも、聞いたところでは、あの会合はメディアに頭撮り(注:冒頭部分をメディアに公開し、映像や写真の撮影を認めること)をさせている。これもまた、メディアに取り上げてもらうことを意図した「メディア対応」をしているということだ。

 会合の参加者などからは、会合自体は非公開であったにもかかわらず、記者が壁耳(記者が壁に耳を当てて部屋の中の話を聞くこと)をして内容を盗み聞きしたことに対する批判も聞かれたようだが、それもおかしな話だ。

 あえて話題作りのための様々な設定を施し、メディアに頭撮りまでさせた上に、会合ではわざわざマイクを使って、外からでも声が聞こえるように大きな声で話していた。私的な会合で、外部に聞かれては困る話を、マイクを使って大声でやるだろうか。

 要するに、どう見ても「私的な会合」とはとても言えないような設定を、自ら率先して図っていたということだ。

 これは、頭撮りの段階で既に今日は徹底的にメディア対策を議論するぞ、というポーズとも脅しとも受け止められる発言をしてみせることで、「統治権力はメディアのことを厳しく監視しているし、その対策も色々考えているぞ」というメッセージを発するところにその目的があったと考えるのが普通だ。

 もしそれを意識せずにやっていたとすれば、あまりに素人すぎて、お話にならない。国会議員や政権というものが持っている権力の存在をおよそ認識できていないことになり、政治家失格と言わねばならない。

 もしそれを意図的にやっていたのであれば、発言が暴走気味になったことが批判されたくらいで、簡単に旗を降ろしてしまうとは、何とも情けない。

 首相に近い人たちが参加する政権与党の政治家の会合で、メディアへの圧力のかけ方がまことしやかに議論された。そして、そこでのやりとりが問題になると、あれは私的な会合だったと言い訳するのは、権力の座にある者としては、あまりにも見苦しい。

 最近は安保法制の国会審議で、憲法学者が口を揃えてこの法案を「違憲」と断じて以降、大手メディアも勇気づけられたとみえて、いつになく安倍政権に対して批判的な報道を続けている。

 それが政権を逆風に晒している一因となっていると考えた政権周辺の人たちが、メディアを牽制するための1つの手段として、あのような会合を企画したところ、逆に、やぶ蛇になってしまい、かえって批判に拍車が掛かってしまった。まあ、だいたいそんなところではないか。

 しかし、それにしても、言っていいことと言ってはいけないことの区別が付いていない人たちがあんなにいるということには、正直驚いた。

 あの会合での発言は問題外の発言なので、それを批判をすること自体は大切だが、それはあまりにもレベルの低いところの議論でしかない。

 この問題はもっとずっと根が深い。だから、問題発言をした政治家を批判するだけで終わってしまってはだめだ。

メディアが圧力に脆いことに気づいた政権

 安倍政権になってから、メディアに対する露骨な圧力が目立つようになった。これは安倍政権が、日本の大手メディアが意外と圧力に脆いことに気づいた結果だと思う。

 実際に経団連に頼んでメディアへの広告の出稿を減らしてもらうことなど、現実的ではないし、経団連に広告を減らすよう言ったところで、経団連の会員企業が実際に広告を減らすとはとても思えないし、沖縄の新聞を潰す話にしたって、彼らに認可業種でもない新聞を潰す手立てなど何もない。

 しかし、政権与党がそのようなメッセージを発すれば、メディアは厭が応にもそれを意識するようになる。

 いざ真正面から圧力がかかればメディアも抵抗するだろうから、実際に圧力をかけて報道内容を変えさせることは容易なことではないが、特に日本ではそうした発言でメディアを萎縮させ、自主規制を引き出すことがそれほど難しくないことに、権力が気づいてしまったような気がする。

 今回の若手の会合は批判を受け、それが安倍政権にとっても支持率の低下など、よりいっそうの悪影響を与える結果となった。しかし、長期的にそれがどのような波及効果を生むかは、現時点ではわからない。

 目先では百田氏に対する批判とか、参加していた議員の発言への批判とかが目立ち、結果的に政権与党にとっては誤算となっているが、「この政権は常にそういうことを考えながら、メディアを厳しくウォッチしているぞ」というメッセージだけは、確実にメディアに伝わっている。その意味では、長期的にはこの会合を開催した当初の目的は果たしていると見ることができるからだ。

メッセージ効果

ーメディアを怖がらせてしまった?

