小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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(新聞通信調査会が発行する「メディア展望」11月の筆者記事に補足しました。)

 10月6日、ブルガリア北部ルセの公園で女性の殺害遺体が発見された。地方テレビ局のジャーナリスト、ビクトリア・マリノバ氏(30歳)の最後の姿だった。同氏は欧州連合(EU)の補助金をめぐる不正疑惑について報道したばかりで、ブルガリア内外に波紋を広げた。

 報道と殺害との関連は現時点で判明していないが、汚職問題を追いかけていたジャーナリストが殺害されるのはEU加盟国では過去1年で彼女が3人目となった。

マリノバ氏が手がけていた疑惑とは

 ブルガリア(人口約710万人)は1989年に共産党独裁体制を終えんさせ、国民の生活レベルの向上と北大西洋条約機構(NATO)やEUへの加盟を念願の1つとしてきた。

 2004年にはNATO加盟、07年にはEU加盟を実現させるが、課題とされた組織犯罪・汚職の撲滅には手を焼いてきた。汚職をなくするための非政府組織「トランスペアレンシー・インターナショナル」はブルガリアを「EUの中で最も汚職度が高い国」と呼んだ。同組織が発表する最新の「腐敗認識指数」のランキングで、ブルガリアは180か国中72番目(日本は20番目)である。

 マリノバ氏はテレビ局「TVN」に所属し、殺害される1週間ほど前に「うそ発見器」と呼ばれる新番組で司会を担当。ルーマニアの調査報道組織「ライズ・プロジェクト」とブルガリアの同様の組織「ビボル」のジャーナリスト2人にインタビューした。2人はブルガリアの政財界によるEUの補助金の不正利用疑惑を調査していた。8月、疑惑に関連する人物を撮影しようとしてブルガリア警察に逮捕されたが、ルーマニア当局の介入で数時間の拘束後に解放された体験を持つ。

 10月6日朝、マリノバ氏はジョギングをするために公園に向かい、後に遺体となって発見された。死因は窒息と頭部打撲で、性的暴行を受けたあともあった。事件から数日後、21歳のブルガリア人の男性がドイツで逮捕された。検察幹部によると、容疑者は別の性的暴行殺人事件で警察に指名手配されており、マリノバ氏の殺害は「突発的な攻撃だった」としている。容疑者は「殺害しようとは思わなかった」、「性的暴行はしていない」と述べている(ガーディアン紙、10月12日付)。

スロバキアの事件

 ブルガリア同様に1989年に共産主義体制を終わらせたスロバキア(人口約544万人)は1993年にチェコと連邦制を解消した後、2004年にNATOとEUに加盟した。

 今年2月、27歳の調査報道ジャーナリスト、ヤン・クツィヤク氏はフィアンセとともに、首都ブラチスラバから約50キロ東方にあるベルカマカの自宅で射殺された。

 同氏は「アクチュアリティ」というウェブサイトで政府とマフィアによるEUの補助金をめぐる癒着を取材してきた。スロバキアでジャーナリストが殺害されるのは今回が初だという。

 クツィヤク氏の殺害事件を機に大規模な反政府デモが発生し、3月、フィツォ首相が辞任。ペレグリニ新政権が発足している。

 殺害はクツィヤク氏のジャーナリズムに関連していると見られ、これまでに4人が起訴された。7万ユーロ(約900万円)で殺害を引き受けたのは元警察官だった。誰が殺害を依頼したのかについては捜査が続いている。

「ダフネ・プロジェクト」

 昨年10月には、マルタ(人口約43万人、2004年EU加盟)のジャーナリスト、ダフネ・カルアナガリチア氏(53歳)が殺害された。

 同氏は自宅近くで乗用車に仕掛けられた爆弾が爆発し、死亡。前月、自分のブログに「命を脅かされている」と書いていた。カルアナガリチア氏はムスカット首相の妻や側近の汚職疑惑や、国際的な資産隠しを暴露した「パナマ文書」と国外の富裕層に向けたマルタの市民権や旅券の高額販売との関連を調べていた。

 事件発生から2か月後、警察は3人の男性を実行犯として逮捕したが、裁判では3人とも事件への関与を否定した。

 今年4月、米ニューヨーク・タイムズ、英ガーディアン、仏ルモンドなど18の報道機関で45人のジャーナリストが、カルアナガリチア氏の調査報道を続行し、暗殺事件の真相を究明するためのサイト「ダフネ・プロジェクト」を立ち上げている。

