小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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 新型コロナウイルスの感染拡大措置として、英国では3月23日から不要不急の外出禁止令が出ている。生活必需品を扱うスーパー、食料を販売する小売店、薬局、銀行などをのぞいて、商店街のほとんどが閉店状態だ。図書館、博物館、教会、スポーツクラブも閉鎖中。レストランやカフェはテイクアウト専門でのみ、営業できる。働いている人は自宅勤務が奨励されている。

 ビジネスを停止せざるを得なくなった企業は、従業員を解雇するべきかどうかの選択を迫られた。しかし、コロナで影響を受けたビジネスがどんどん人を解雇してしまうと、経済への打撃が大きすぎる。

 そこで英政府は複数の経済支援策を出しているが、そのうちの1つが「雇用維持スキーム」である。

 これは、企業が従業員(フルタイム、パートタイム、派遣社員を含む)の雇用を維持し、自宅待機(一時解雇)状態とした場合、その従業員の給与の最大80%(月額最大2500ポンド=約33万円)を政府が肩代わりする制度。支援は3月の給与分から計算され、6月末まで続く。最短では営業日6日で企業あるいは従業員の口座に資金が入ることを目指している。

 20日、雇用維持制度の申請受付が始まった。

初日分では130万人の被雇用者を支援

中小企業支援策を繰り出す、スナク財務相(英官邸フリッカーより)
中小企業支援策を繰り出す、スナク財務相(英官邸フリッカーより)

 

 政府の発表によると、受付初日、申請した企業は18万5000社に上った。これで約130万人の給与に補助金が出ることになる。担当部署となる英国歳入関税局の試算では、初日分で15億ポンド(約1990億円)に相当するという。

 申請件数は今後も伸び続ける見込みだ。英商工会議所(BCC)の調べによると、加盟企業の70%が従業員の一部を自宅待機にしているという。

 BCCのアダム・マーシャル事務局長は、リシ・スナク財務相にあてた書簡の中で、支援の期限(6月末)を延長するよう求めた。現在のロックダウンは5月上旬に見直しをすることになっているが、もし6月に解除された場合、直後に支援がなくなると経営が危なくなる企業が出てくるからだ。

 従業員を自宅待機とした業界は幅広い。新聞業界、外食業者(マクドナルド、KFCなど)、衣料ブランド(オアシス、ウエアハウス、トップショップなど)、航空会社(英国航空、イージージェットなど)など。

 サッカーのプレミアリーグでは、ボーンマス、リバプール、トッテナムが、当初この制度の利用を発表したものの、著名プレーヤーに高額報酬を支払っていることから批判の嵐となり、利用しないことを決めている。

 なお、自営業者に向けた同様の制度は5月中旬以降、稼働予定だ。

ほかの企業支援策は

 このほかに政府が繰り出した企業支援策としては、企業の規模によって、「'''コロナウイルス・ビジネス中断貸付スキーム'''」、「'''コロナウィルス・大手ビジネス中断貸付スキーム'''」、「COVID-19 企業金融ファシリティ」などがある(COVID 19=コービッド・ナインティーン=とは、新型コロナ感染症のこと)。この3つを合わせて総額3300億ポンド(約43兆円)に上る。

 コロナウイルス・ビジネス中断貸付スキームは年商が4500万ポンド(約59億円)未満の企業が対象で、6年間、上限500万ポンド(約6億円)の貸し付けを含む金融支援を受けられる。

 コロナウイルス・大手ビジネス中断貸付スキームは、年商4500万ポンド以上の企業が対象。年商が2億5000万ポンド(約331億円)以上であれば最大5000万ポンド(約66億円)まで、それ以下であれば、最大2500万ポンド(約33億円)までの金融支援の申請ができる。

 COVID-19 企業金融ファシリティは、イングランド中央銀行が大手企業の短期負債を買い取る仕組みだ。

 このほか、従業員がコロナウイルスに感染して病欠となった場合、その給与(2週間が限度)を政府が負担する。また、小売業、ホスピタリティ―業、レジャー業の企業の場合、2020-21年分の法人税の支払いを免除される。

中小企業で「貸付スキーム」を利用できたのは一握り

 しかし、貸付スキームが必ずしも政府の狙い通りには進んでいないことが、明らかになってきた。

 英政府がコロナ感染措置のために外出の自粛を呼びかけたのは、3月中旬。外出禁止令、小売業閉鎖令が出たのは同月23日である。貸付スキームの詳細を財務省がまとめ、公表したのが同じく23日であった。

 準備期間が短かったこともあって、金融機関は実施作業に手間取った。ほかの金融機関との間で同様のスキームを申請していないどうか、企業の信用度はどうかなどの確認に時間がかかってしまった。

 手続きの簡素化が行われ、4月に入ってようやく資金が企業側に到着することになったが、金融支援の承諾を得た企業の数が極度に少ないことが分かってきた。

 金融業界が4月中旬に明らかにしたところによると、これまで英国内の中小企業から28万件もの申請があったにもかかわらず、貸付スキームにゴーサインが出たのは6000件のみ。中小企業の総数は約590万で、非常に少ない数字だ。

 スキームが思うように進まない理由の1つとして、もし貸付が返済できなくなった場合の政府保証が貸付額の80%に限定されている点だといわれている。スナク財務相は「100%の政府保証は考えていない」と繰り返し述べてきた。

 しかし、この方針は変わる可能性がないわけではない。

 このスキーム自体が当初、中小企業を救うために考案されたものだったが、「大企業はどうするのか」という非難の声が上がり、コロナウィルス・大手ビジネス中断貸付スキームができた。また、一時解雇となった従業員の給与支援も、当初は会社員を想定していたが、「自営業にも拡大されるべき」という声が出て、実際にそうなった経緯がある。