 あれしきの発言で萎縮する記者はいないだろうが、メディア企業の経営陣に対する一定のメッセージ効果はあったのではないか。

 テレビ朝日の「報道ステーション」とか、TBSの「報道特集」のように、大手メディアの中にも現時点では安倍政権に対して厳しいスタンスの報道を続けている番組がいくつかはある。

 同じ放送局の他の番組では必ずしも同様の政権批判スタンスを取っていないことを見ると、これらの社内にも色々な考えがあることが窺える。例えば、社内で政権批判路線を快く思っていない人が、今回の一件でスポンサーがびびりだしているなどと言って、政権批判を控えるべきだと主張し始める可能性は十分にある。

 今回の会議自体はやり方も稚拙だったし、内容がひどすぎた。しかし、これを安倍政権になってから続いている、ある種の「メディア・コントロール」の一環として理解することは重要だ。

 文字通り、飴と鞭を使ってメディアをしっかり押さえることが、政権を安定させ、政権が持つ政治的なアジェンダ(達成目標)を実現する上では不可欠であることを、安倍政権は前回の政権時に痛いほど思い知ったのだろう。今回、安倍政権が戦略的にメディア対策を行っていることは間違いない。

 統治権力がメディアに手を突っ込むことには警戒が必要だが、どこの国でも政権はメディア対策に力を入れるものだ。安倍政権のメディア対策は、決してそれほど高度なものとは思わない。しかし、特に長年政治とメディアの蜜月が当然視されてきた日本では、メディアの側がそれしきのメディア対策にも太刀打ちできていないところが、とても心配だ。

日本における、報道の「中立性」とは何か

ー政治家が特定の報道メディアの取材を拒否する、あるいは政党が報道番組への出演を「公平さを欠いている」という理由で出演を事実上拒否するというも近年、あった。そのほかにも似た様な事例があるが、今回の例も含め、政治が戦略的にメディア対策を進めているということか。

 安倍さんあたりは戦略的に動いているというよりも、心底、日本のメディア報道が偏向していると思って怒っている可能性はあるが、そもそも首相のそうしたキャラクターも含めてメディア対策を考えるべきだ。

 安倍さんは「ニュース23」という番組に出た時に、街頭インタビューを聞いて、自分の政策を批判する人が多く出ていたことに怒りを露わにした。政策を支持する人もいるはずなのに、報道が偏向していると言うのだ。

 実際のオンエアでは政策を支持する人も何人かは紹介されていたようだが、人数的には批判の方が多かったそうだ。しかし、そもそも街頭インタビューというのは世論調査ではないので、そこでの賛成・反対の比率に何か重要な意味があるわけではない。

 「賛成の人はどういう理由で賛成なのか聞いてみました」と言って、賛成の意見だけを集める企画があってもいいし、その逆があってもいい。そんなところにメディアの「中立性」を求めるのは間違いだし、編集権の侵害だ。それは中立性の問題ではなく、単に「平板」な報道をしろと言っているに過ぎない。

ーその安倍さんの発言自体も批判されたが。

 若干裏話になるが、例えば安保法制について、今、実際に街頭でインタビューをすると、圧倒的多数が安保法制には反対だと言う。そこには、あえてマスコミの取材に応じようという人の中には、何かに反対していたり怒っていたりする人が多い傾向があることからくる、メディア特有のバイアスの部分もある。しかし、仮に実際の街頭インタビューをした結果、9割が反対意見だったとしても、放送局としては9人の反対意見と1人の賛成意見を紹介することは憚られるだろう。局としては、あえてバランスをとって、実際の比率以上に賛成意見を多く紹介している。

 安倍さんの主張が正当だとすれば、局はむしろ取材結果を曲げて、政権への賛成意見を水増しして報道したことになる。政権にとって都合のいい偏りは許されるがその逆は許されないというのでは、全体主義国家だ。

 日本では報道の中立性という時の中立性の意味が、かなり初歩的なレベルで誤解されているように思う。中立とは真ん中に立つことではない。賛成意見と反対意見を同じ分量だけ報じれば中立性が担保されるわけではない。

 この話を始めると長くなるが、ジャーナリズムにおける中立性の最も初歩的な定義は、どこに立つかは記者自身、あるいは報道機関自身の判断に委ねられているが、そこに立った上での報じ方については、ジャーナリズムのルールに則らなければならないというもの。

 そして、そこでいう基本的なルールとは、批判は自由だが、批判をする以上、批判をされた側に反論の機会を与えなければならないというもの。中立というと、どうしても真ん中という意味に受け取られるので、中立・公正、もしくは公正原則(フェアネス・ドクトリン)と言った方がわかりやすいかもしれない。