 ブルガリアのジャーナリストの殺害については報道内容とは関係なかったという説が今のところは強いものの、ジャーナリストが殺害される事件が相次ぎ、EU市民に衝撃を与えた。

 世界の状況を見ると、ジャーナリストの殺害は年間数人程度ではない。非政府組織「国境なき記者団」の調べによれば、昨年1年間で命を落としたジャーナリストは65人。紛争に巻き込まれて亡くなった人は26人で、殺し屋に暗殺された人は39人だった。非営利組織「ジャーナリスト保護委員会」の調べでは、昨年1年と今年秋までに殺害されたジャーナリスト(紛争時及び暗殺事件の合計)は90人に上った。

サウジのジャーナリスト殺害疑惑は「リトマス紙」

 最近、最も注目を集めたのはサウジアラビアの著名ジャーナリスト、ジャマール・ハーショグジー氏の殺害事件だろう(これまでの報道では「ジャマル・カショギ」という表記が多いが、最も原語に近いのはこちらの表記と言われている)。

 10月上旬、ハーショグジー氏が忽然と姿を消し、国際的な大問題に発展した。

 同氏はサウジ王室との関係が深い人物で、近年はムハンマド皇太子の政策を批判して反感を買い、米国に住むようになった。米ワシントンポスト紙のコラムニストとなり、反対意見に抑圧的な皇太子を批判的に書いた。サウジ側からすれば、「サウジアラビアのことを熟知し、耳に痛い記事を書く、危険なジャーナリスト」ともいえよう。

 10月2日、同氏は交際していたトルコ人女性と結婚するため、イスタンブールにあるサウジアラビア領事館を訪れた。女性は領事館まで同行し、館外でハーショグジー氏を待っていたが、同氏が出てくることはなかった。ハーショグジー氏がジャーナリストであったこと、著名な米新聞でコラムを持っていたことから英語圏では同氏が姿を消したことが大々的に報道された。トルコ当局は同氏が殺害されたと主張したが、サウジ側はこれを当初否定した。

 ハーショグジー氏の処遇に付随して広がってきたのが、反サウジアラビア感情である。真実がどうであれ、サウジの実権を握るムハンマド皇太子が「体制批判をしていたジャーナリストの殺害を指示した」となると、「言論の自由は保障されるべき」と考える欧米社会からすると「一線を越えた」展開となる。

 そこで、10月23日から25日までサウジアラビアで開催予定の会議「未来の投資イニシアティブ」でメディア・スポンサーとなっていた英フィナンシャル・タイムズ、米国のブルームバーグ、CNN,CNBCが参加を取りやめると発表した(ガーディアン、10月13日付)。スピーカーの一人として予定されていた英「エコノミスト」誌のザニー・ミントン・ベドーズ編集長は参加を取り下げた。

 英バージン・メディアの創業者リチャード・ブランソン氏は同社が計画する宇宙事業へのサウジアラビアからの10億ポンド(約1475億円)規模の投資についての話し合いを中止する動きに出た。ブランソン氏は声明文の中で、もしハーショグジー氏がその体制批判の報道ゆえにサウジ側に殺害されたという報道が真実であるならば、西欧側はサウジ政府とビジネスを行うことができなくなると述べた。ハーショグジー氏の殺害疑惑は、欧米社会の「良心」を示す一種のリトマス紙として認識されるようになった。

 トランプ米大統領はサウジ政府の関与が判明した場合「厳罰を科す」という考えを示しているが、米議会が求めるサウジへの武器輸出停止に関しては拒否すると記者団に述べた。国内の雇用への悪影響を考慮したと思われる。

 「改革派」として欧米で好意的に受け止められてきたムハンマド皇太子の政治姿勢に、大きな疑問符が付くようになった。10月14日、英独仏の外務大臣はサウジ政府に対し、ハーショグジー氏の処遇について十分な調査を行うよう求める声明文を発表した。

 ハーショグジー氏の失踪は報道の自由をめぐる事件というよりも、中東情勢を反映した政治事件という面が日増しに強くなっている。

 トルコとサウジアラビアの関係が悪化するのどうか、中東でのイランの影響力を抑えるためにサウジ寄りだった米国がその姿勢を変えるのか、また英国にとっては武器売却先として大顧客となっているサウジとの関係をどうするつもりなのか、目を離せない状況となっている。