 野党・労働党や英商工会議所は「100%の政府保証」を求める声をあげている。

低所得層向け手当申請が急増

 国民の窮状ぶりを示すのが、低所得層向けの手当「ユニバーサル・クレジット」(児童手当、住宅手当、収入補足手当など)への申請件数の急増だ。

 

 雇用年金省の発表によると、3月中旬から月末までの間にユニバーサル・クレジットを申請した人は95万人に上った。通常であれば、申請件数は10万人ほどだという。もし申請者を失業者として計算した場合、英国の失業率は直近の3・9%から6・7%に上昇する。失業者が134万人出た計算だ。ただし、実際には低賃金で働いている人、一時解雇になっている人も含まれているという。

英慈善組織「Turn2Us」は支援を呼びかける(ウェブサイトより)
英慈善組織「Turn2Us」は支援を呼びかける(ウェブサイトより)

 慈善組織「Turn2Us」の調査では、自営業者、シングル・マザー、18歳から25歳の若者層はすでに雇用が保障されにくい職に就いている傾向があり、コロナ発生による経済不況に影響を受けやすいという(BBCニュース、4月20日付)。ユニバーサル・クレジットの申請者は350万人にも上るのではないか、と予測している。

どこまで、政府は支援を続けるのか

 英政府は、毎日、閣僚一人と医療サービス高官、科学顧問とが出席する記者会見を官邸で開催している。

 22日の記者会見で、イングランド主任医務官のクリス・ウィッティー教授の発言が大きな注目を浴びた。

 いつ外出禁止令が解かれ、感染しないように他者との距離を取る「ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)」政策が終わるのかと聞かれ、そのためには「ワクチンと効果的な薬が見つかる必要がある」と答えた後で、「ソーシャル・ディスタンシングはしばらく続く」と補足した。感染者数・死者数がピークを越えた後でも、「すぐに前のようにはならない」と。

 ビジネスが「全開」状態とならない時期が長く続くとすると、政府の支援を必要とする領域はますます広がる。今でさえも、支援額を拡大させるべきという声が強い。

 しかし、拡大するばかりの政府支援に、筆者は一抹の不安を感じる。「今は、巨額を費やしても支援を提供するべき時だ」、とスナク財務相は述べ、腹をくくっているようなのだが。

 誰にも正解が分からない世界に、私たちは今生きている。

 ほかの欧州諸国ではロックダウンを緩和する兆しが見えてきたが、英政府は「社会的距離政策の維持」と「税金を使って支援を提供する」の2本立てで進んでいる


by polimediauk | 2020-04-27 16:33 | 英国事情

自宅で取材に応じる、英キャスターのアレガイアー氏(BBCニュースのサイトから)

 日本では、テレビ朝日「報道ステーション」のメイン・キャスター、富川悠太氏が11日夜、新型コロナウイルスに感染していたことが分かり、「番組で繰り返し感染予防を呼びかけていた立場にもかかわらず、このような事態を招き、視聴者の皆様、関係者の皆様に大変がご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」、という謝罪コメントを発表した。

 数日前に発熱したが、いったんは平熱に戻ったため「上司や会社に的確に報告せず、出演を続けていた」という(全文)(「報道ステーション」関連動画)。

 15日には、同番組のチーフ・プロデューサーとスタッフが感染していたことも判明した。

 発熱を軽視して「上司や会社に的確に報告せず、出演を続けていた」部分は、やや軽率だった印象があるけれども、会社の管理体制、番組制作における感染防止策、キャスターを含む出演者に対する教育等がどうだったのかなどの点が解明されないと、判断が困難だ(*補足を最後に書きました)。

 「視聴者の皆様」に迷惑をかけた…というのは意味不明だが(がっかりさせてしまった、という意味だろうか)、関係する人すべてに謝罪するべき、と思ったのかもしれない。

 いずれにしても、「感染した人=悪い人」・・・ではないだろう。本人の対処が遅れがちになったのも、理由があるのかもしれない。

 筆者が住む英国では、新型コロナウイルスには誰もが感染してしまう可能性があるので、感染者個人にその責任を問い、謝罪を求めるような雰囲気にはなっていない。

 その理由や背景に注目してみた。

英国では感染者約10万8000人、死者約1万4500人

 まず、英国での最新の感染状況を見てみよう。

 政府が毎日発表している数字によると、17日午前9時時点で累積検査数は43万8991件。1日に行われた検査数は2万1328件。検査で陽性となった人(感染者)は10万8692人。そして、16日時点で死者は1万4576人である(ちなみに、英国の人口は約6700万人)。この場合の死者とは、病院で亡くなった人の数だ。

 3月末時点では感染者は約1万7000人、死者は1000人を少し超えただけだった。1か月半で、死者は13倍増えている。新型コロナウイルスの急速な拡大が分かる。

 感染しやすく、かつ重篤な状態になりがちな人は、当初、「70歳以上の高齢者」、「呼吸器系やそのほかの持病、例えば糖尿病を患っている人」などとされていた。しかし、今は年齢や社会層にかかわらず「誰もが感染しうるウイルス」として認識されるようになった。


 感染してもすぐに表面化しない場合があり、検査を受けるまでは自分自身が感染している可能性もある(つまり、他者にうつす可能性が出てくる)。


 対策として、最強と言われているのが「手をよく洗うこと」、「他者との距離を取ること(「ソーシャル・ディスタンシング」)。こうして、英政府は「家に留まる(Stay at home)」ように、と国民に呼びかけている。3月末から始まった外出禁止令は、少なくとも5上旬まで続く予定である。

ジョンソン首相、保健相も感染者に

 感染した場合、感染者個人の責任を問わない雰囲気がある、と先に書いたが、国民がさすがに驚いたのが、「家に留まっていてください」と繰り返してきた政府閣僚らが感染した時だ。