 これが日本での例え話として適当がどうかはわからないが、自分がアメリカのジャーナリズム・スクールで学んでいた時に教わった例は、フェアネス(公正さ)とは何かを理解するためには、裁判をイメージするとわかりやすいということだった。つまり、被告の罪を立証するためにどこを攻めるかは、それこそ検察の裁量に委ねられるべきものだが、その裁判が公正(フェア)なものであるためには、検察が証人なり証拠なりを立てて一箇所を攻めてきたなら、必ず弁護側にも反証、反対尋問の機会が与えられなければならないというものだ。

日本のメディア産業の特殊さ

ーイギリスでは「インパーシャル」(偏らない、公平な、という意味)という言い方をしてる。Aという見方と、Bという見方がある、と。この2つの見方を出して、それで公平さが担保された、と見る。「取材に応じなかった」という一言でも出す。その点では、日本のメディアは傷つきやすい位置にあるのではないか。「中立で」と言われたら、議論を返せないような?

 それは重要な論点だ。日本のメディア産業は、かなり、世界のメディア産業の中でも特殊な性格を持っている。

 それは日本のメディア、とりわけ新聞とテレビと通信社が、あまりにも大きな特権を享受しているという点だ。そしてその特権はいずれも政治との関係において与えられているものだ。そのため、欧米基準でのインパーシャリティ(中立性)が担保されていたとしても、日本のメディアは政治からの要求をそう簡単には無視できない、ある種の弱みがある。

 その中には最近結構知られるようになってきた記者クラブという制度もある。他にも日本では新聞社が放送局に出資する上で全く制限がないこともその中の一つだ。いわゆる、クロスオーナーシップと呼ばれるもので、その制限がないために日本では5つの全国紙を中心に大手メディアがことごとく系列化し、コングロマリット化している

 これは、メディアの多様性を担保する上でも障害になっているし、新聞とテレビという世論に最も影響力を持つ2つのメディア間に相互批判が起きないという意味でも、日本のメディアの腐敗や堕落の重大な要因となっている。しかし、こうした特権はその一方で、特権の恩恵を受けているメディア企業には莫大な利益を約束してくれる貴重な経営のリソースとなっている。

 他にも、たとえば日本の新聞は世界でも希な再販価格維持制度(再販制度)というものによって守られていて、市場原理の競争から免除されている。新聞社が一定の利益が出る水準で販売価格を決定し、販売店に対しその値段で売ることを強制することができる。電力会社の総括原価方式と似ていて、元々利益を確保した価格に設定されているので、新聞社は利益が約束されるビジネスとなる。

 日本は市場原理を採用する資本主義国家なので、製品の値段は本来は市場が決めることになっているが、この制度の下では、価格が統制され、販売店は勝手に値下げすることができない。

 これは、戦後、日本がまだ焼き野原からなんとか復興しようとしているときに、新聞という公共財を過当競争に晒してしまうと、例えば公共性の高い良質な新聞が競争に負けてしまい、商業主義優先のセンセーショナルな報道をする新聞だけが残ってしまうかもしれない。それが戦前の翼賛体制を礼賛する新聞を生んだという反省もあり、日本は戦後、再販制度で新聞を守ることを選択した。

 その結果、新聞は短期的な競争原理から解放され、利益が約束される中で、ある程度長期的な計画の上に立った経営や報道が可能になった。その利益で全国に販売網を整理して、今日の非常に安定した新聞産業の基礎を築くことができた。

 インターネットの時代に日本の新聞がまだ比較的安定している最大の理由は、販売網が整備されているため、広告費への依存度を低く抑えられているからだ。また、主要新聞は世界でも群を抜く発行部数を持つようになった。日本の人口は1億2千万で世界で10番目だが、読売と朝日は世界でも1位と2位の発行部数を誇る。

 私自身は戦後、再販で新聞を守り、新聞社が全国津々浦々まで販売網を整備したことは、先人たちに先見の明があったと思うし、大正解だったと思う。

 しかし、未だに市場原理に逆らって消費者から余分な料金を徴収することで、世界で最も巨大な新聞社を未だに守っているのはおかしい。しかし、なぜそれが変えられないかと言えば、再販によって守られたらばこそ新聞社は世論に強大な影響力を持つようになり、その影響力を使って再販に対する批判を抑圧したり、それを擁護しているからだ。

 また、本来は再販の直接的な当事者ではないテレビも、クロスオーナーシップによって新聞社と系列化しているため、新聞社にとっては虎の子の再販問題を一切扱わおうとしない。