 真相は明らかになるだろうか。

 ・・・以上が10月15日時点で書いた原稿だが、その後事態は急速に展開し、現在ではサウジ側もハーショグジー氏が殺害されたことは認めている。11月16日、米CIAは、皇太子の関与は間違いないという結論を出した

 焦点は皇太子が関与した(もっとはっきり言えば、直接殺害を指示した)という共通の認識の下で、国際社会が彼に何らかの責任を取ることを求めるかどうかだ。すでに、トランプ米大統領は皇太子の責任を追及しない姿勢を明らかにしている。

***

 筆者による関連記事もご参考に

 サウジ記者殺害事件 ムハンマド皇太子との「蜜月」から一斉に引いた欧米諸国に感じる違和感(BLOGOS, 10月26日掲載)

 サウジを厳しく追及できないイギリスの冷酷なお家事情(ニューズウィークジャパン、10月16日掲載)


by polimediauk | 2018-12-11 15:46 | 欧州のメディア

 英国の公共(サービス)放送大手「BBC」。世界中で広くその名が知られている放送局だが、「国営放送」として紹介される事例をネット上でよく見かける。

 改めて国営放送とは何かというと、例えば「ブリタニカ国際大百科事典」の定義によれば、

 国家自身が管理運営する放送。国家予算や国庫交付金などを主たる財源とし,国家機関の一部局として,あるいは国家の強い管理下で放送事業を行い,営利を直接の目的としない。中国などの社会主義国のほか,開発途上国の放送機関の多くが国営放送である。

 では、公共放送とは何か?

 「百科事典マイペディア」の定義によれば、

 放送事業体が営利を目的とせず,聴視者からの聴視料などをおもな財源として,公共の福祉と発展を事業目的として行う放送を商業放送と対比していう。日本のNHK,英国のイギリス放送協会(BBC)などはその代表的なもの。

 英国の主要放送局はBBC,ITV、チャンネル4、チャンネル5、そして有料放送のトップ、スカイなどがあるが、いずれも国営ではない。

 細かく言えば、最初の4つの主要放送局はすべてが「公共サービス放送」(Public Service Broadcasting=PSB)というカテゴリーに入り、放送業を公共サービスの1つとしてとらえる伝統が続いている。

 ちなみに、BBC以外の放送局ITV,チャンネル4、チャンネル5はその運営を広告収入によってまかなっている。運営資金調達方法からいえば、この3局は「商業放送」と言ってよい。しかし、チェンネル4は政府が所有しており、通常の「公共放送か民放か」の2者択一では分類できない形になっている。

 公共放送と商業放送の違いについて、「世界大百科事典」を見てみると、 

 企業として利潤を得ることを目的とせず,もっぱら広く一般の人々の福祉のために行われる放送。放送事業体の類型の一つで,商業放送との対比で設定されるもの。主として,(1)事業目的 公共放送は一般の福祉向上,商業放送は利潤の獲得,(2)運営財源 公共放送は主として受信料,それに対して商業放送は広告収入,(3)番組編成基準 公共放送は全国民的ニーズ,これに対して商業放送は市場性,以上の3点で公共放送は商業放送との対比において特徴づけられる。

なぜ、区別が大事なのか

 筆者がこの原稿を書こうと思いたった1つの理由は、「国営放送のBBC」,「BBCは国営放送」という表現を日本語のネット空間でよく見かけるからだ。

 当初は、「BBCが国営放送ではないことを知ったうえで、ジョークや皮肉としてそう書いているのだろう」と思ったものだ。「まるで国営放送のように、政府寄りの報道をしている」など、一種の批判として書いているのだろう、と。

 しかし、この頃はジョークや皮肉、批判的表現ではなく、これを事実として認識している人が次第に増えているのではないか、と思うようになった。

 というのも、メディア関係者でさえ、「BBCは国営放送」という前提で話したり・書いたり、あるいはそのような前提での論考や批判を「うっかり(?)」と事実として受け止めている例をたまに見かけるようになったからだ。