 ソーシャル・ディスタンシング戦略を医療の面から主導してきたハンコック保健相や、国民に外出禁止令を出したジョンソン首相自身が感染者になってしまった。また、首相と一緒に毎日の記者会見に出ていた、イングランド地方主任医務官のクリス・ウィッティー教授が、自分は感染していないものの「大事を取って」、一時自宅療養に踏み切った。「手を洗う」をはじめとする対策を最も厳しく実行するはずの人々である。

 「国民には規則を守れと言っておいて、自分は逸脱したのではないか?」そんな疑問がわいてきた。しかし、ジョンソン首相の病状が悪化し、一時集中治療室に入るまでになると、懐疑の声は次第に消え、早期の回復を願うメッセージが国内外から送られるようになった。

 17日現在、ジョンソン首相は退院し、歴代の首相が使うチェッカーズ邸で療養中である。ハンコック保健相は現場に復帰した。「感染の経験がある身として・・・」という発言が、重みをもって響くこの頃だ。メディア取材に応じるハンコック氏の姿は「感染しても、回復し、職場に復帰できる」というメッセージを伝えている。

感染を公にしたBBCのキャスター

BBCのキャスター、アレガイアー氏(BBCのニュースサイトから)
BBCのキャスター、アレガイアー氏(BBCのニュースサイトから)

 英BBCのニュース・キャスターの一人、スリランカ出身のジョージ・アレガイアー氏は英国に住む人にはおなじみの顔である。

 アレガイアー氏は2014年と17年に大腸がんを発症したが、治療を受けて報道の現場に復帰していた。

 しかし、今年3月になって発熱があり、さまざまな検査を受けたところ、医師に新型コロナウイルス感染症にかかっているといわれたという。軽症ではあったが、しばらく仕事を休むことにし、3月31日、BBCの取材に応じた

 

 同僚のニュース・キャスターのリモート取材を自宅で受けたアレガイアー氏は、症状が軽かったので「何とかやっていける」と感じたという。

 「今、ガンの症状があって、コロナに感染したらどうしようと思っている人はたくさんいると思います。この人たちに何を伝えたいですか」と聞かれると、アレガイアー氏はこう答えた。

 「どうなるかわからない、不安定な状態に私たちはいます。ガン患者であれば、不安定さと付き合うことを知っていますよね」

 「自分が軽症だからといって、コロナ感染症を軽視するつもりは全くないのですが、ガン患者は人生の暗い日々のことを知っています」

 「私たちはより強いのだと思います。どのようなことになるのかわからない状況に入ることがどんなことかを知っているからです」

 「少なくとも私はそう思っています。6年間、ガン患者として生きてきたからです」

 「ガンとともに生きることができるのですから、コロナ感染症とも、ともに生きられると思っています」

 「自分の症状は軽いのですが、大部分の人は感染しても軽度なのですから」。

  自分の体験を語るアレガイアー氏の言葉が、心にあたたかく響いてくる。

  こうした流れの中で、「なぜどうやって感染したの?」、「感染防止策をフォローしなかったのでは?」という問いは呈されない。アレガイアー氏は感染したことを謝罪せず(少なとも公には)、視聴者も謝罪は求めない。非を責めるのではなく、「語ってくれてありがとう」という気持ちが生まれてくる。

犠牲者の人生を紹介するメディア

 BBCやガーディアン紙は、ウェブサイトを使って、新型コロナウィルス感染症で亡くなった人を遺族が提供した写真や逸話を基に紹介している。

 約1万3000人に上る感染死者は、遺族にとってはかけがえのない家族の一員だった。その人生をたどり、メディアで紹介されることで、その人を追悼することができるという意識がある。

 

父親(左から2人目)をコロナ感染症で亡くした遺族を紹介するBBCのサイト(ニュースサイトより)
父親(左から2人目)をコロナ感染症で亡くした遺族を紹介するBBCのサイト(ニュースサイトより)
医療関係者の感染死者を紹介する(BBCニュースのサイトより)
医療関係者の感染死者を紹介する(BBCニュースのサイトより)

 軽傷・重症に限らず、その感染体験を語る人もいる。感染未経験の人にとっては、いったいどのように感染したのか、どうやって回復したかを知るのは貴重だ。

 筆者は、今朝、フェイスブック上で自分の回復体験を語る投稿を読んだ。地域の助け合いのために設置されたフェイスブック・ページに掲載された投稿で、24歳の女性が数日、コロナ感染症で苦しんだ様子が書かれていた。どこで感染したか、彼女自身も分からないようだったが、はつらつとした笑顔の写真を見ると、元気づけられる。

 考えて見れば、あらゆるものすべてを常に殺菌するわけにはいかない。どれほどソーシャル・ディスタンシング規定を守り、手を頻繁に洗っても、室内外のいずれかのものから感染する可能性がある。

 「新型コロナ感染症=誰がもかかりうるもの」だから、ソーシャル・ディスタンシング下での生活の知恵や感染した場合の状況など、お互いに情報を共有しながら、新型コロナウイルスの拡大を阻止する機運を作っていきたいものだ。

***

*補足:富川キャスターの説明責任について:「発熱がありながら、報告が遅れた」という部分について、ここでは断定的な判断を書いてありませんが、それは「どれぐらいの発熱がどれぐらいの期間続いたのか」、「制作・管理側ではどのような規定があったのか」、「尋常の発熱ではなく、コロナ感染の疑いがあることを本人がいつ気づいたのか」という要素が第3者から見てわからないこと、また、「私たち自身が、どれぐらいの発熱がどれぐらい続けばコロナに相当という認識がまだ固まっていない」段階では、確定的なことが言えないと思ったからです。「xx度以上であれば、コロナ感染を疑う」という数字はすでに出されていますが、まだ今回のコロナについて十分な知識がない中では、見極める時間が必要になる気がします。度が過ぎた自主規制をすれば、おかしなことになるでしょう。また、仕事に対する献身の度合いも、もしかしたら関係していたかもしれません。あくまで仮説ですが。「もう少し、頑張ればよくなる」、と。