 忘れてはならないのは、再販は市民にとっては取るに足らないマイナーな問題ではないということだ。一般の市民が毎日、新聞や書籍や雑誌を買うために支払っている料金が、日本では再販によって統制され、実際の市場原理よりも高いものになっている。消費者は本来必要な値段よりも余分にお金を支払って新聞社や出版社を守っている。守りたいと思って守っているのであれば、それでも構わないが、余分にお金を払っていることを知らされていないため、自分たちがそれを守っているという意識もない。

 しかも、余分なお金を出して守っているという意識もないので、その前提にある「公共性」を要求するマインドも起きない。新聞社はそうして溜め込んだ利益で、不動産投資をしたり、クロスオーナーシップ規制がないのをいいことに、全国の放送局に出資して、役員を天下らせたり、他の新聞社を買収して傘下に収めたりしている。一体、消費者の中に、そんなことのために新聞に本来よりも余分なお金を支払わされていることを自覚している人が、どれほどいるだろうか。

なぜ政権に近づく必要が?

 記者クラブとクロスオーナーシップ、再販の3つを私は日本のメディアの三大利権と位置づけているが、そうこうしているうちに、大手メディアはものすごく大きな特権を享受することが当たり前になり、その特権を維持するために、どうしても政治に近いところにい続ける必要がでてきた。

 例えばテレビ局と、テレビ局を管轄する総務省は、当たり前のように人事交流をしている。テレビ局の職員が総務省に出向している。それは、総務省の行政機能をいろいろと勉強するためとか言っているけれど、実際は自分たちの生殺与奪を握る監督官庁から情報を得るためだったり、ロビーイングするためだったりする。報道機関としては取材対象であるはずの政府の部局に、職員を人質として差し出すようなことを平気でやっているのだ。

政府が直接放送免許を出す日本

 日本では総務省は放送免許を付与する主体だ。日本では放送免許の付与が、アメリカのFCC (連邦通信委員会、電報・電話・放送などの事業の許認可権をもつ独立行政機関)とか、イギリスのオフコム(放送通信庁。放送・通信分野の独立規制・監督機関。放送・通信免許の付与権を持つ)のような、第3者機関方式になっていない。政府が直接、放送免許を出している。

ー独立性の面で、問題だ。

 その通りだ。政府はメディアとして監視をしなければならない対象だ。そこから放送事業の命綱となる放送免許を頂いている。

 実は、戦後の直後は日本にもアメリカのFCCやイギリスのオフコムのような制度があった。GHQは戦前、放送が翼賛体制を支える一翼を担ったとの反省の上に、電波監理委員会という独立した機関を設立した。

 しかし、日本がサンフランシスコ講話条約に署名して主権を回復したのが、1951年の9月8日、条約が発効して主権を回復したのが1952年の4月28日だが、何とその年の7月31日には郵政省の設置法が改正され、電波管理委員会は廃止されている。再び放送が国家管理に戻ってしまった。

 主権を回復した日本で、吉田内閣が最初にやったことの1つが、独立して放送を管理する電波監理委員会を潰し、放送を国家管理の下に戻すことだった。以来、日本では放送の国家管理が続いている。

ー公的な組織に委ねられないだろうか。

 実は民主政権の時代に、原口総務大臣が民主党は日本版FCCを目指すという発言をしているが、大手メディアはどこもそんなことは報じなかった。(神保氏がやっている)「ビデオ・ドットコム・ニュース」は重要な改革の一つだと考え、結構力を入れて報じたが、マスメディアが軒並み黙殺したニュースは、それほど大きなニュースにはならない。

 ビデオニュースのような小さなメディアが報じたニュースが、後にマスメディアにも取り上げられた大きなニュースになった例はいくつもあるが、このニュースに関してはマスメディア側に「報じない」インセンティブが働いているため、ほとんどニュースにはならなかった。マスメディアがこれをニュースにしないことに成功したと言った方がより正確かもしれない。

 メディアが横並びで黙殺したり、明らかに論点化を避けたがっている問題に踏み込むことは、メディア関係者はもとより、政治家も一般の企業人も、できれば避けたいこととなる。誰も大手メディアを敵には回したくない。ましては、大手メディア全体を敵に回すことなど、もってのほかだ。

 企業にとってもメディアとの関係は重要な経営資源になる。メディア関係者に至っては、大手メディアを敵に回せば、仕事がこなくなる。政治家だって、必ずしも市民の間に、そのような問題意識がないところで、メディア問題の手を突っ込んで、メディアを敵に回すばかりか、言論への介入だなどの誹りを受けるくらいなら、問題を避けて通りたいと考えるのは当然のことだ。(「下」につづく)
by polimediauk | 2015-08-04 03:09 | 政治とメディア