 しかし、「BBCは国営放送」とするのは、事実誤認である。もちろん、「国営放送のようだ」と表現するのは大いにありだが。

 BBCを国営放送として認識してしまうと、その存在意義が全く無視されてしまうことになる。誰がその運営費を払い、何を重要視しているのかについて、全く違う理解をしてしまうことになる。

 国営放送では何をどのように放送するかを決めるのは時の政府になるし(政府を「国民の代表」と解釈することもできるが)、公共放送では(受信料を払う)みんな(=国民)が決める。いわゆる「お上」が決めるのか、社会を構成するみんなが決めるのか、という話である。そして、BBCは後者である。

BBCの成り立ち

 英国は、なぜ放送業を公共サービスの1つとしてとらえるようになったのだろうか?

 それは放送業の始まりに由来している。英国の放送業の開始は、BBCの誕生と同義語だ。

 拙著「英国メディア史」に書いた個所を参考にしながら、説明してみたい。

 19世紀後半。世界中の科学者が電波を利用した無線通信の実用の可能性を探っていた。

 1896年、イタリア人の発明家・無線研究家のグリエルモ・マルコーニも自己流の実験に没頭し、投資家を求めて英国に渡った。翌年、英郵政省向けの実演が評価されたマルコーニは無線電信機の英国での特許を取得する。

 マルコーニ無線会社を立ち上げ、1899年、英仏ドーバー海峡横断の無線通信に成功。1901年、大西洋横断の無線通信を成就させ、09年にはノーベル物理学賞を受賞するまでになった。

 第1次大戦(1914-18年)を経て、ロンドン郊外チェルムスフォードにあったマルコーニの通信施設では、実験的なラジオ放送が始まっていた。1920年、「新聞王」ノースクリフ卿が当時の著名なオペラ歌手ネリー・メルバによるラジオ・コンサートを実施させた。

 大好評となったメルバの歌声を聞き、「ワイヤレス」(無線、あるいは無線機。当時はラジオの代名詞)メーカーは大きな市場が生まれることを予感した。そこで郵政省に対し、放送局を設置するための申請書を送るようになった。政府は、周波数の混乱を防ぐため、メーカー側が一つの組織にまとまることを希望した。

 1922年、200以上の無線機メーカーがまとまって民間企業「BBC](British Broadcasting Company)が生まれた。

 BBCは、政府からラジオの販売と放送の事実上の独占権を与えられた。民間企業としてのBBCの収入の大部分はラジオの販売からの売り上げと聞き手が郵政省に払う「受信免許料」(ライセンス料)であった。

「公共」の概念が入るまで

 放送を公共サービスとしてとらえ、そのサービスを提供する組織も公的存在であるべきという考えは、アマチュアの無線愛好家たちや政府のレベルで次第に支持されるようになっていく。

 背景には、英国の政治家や知識人の間に広がっていた「資本主義は悪くないが、市場競争に任せてばかりでは富の配分はうまく行かない」とする考え方があった。郵便体制、漁業、水道、電気が公共体として運営されており、放送も射程に入った。

 政府高官らによる米国への視察も影響を及ぼした。世界に先駆けて放送業が発達した米国では、数千にも上る放送局が乱立していた。英政府は米国が「混とん状態にある」と判断し、中央からの規制体制を構築して、大小の無線機メーカーを統合させて1つの放送体を形成させる道を選んだのである。

 こうして、1927年1月、公共放送としてのBBCが生まれた。

国営化への抵抗

 公共組織に変わる直前の1926年5月、英国でゼネストが発生した。

 公共交通機関がほぼ停止し、新聞は休刊かページを大幅に縮小。唯一の最新ニュースを得られる媒体として、BBC(当時はラジオ)を誰もが聞きたがった。BBCの放送内容を書きとったものがあちこちに貼りだされ、電気店や新聞社など、人々はラジオがあるところに集まって放送を聞いた。

 政府は、ウィンストン・チャーチル財務相(のちに首相となる)に御用新聞「ブリティッシュ・ガゼット」を制作させている。

 チャーチルはBBCに対し、ガゼットの報道を読み上げるよう依頼したが、BBC側に断られた。国家の緊急時には政府はBBCを国の管理下に置くことができたが、今回どうするかについて内閣では意見が割れた。チャーチルはBBCの臨時の国営化を主張する一人だった。