 いずれにしても、「誰もがうつす側になりうる」という感覚で、行動することが大切であることを今回の例が示したように思っています。


by polimediauk | 2020-04-25 17:30 | 放送業界

(新聞通信調査会発行の「メディア展望」3月号の筆者記事に補足しました。)

書評:飯塚恵子著(中公新書ラクレ=820円+税)

ドキュメント 誘導工作 情報操作の巧妙な罠

『ドキュメント 誘導工作 情報操作の巧妙な罠』(中公新書ラクレのサイトより)
『ドキュメント 誘導工作 情報操作の巧妙な罠』(中公新書ラクレのサイトより)

 「フェイクニュース」という言葉を聞くようになって、久しい。

 ここ2-3年、欧州で複数のメディア会議に出席してきた筆者は、フェイクニュース対策として「信頼できる報道機関が発信するニュースを見ていればよい」という段階を超えたのではないかと思うようになった。これを国家レベルで行われるサイバー空間での情報操作現象の1つととらえ、真剣にその対処法を考える時に来ているのではないか、と。

 そんな疑問に応えるのが、本書『ドキュメント 誘導工作 情報操作の巧妙な罠』である。

 「情報の『兵器化』によって世界が新たな局面に入った」という危機意識の下に、「外国が別の国に対し、主に情報を使って政治や社会に影響を与えようとする動き」を追う。

 著者の飯塚氏は読売新聞の首相官邸クラブキャップ、論説委員、ロンドン特派員、アメリカ総局長、国際部長などを歴任し、現在は東京本社の編集委員となっている。

 国際政治についての深い知見を基に、第1章「英国の国民投票、米大統領戦で起きたこと」、第2章「誘導工作とは何か」、第3章「ロシアの脅威」、第4章「反撃に出た西側社会」、第5章「中国の脅威」、第6章「狙われる日本」、そして最終第7章「次の試練 欧州議会選」へと論を進める。

誘導工作の2つの流れ

 本書によると、「誘導工作」には2つの大きな流れがある。

 1つは、「中長期的な時間軸の世界で、世論操作や選挙介入などを起こそうとする事態」。もう1つは「瞬間的な事象」で、サイバー攻撃によって政府や軍、企業、重要インフラなどに障害を発生させたり、国際イベントを混乱させたりする事態だ。サイバーテロもこれに入る。

 本書を読んで、筆者がより憂慮したのは前者の中長期的な事態だ。後者の攻撃は目立つ動きになるが、前者は知らない間に物事が進んでいるからだ。

 今新たに問題視されているのは、「民主主義の健全さを偽装して行われる世論操作の動き」だという。これは「中期的な事態」にあたるだろう。

 例えば、スウェーデンの「市民緊急事態庁」が作成した対策ハンドブックによると、情報工作は次のように進む。

 ー「健全に主張を訴える手段である広報やイベント、ロビー活動の形態」を模して動く

 ー直接自らの主張をする

 -「偽情報を混ぜて議論を混乱」させる

 -「主張を代弁させる組織に資金援助する」、など。

 冷戦時代にもよく行われていた活動だが、インターネットとソーシャルメディアの普及によって偽装手段もより巧妙となり、飯塚氏は「対策にはIT技術の高度な知見が不可欠になった」という。

民主主義社会で世論を作り、政治を変える

 日本の「サイバーディフェンス研究所」上級分析官名和利男氏は、本書の中で、民主主義社会での情報拡散が政治を動かすまでの過程をこう説明している。

 「フェイスブックなどのソーシャルメディアに、流したい情報を送り込み、じっと待っていると、内容によっては多くの国民が注目し、誘導できるようになる」。即効性はないが、一定の世論が形成されると、「政治家の方から有権者の主張に近寄るようになる」。実際にこのようにして選挙介入が発生し、政治家自身をも変えていくという。

 本書には、英国、スウェーデン、フランス、ラトビア、フィンランド、ロシアなどの欧州各国や日本の専門家の一問一答形式のインタビューが複数収められており、誘導工作の実情と対策が分かる。

 先の名和氏の分析によれば、「日本の企業は、決定権を持つ幹部は高齢で電子メールすら扱わない人も多く、総じてサイバー問題に対する危機意識が、海外に比べ、かなり低い」。

 知らず知らずのうちに、あることが「常識」になっていくー。そんな状況が生じていないかどうか、「誘導工作」に乗せられていないかどうか、常に情報を疑う姿勢を崩さないでいたいものだ。


by polimediauk | 2020-04-17 21:04 | 英国事情

 「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 第3回目:【実名報道を考える】「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか

 第4回目:【実名報道を考える】「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」を 英米報道の現場とは

 第5回目:【実名報道を考える】私たち一人一人が「パブリック」を構成している 「お客さん」ではない

 最終回は、メディアスクラムについてどうするべきかと、澤氏がこのテーマで「気になっていること」をうかがった。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

―メディアスクラムについて。実名報道を嫌う人たちの大きな理由の1つとして、実名が出ることによって、被害者やその遺族にメディアが過剰取材をするから、ということがありました。筆者からすると、それも「オープンで自由な社会」がもたらす、痛みの1つと見えるのですが、これを一体どうすればいいのでしょう。メディアに対する不信感が高まりすぎることを、私はとても心配しています。何も信じられなくなる社会になることが心配です。