 当時の経営陣のトップ、リース卿はボールドウィン首相との連絡を密にしながらも、ニュースの扱いが公平で、当事者の両方の主張を紹介するよう尽力した。

 BBCは「本当に何が起きているかを知らせてくれる」報道機関として、国民や政治家らから頼りにされて、国営化を免れた。

 現在も、公益を目的として報道する伝統が続いている。BBCばかりではなく、ほかの英国のPSB放送局にもこの精神が根付いている。

情報があふれる時代、公共放送の意義をホールBBC会長が力説

 11月14日と15日、スコットランド・エディンバラで、メディア会議「NewsXchange」(欧州放送連合=EBU=主催)が開催された。EBUは欧州を中心とした56か国の公共放送局が加盟する組織で、毎年、このタイトルでメディア会議を開いている。筆者は2005年頃から、この会議を何回か取材してきた。

 情報があふれるこの時代、公共放送の意義は何なのか?

 14日、BBCのトニー・ホール会長の基調講演を聞いてみた。

 印象深かったのが、「視聴者を中心に置く」という立ち位置だ。「視聴者に対して、責任を持つこと」。

 現在、「自分の意見に同意しなかったら、あなたは自分の敵だ」とみなす風潮が強い。しかし、公共(サービス)放送の役目は片方だけの意見を出すのではなく、「偏らないこと。BBCが理解するところの世界のありようをそのまま出すこと」。

 BBCの課題は「視聴者に仕える・役立つための最善の方法は何か」を考えることだという。

 「トップダウンで、視聴者に向かって放送コンテンツを流す、というのではなくて、視聴者とともにある放送局であるべき」、とホール会長は言う。

 視聴者が「自分たちで物事を決定する」ことを支援する存在としてのBBCである、と。

 そのためにBBCが具体的に手掛けるのは、「フェイクニュース(正しくは「ミスインフォメーション」と言い換えた)の撃退」、「説明する」、「リアリティ・チェックというコーナーで、何が事実なのかを明らかにする」、「専門性を持ったジャーナリズム」。

 何度も会長が繰り返したのが、BBCは「視聴者のために」存在していること。ジャーナリズムの役目は「人々に力をつけさせる(エンパワーする)こと」、「人々が自分たちで物事を決定することを可能にすること」。

 リップサービスだと思うだろうか?

 筆者はそうは思わなかった。この理想が十分に現実化しているかどうかの評価は別にしても、BBCの国内放送の主たる運営費は視聴家庭が払うライセンス料によるので、このような表現は当然であろうし、これが公共(サービス)放送とは何かの意味なのだと思う。

 

 


by polimediauk | 2018-12-06 22:58 | 放送業界

(「英国ニュースダイジェスト」の筆者コラム「英国メディアを読み解く」に補足しました。)

 来年3月末、英国は欧州連合(EU)から離脱する(=「ブレグジット」)ことになっていますが、英政府側とEU側が合意した離脱協定に対する英国内の不満が高く、不安感が増しています。11日にはこの協定を認めるか認めないか、下院で投票が行われますが、もし否決された場合、どうなるのか先が読めない状態です。

 そもそも、英国はEUにどのような過程を経て加盟したのでしょうか。ここでちょっと振り返ってみましょう。

 欧州統合の歩みは、第2次世界大戦後に始まりました。

 多大な犠牲者を出した欧州各国は今後、2度とあのような戦争を起こさないように互いの友好を深める必要に迫られました。フランスの政治家ジャン・モネとロベール・シューマン外相は経済協力によって欧州間の結合を深める構想を提唱します。

 こうして設立されたのが欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC、1951年)でした。フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが加盟国です。その後、経済統合を目標とする欧州経済共同体(EEC、1958年)と欧州原子力共同体(EAEC、1958年)が発足。

 1961年、マクミラン首相の下、経済の活性化を望んだ英国はEECへの加盟申請を国会で可決しますが、1963年、フランスのド・ゴール大統領が英国の加盟に反対し、実現しませんでした。ド・ゴール大統領は英国が加盟すれば米国も入ってきて、共同体を支配するようになると懸念したのです。そうして1967年にも加盟申請を拒否されてしまいました。

 英国のEECへの加盟が実現したのは1973年です。デンマークとアイルランドも同時に加盟しました。ヒース首相は加盟によって英国に繁栄が訪れると喜んだようです。2年後の6月7日には、EECに加盟し続けるかどうかの国民投票が実施。3分の2が加盟維持に賛成しました。

サッチャー政権と懐疑派

 その後、欧州内で統合・拡大の気運が盛り上がる中、英国内にくすぶる欧州懐疑派も存在し続けました。これが顕著になったのがサッチャー政権(1979~90年)時です。

 1984年、サッチャー首相は英国への払戻金(リベート)制度を導入させます。拠出金の大きいわりに恩恵が小さいとして、一定の払戻金が英国に支払われるようにしたのです。

 1992年には投機筋のポンド買いを受けて、英国はサッチャー首相が不承不承加盟した「欧州為替相場メカニズム(ERM)」から脱退。

マーストリヒト条約へ 英国独立党が生まれることに

 1993年発効のマーストリヒト条約によりEECは欧州連合(EU)として発展しますが、デンマークの国民投票批准が否決され発効は延期されました。

 メージャー保守党政権は党内外の議員の反対に遭い、これを抑えて条約を批准したのは同年8月。発効はその3カ月後でした。昨年のEU離脱か残留かを巡る国民投票の実現に大きな貢献をした英国独立党(UKIP)の前身は、実はこの時期に発足しています

 こうして英国は、EUに加盟しながらも独立独歩の姿勢を貫いてきました。欧州単一通貨ユーロを導入せずにポンドを維持し、国境検査なしで往来できるシェンゲン協定にも参加していません。

 2004年、拡大路線のEUは旧東欧を中心とする10カ国の加盟を認めました。新加盟国ポーランド、ハンガリー、チェコなどからの移民が英国にやって来ました。

 EUは域内でのヒト・モノ・資本・サービスの自由な往来を原則としているために、加盟国は域内からの人の流入を制限できません。地域によっては旧東欧の移民で溢れたり、国民医療制度(NHS)の病院や学校が急増する患者や生徒の対応に追われる事態が発生。低所得層の一部は「仕事が奪われる」「福利厚生が手薄になる」などと危機感を覚えるようになりました。

 英国では欧州大陸は元々「外国」という感覚があります。強いポンドと過去の歴史を背景に独立心が旺盛な英国人にとって、統合の拡大化と深化に向けてまっしぐらのEUとその官僚機構は、不信感を覚えずにはいられない存在です。

意見がバラバラの英国

 2016年6月の国民投票では離脱派が僅差で勝利しました。離脱後、英国経済や人々の生活がどうなるのかはまだ分からない状況です。内閣内でさえ離脱の方向については意見が一致していないのです。

 民主的な方法で離脱と決めたのですから、何とか良い結果が得られるよう、政治家の奮闘を期待したいものですが、国内には様々な分断があって、なかなかうまく行きません。

 まず国民ですが、メイ首相が思い切った離脱を実施しようとすればするほど、残留派の国民から不安が生まれます。複数の世論調査を見ますと、以前に離脱派だった人が少し残留派になっているという結果は出ているものの、もう一度国民投票をやった場合に、「残留派が大きくリードする」ことはないと見られています。

 ▽混迷のブレグジット交渉「People's Vote」は実現するのか? - その目的、提案事項、投票体制とは

 与党保守党が離脱強硬派、離脱温和派、残留派に割れており、内閣も割れています。労働党も国会議員の中では残留派が多いのに、労働党の支持者が多いイングランド地方北部に住む人は離脱を選ぶ傾向がありました。

 さて、今、最大のネックになってきたのが、「アイルランド国境問題」です。離脱後にアイルランド共和国が「EU国」で、英国が「非EU国」なったら、英領北アイルランドとアイルランドとの間にモノや人の移動をチェックするため、線を引くことになります。もしそうなれば、地域紛争が起きるという理由から、そして「北アイルランドを英国から切り離す案は受け入れられない」という北アイルランドの政党DUPの反対で、膠着状態です。

 でも、これは交渉が開始された時から分かっていたことでした。英政府側の「なんとかなるさ・・・」ということでここまで来てしまいました。

 筆者自身は残留を支持していたのですが、英国民同様、「なんでもいいから、早く決めてくれ」というのが本音です。

 でも、40数年間一緒に生きたバートナー同士。右往左往しながら、時間をかけて、別れていくものなのかもしれません。


by polimediauk | 2018-12-04 19:56