 メディアスクラムについて、過剰で無思慮な取材の仕方がなされることは大問題で、改善の努力を続けていかなければならないと思います。

 ただかりに匿名報道の記事であっても、報道記事である以上、取材をしないで書くわけではありません。取材は尽くすが、匿名で報じるというだけで、取材の必要さは実名報道だろうが匿名だろうが同じです。できるだけ、当事者に当たって取材しなければなりません。

 警察が事実と違うことを言っている可能性もあるし、勘違いしている可能性もある。警察がうっかり見落とした大切な事実を、被害者など関係者は知っているかも知れない。実名報道しない場合でも、これらの取材は必要になります。そのためにはどうしても記者が何らかの形でコミュニケーションをすることになります。ここを省くと「当局の言うことの鵜呑み報道」になってしまいます。

 実際には「鵜呑み」の報道は確かにあって、あまり大きい記事にならないようなもの、あるいは関係者の取材が困難なものの場合は当局の情報に基づいて「警察によると」というベースで報じることは珍しくありません。これはこれで大きな問題なのですが、これを改善するとなると、結局やはり直接取材を励行するということになります。

しっかりした取材や調査が基本

 取材していない一方的情報だらけにならないようにするには、報道の際に匿名化するにしても、しっかり取材し調査をするしかないのです。そのやり方があまりにも乱暴だったり、当事者が嫌な思いをすることを続けたりするメディアスクラムをどう防ぐか、ということは本当に重要なことで、報道に携わる者挙げて取り組む必要があります。

 ただこれも難しい面はあり、取材拒否なのだからだれも近寄ってはならない、という規制をしていいのかどうか。もしこれが徹底されていたら、1999年に大学生猪野詩織さんが殺害された埼玉県桶川ストーカー殺人事件で「警察がストーカー捜査を怠ったがために被害者が殺されてしまった」という最も重大な事実は明らかにならなかった可能性が高いと思います。

 この不祥事を突き止めたのは写真週刊誌フォーカスの清水潔記者で、ご遺族は事件直後、あまりのメディアの報道のひどさに取材を拒否していましたが、清水記者が友人に真摯に取材し、ご遺族にも取材を申し込んで、信頼関係を少しずつ築いて調査を進めたことが「桶川ストーカー殺人事件~遺言」という本に記されています。

 取材拒否は無視して良いという意味では決してありません。むしろこの事件の報道側の反省点とし、これからもずっと覚えておくべきだと思います。しかし同時に「一切接触は禁止」など一律で考える余地がない基準をつくれば、意義重大な取材までも同時に取り除かれてしまうのではないかと思います。

 ところで、警察が実名情報を一切出さなければ取材を抑え込むことがある程度は可能になります。でも、警察が容疑者や被害者の実名を公式発表しなくても取材の中で分かることは珍しくありません。さらにはニセ情報も出回ります。捜査当局が実名情報を明らかにしないということは、ニセ情報をニセだと否定することも困難になるということです。ニセ情報をニセだと言い始めると、警察がニセだと言わない情報については本当だと発表したのと実質的に同じになってしまうからです。

 そしてなにより、刑事手続きはどの国でも公開性が高度に求められます。透明性が欠け人々の目が届かなくなると危険この上ないのです。その基本事項を発表しなくなることは「警察にお任せし、市民はいちいち詮索しない」という態勢にすることです。

 詮索というとちょっと意地悪なニュアンスがありますが、英語で「パブリック・スクルーティニー」いう表現がありますよね。情報公開、情報開示を示す場合もあります。スクルーティニーは英和辞書では「調査」や「吟味」という訳語が当てられますが、この言葉には同時に、詮索したりじろじろのぞき込んだりというニュアンスが結構強くあります。市民みんなでのぞき込み、ああでもないこうでもないと詮索、検証する。監視をするのはまさに「民」つまりパブリックであって、「詮索」的な視線でじろじろのぞき込むという感覚です。

 それにしても、おっしゃるように情報やコミュニケーションがオープンで自由な社会では「嫌な思いをさせるリスクゼロ」は実現できません。犯罪被害者や遺族に無理矢理取材するなどあってはならないと思いますが、ただ、「取材を受ける気持ちがあるかどうかを礼儀正しく尋ね、丁寧にお願いをする」こと自体はどうしても回避しがたく必要なことだと考えています。話したい人もいますし、記者の真意や趣旨、人柄を見極めるうちに話したくなる人もいます。しかし、それも嫌だという人は当然いるでしょう。

 これは、少なくとも取材に応じる気持ちがおありかどうかを尋ねることを前提にする限り、必ず発生する問題です。コミュニケーションにゼロリスクはありません。

 どういう人であれ記者は一切近寄ってはならない、という厳格な抑制をしてコミュニケーション自体をなくしてしまえば、記者と出会うことで嫌な思いをする人はゼロになります。そうすればメディアによって傷ついた人の声を聞くこともなく、世の中は平穏になるでしょう。それも一つの判断です。被害者遺族とメディアの間に立つ、例えば被害者支援弁護士や警察の人の中には、取材トラブルが起きて「完全シャットアウトをしなかったからだ」と非難されるリスクを意識する人もいるかも知れません。

 私自身は、オープンな社会で、多くの人が話したり意見を求めたりしてさまざまな声が出てくることを促すことが民主主義に欠かせないと思っています。事件報道が警察や加害者側のバージョンの話だけで成り立つことになってしまうのも良くないと思います。しかし、それ以上に平穏や秩序を重んじ、そのために取材や報道を抑制するという大変保守的な考え方が強まっていることは感じています。

報道の意味を理解してもらう試み

 最初から言いたい気持ちがはっきりとあって、行動する勇気もある人の話だけを伝えるべきだとなると、あまり大きな声をお持ちでない方、話そうかどうしようか、怖いからやめておこうかとお思いの方、子どもの頃から人前で話すのは苦手だという方、そんな方の声は届きにくくなります。そうならないよう、むしろあまり声の大きくない方にこそ報道の意味を理解してくださるよう求め、お話しして下さるよう促すのも記者の仕事の重要な部分です。

 そんな方のそばにいてくれる被害者代理人の弁護士が仲立ちになるというのも一つの方法ですが、被害者代理人の本来の責務は被害者や遺族の利益が守られること。その見地から、メディアで発言するというのはハイリスクすぎると判断される方も当然いらっしゃると思います。実際、それによって周囲のハラスメントやネットの侮辱的書き込みが誘発されるリスクは否定できません。だから、発言はやめるべきだという助言をすることは、その限りでは被害者や遺族のためになる判断なのかもしれません。

 記者は人々に「話して下さいませんか、それによって世の中は良くなると思います」とお願いするのが仕事なのですが、それによって当事者の方にとってなにか良いことがあるとは言えません。

 証言が集まったり、支援が集まったりすることはあり得ますが、報道はそれだけを目的にするものではありません。私たちに言えることは、世の中の人は話を聞いて議論を始め、こんなことが起きないように仕組みを作ろうと思うだろうし、それで世の中が少しずつ変わるのです--ということだけだと思います。今大変な目に遭っている被害者や遺族の方にただちに良いことがあるわけでも何でもないかもしれません。でもどうか「メンバー・オブ・ザ・パブリック」として話していただけませんか、というのが記者の仕事です。

 「当事者の利益」を代理する立場と、社会に情報を共有する立場と、ここがなかなかかみ合わないこと、おわかり頂けますでしょうか。

 ただ、立場が違うことは良く踏まえた上で、それでもエリートが一般市民に「社会に意見を言うなんてやめておいたほうが良いのでは」ということがどういうインパクトを持つか、もう少々考えてみたいと思うのです。

―最後に、このトピックについて、当方がカバーしていない論点、感想がありましたら、おっしゃってください。

 実名報道に伴う痛みは非常に深刻でありかつ明確に指摘することが可能なものが多くあります。逆に、実名情報のメリットは多くの場合、直ちに実感できるものではなく、実名情報を取り除いた場合に直ちに文脈が崩壊したり、意味を全くなさなくなったりというものでもありません。「なくてもなんとかなる」と受け止められるものです。

 基礎的な公共情報の共有と言ったところでいかにも観念的ですし、歴史の記録だと言っても「そんなものが何の役に立つのか」と思われるのがふつうかも知れません。実際には「匿名でも伝えられる」のではなく「匿名でも伝えられることもある」にすぎないのですが、「何が得られなかったかを知る」のは難しいものです。

 マスコミはネット以前、長年にわたって情報流通の要の座にあって、ジャーナリズムは重要で意義のある役割を果たしてきたと思っています。メディア批判、不満は紙メディアしかない時代であってもオルタナティブな雑誌やミニコミで活発に展開されていましたが、量的にも限られていたし、何よりある程度の議論のルールに則っていました。

 今のように直接、乱暴な言葉遣いのものも含めてSNS経由でどんどんぶつかってくるというのは報道関係者にとって史上初めての経験といって良いと思います。そこから学べることもとても多いのですが、一方で「いくら何でもそりゃあないだろう」というものもたくさんあります。

 報道機関で一定以上の世代の方とお話ししていると、これに戸惑って「あまり批判が来ない時代」の再来を求め、そうなるために「怒られることをしない」シフトを考えているフシがあるように感じています。実名報道でいえば、匿名の幅を増やしたり「私たちも配慮している」とアピールしたりです。

 私としては、「歴史を克明に記録する」というジャーナリズムの原理原則に反してまでそんなことをしても、かえって原理原則に対する態度のユルさを印象づけるだけで、「結局信念などないのではないか」「不真面目だ」と、むしろ非難の根拠を与えてもおかしくないように思います。

 日本では、メディアによる権力監視が不十分だとみる人が他国より多く、8割が「その役割を果たしていない」と考えていることは既に述べました。実際には森友・加計問題や「桜を見る会」、関西電力金品受領問題などの成果もあって、誤解に基づくところも多いとは思います。

 ただ、実名匿名でいうと、事件事故や災害の被害者報道では原理原則を堅く守る一方で、それ以外の報道で「なぜこれが匿名なのか」と思うようなものが多くなっていることが「マスコミは強い者に弱いのでは?」という疑念の源泉にもなっているように思います。

 「何となく匿名」みたいな空気が報道現場にあふれていないか、気になっています。

 信頼を得るには、優等生めいた振る舞いになることではなく、あくまでアグレッシブに書いていくことのほうが大切ではないかと感じています。それにより非常に蔑まれることもあるかもしれません。でも、マスコミがチヤホヤされようとしてはいけない、そんなことを求めることは職業人としておかしいと再確認する必要があるように思うのです。

 いわば「行儀の良さ」を追求し、トラブルを消去しようとする「縮小均衡」的な対応ではなく、よい報道成果と闘う姿勢で存在価値を感じていただくしかないのではないかと思っています。(終)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。

***

筆者記事:

【#実名報道】「オオカミの餌」にされても受け入れるイギリス市民 日本との違いは? 1月20日付

【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も 1月23日付


by polimediauk | 2020-04-10 16:07 | 日本関連

「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 第3回目:【実名報道を考える】「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか

 第4回目:【実名報道を考える】「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」を 英米報道の現場とは

 今回は、実名報道に関連して、「公(おおやけ)」の意味について、澤氏に聞いてみた。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

***

公の場での議論を土台とする、英社会

 ―少し広い視点での質問です。筆者は、実名・匿名報道で、2つの論点において、もやもやしたものを感じています。なかなか、うまく表現できないのですが。そのうちの1つは、「実名」と「公・パブリック」の考え方です。筆者が住むイギリスでは実名原則ですが、社会の一人一人の構成員が公正に扱われ、オープンな場で裁かれる・議論されることを土台とした社会の成り立ちがあるようです。この流れで、実名報道=歴史の記録の1つ、という考え方があるように感じています。日本では、この「パブリックのため」、あるいは「議論の公的空間」という意識がイギリスとはまた違うような気がしています。「人の気持ちを傷つけない」ことを非常に重要視する社会が日本であるようです。何かご感想があれば、お願いいたします。

 この「パブリック」に関する考え方は市民と社会との関わりに大きく関係していると思います。市民が何を担うのか、ということでもあります。ところがパブリックという概念がうまく日本では取り入れられていないように感じています。

 パブリックは日本語では「公(おおやけ)」「公共」などと訳されます。そこで「パブリック・ドキュメント」をそのまま「公の文書」「公共文書」と訳したら、官庁など政府機関の文書という意味合いが非常に強く出ないでしょうか。

 パブリック・ドキュメントは官庁の文書という以前に「公共公開の文書」「誰でも読めるように扱われている文書」という意味合いが非常に強いですよね。政府の文書という意味合いを出したいときは「オフィシャル・ドキュメント」という方が良いと思います。「公共機関」という日本語も自治体や政府というニュアンスが強く出ます。

 でも、英語のpublicはピープルと関係が深い言葉で、市民みんな、という感覚ではないでしょうか。だから公開とか共有とか、そういう意味に使われるのだと思います。そして、私たち一人一人もまたパブリックの一員です。

 日本語の新聞記事で「人が倒れているのを通行人が見つけ、110番した」というときの「通行人が」というのは、英語の新聞記事だとしばしば「a member of the public」と表現されています。パブリックの一員だから、みんなのために行動するという感じが出ますよね。これが「滅私奉公」になるのが封建社会の発想ですが、民主主義であればこれは「自治と参加」の根幹となることだと思います。

「パブリック」をめぐる、「官」と「民」の関係

 パブリックを日本式に「官」のニュアンスで受け止めれば、私たちは自分自身をパブリックの一員とは思わないのではないでしょうか。そういう公共のことをするのは「官」であって「民」ではない、という空気が日本には濃く流れているように思えてなりません。

 「民」は公共のものごとを担う側ではなく「お客さん」。お客さんだから、政治や行政に「苦情」はいろいろ言うけど、じゃあ自分で何かやってみよう、自分で変えるアイデアと行動にとりくもうという発想もなかなか生まれにくいのかもしれません。あるいは、「そんな立場じゃないから意見も差し挟まない」だったり…。となると、英語ではa member of the publicだったはずが日本では「しもじも」みたいに思えてきます。

 私たち自身こそ公共、だから社会のルール制定者や運営者の一部だという意識は、日本においてはなかなか希薄だと思います。誰もが少しずつ公人であって、それは望むか望まないかと関係ないことも多々あると思います。何か公共的、社会的な出来事や場面にたまたま自分の意思と関係なくかかわることも、人生の中で当然あります。私たちは誰もが言葉本来の意味で「社会人」、つまり社会と政治の運営・参加者だと思います。

 そう思ったときに、人は誰もがオープンな社会に責任を持って参加するものであって、それは基本的には公的に実名でなされるものだと思うのです。ただ、これは多くの場面でとても酷なことだし、負担の大きいことでもあるとも思います。

 自分だったら嫌だということと、しかし社会の仕組みや在り方としてそうある必要があるということとは、相当程度にわたって両立します。「当事者の希望どおりにすることが、社会制度として良好なものになる」とはいいきれないでしょう。

 目立たずに生きたいひとはそうすべきだ、それぞれの幸せだ、というのも一つの真理かも知れないのですが、私はそれをあまり強く言うことにはいささか抵抗があります。

 意見を言ったり意見を求められたり、そんなにして目立つ必要はない、それが配慮だという発想に陥ると、本来の民主主義の在り方から逸脱し、「お上」まかせのパターナリズム(親心による庇護の関係)、エリート主義、お任せ主義に堕していく危険を感じるのです。

「世の中の人はだいたい信用できる」に同意した人の比率が極端に低い日本

 名乗って社会で行動するということは、他の人に見られ、知られるということですが、それが怖い気はします。私自身も他人に知られざる人生を送る、いわば匿名人生の心地よさは感じます。でもこれも日本的な「他の市民への不信、恐れ」かもしれません。総務省の調査(2018年版情報通信白書)で「世の中の人はだいたい信用できる」という考えに「そう思う」と答えた人は、アメリカ、ドイツ、イギリスともだいたい18~20%程度です。ところが日本だけは2・8%なんですよ。

画像

「2018年版情報通信白書」166ページより)

 他の人が信じられない、つまり何されるか分からない、そんな社会に実名で出るのは怖いと思いますよね。他の人との相互信頼とかコミュニケーションが薄い感じです。実際、日本ではバスや地下鉄に乗って人にぶつかったりしても何にも言わない人も多いです。知らない他人に注意を促すときにやたら怒ったような言い方をする、困っている人がいてもみんな知らんぷり、なども日本の怖い、嫌なところだと思います。

 ニューヨークの地下鉄駅でちょっと困った顔をしていたら誰かしら声を掛けてくれるし、普通のコンビニみたいなお店やバスの中で見ず知らずの人が「そのカバンいいね」「あんたのジャケット素敵だね」と言ってくるなんてのはよくあることです。電車に乗っているとホームレスのおじさんが「私はホームレス、非常に厳しい人生を懸命に生きている」といってカンパを求めて回り、お金を出す人は普通にいます。市民同士、声を掛け合って生きている感じがあります。

「現場や被害者のことを見ないようにする」配慮が行き着く先は

 日本だと、駅や電車内で犯罪被害などトラブルが起きたら市民同士声を掛け合って、つまりメンバー・オブ・ザ・パブリックの行動をするというよりも、むしろ「係の人」を呼ぶと思います。

 もちろん、係の人はどこの国であっても結局呼ばなければなりませんが、それにしても一般市民はしゃしゃり出ない方向なら、現場や被害者のことを見ない、知らないようにするほうが良い配慮かも知れませんね。それも善意から出ていることは全く確かだし、それこそが「匿名報道」の思想かもしれません。

 他の市民が信頼できる、ということにならないと、市民みんなでものごとを決める民主主義の仕組みより、立派な「係の人」にお任せするエリート主義のほうが信頼できるということになりはしないかと思います。裁判の公開をはじめ、情報をオープンにすること、オープンに議論することも、もちろん報道でいろんな情報を共有することも意味は乏しくなってしまうでしょう。

 日本の報道倫理の議論の特徴は、取材先や記事に出てくる人に「迷惑を掛けていないか」がそうとう強く問われることです。

 英語圏だと「市民により良い情報をきちんと提供出来ているか」が重視されるのに対し、日本では情報が公表される過程で傷つく人が出ることを非常に重大にとらえる。誠実さの一つの形だとは思いますが、「市民が情報を得ること」が比較的に重視されないわけでもあります。情報を「知られる」という意識と、情報を「知る」意識のバランスーーいってしまえば「一般市民もナマ情報を知り、だから議論・検証できる」という主権者意識とのバランスが他国と違うのではないかという気もします。一般市民にナマ情報がなくても、お上が首尾良くやってくれる安心感があるのではないでしょうか。

 これは、民主主義になじんでいるかどうかということと深くつながるように思います。「文化の違い」ですませるにはいささか重すぎるように感じます。(続く)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。


by polimediauk | 2020-04-09 17:19 | 日本関連


米小学校の射殺事件の犠牲者の名前を1面に掲載した米紙(BuzzFeedより))

 「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 第3回目:【実名報道を考える】「出る杭は打たれる」空気 メディアは当局との距離をどう取るか

 今回は、英米のジャーナリズムを間近に経験された澤氏に、日本のジャーナリズムが目指すべき姿を聞いてみた。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

―実名報道について、報道機関側はその意義を主張するのに対し、一部の国民の間ではこれに反発する見方が広がっています。この「溝」をどうしたらいいのか。解決策をどのように見ていらっしゃいますか。

 何に対する解決かにもよるとは思うのですが、ジャーナリストと「世論」との意識の違いが完全になくなるということはなかなか望みづらいと思います。前述したように、どんな仕事でも仕事なりの見方や取り組み方があり、それはすべての人に直感的に受け入れてもらえることばかりではないのではないでしょうか。

 メディアスクラムやあまりに無礼な取材の仕方など、当然反省し改善しなければならないことは改めなければなりません。これは大前提だとは思います。かといって「ご本人が希望する取材や報道だけをする」「ご本人が納得することしか書かない」ということを本来の目的とするわけにはいかないのが報道の役割です。ご本人の希望や納得のために行うのは広報や宣伝の役割であり、広報や宣伝ももちろん社会的意義のある仕事ですが、報道とはまた別です。

 報道となると、第一の目的としては「社会に大きな関心を持たれ、情報の共有や、社会史への記録が必要と思われること」を報じるしかありません。それが、報じられる当事者の方々からみた要望や希望と常に一致するものとはいえません。これは報道側にとっていわば「責務と、目の前の当事者との板挟み」になることです。非常につらいのですが、ここはそのように整理するほかないとおもいます。

 ただ、理屈で「これこれしかじかだから実名が必要なのだ」と述べても説得力はあまりないと思います。これを読んで下さっている方にも、理屈ばかり述べたところであんまり響かないのではないだろうかと思いながら答えています。

 いま一番大切なのは「意義あるよい報道」をきちんとしていくことなのではないでしょうか。

「権力監視」についての認識がかけ離れている

(ロイタージャーナリズム研究所リポートから)
(ロイタージャーナリズム研究所リポートから)

 英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所の2019年「デジタルニュースレポート」によると、日本の記者が、報道の仕事について「政治指導者を監視し検証することが重要だ」と考える割合は9割を超え比較した世界17か国で最も高いのです。これが読者視聴者となると「報道メディアは力ある人やビジネスを監視、検証している」とみる比率は17%。12か国中最低です。記者と世間の「権力監視」についての認識がかけ離れる結果です。

 記者の自己評価の方は「こうすべきだ」であって「こうできていると思っている」ではないので、「記者が思うほど世間は評価していない」と単純に言ってはならない統計だと思いますし、こういう仕事(「汚れた桜 「桜を見る会」疑惑に迫った49日」)に懸命に取り組んでいることを考えればメディアへの誤解もあるとは思いますが、それにしても評価の低さは深刻だし、私自身つらいです。

必要な「戦闘的ジャーナリズム」

 これを考えると、今必要なのは「行儀の良さ」よりも「戦闘的ジャーナリズム」なのだと思います。

 実名匿名でいえば、地域社会で公的役割を負う人、公的責任がある人や、社会問題に責任を負う者の実名をなぜか控えてしまっているケースがないかどうか…私は非常に気になっています。

 役所の不祥事発表などの場合、当局が個人名を隠してしまって取材側ではハッキリとは分からない場合が少なくなく、「分かっているのにことさらに匿名報道した」のか「分からないから匿名にせざるを得ない」のかが読者から区別できないというのが混乱に拍車を掛けています。

 英米の場合「当局は名前を明らかにしていない」「匿名を条件に情報提供した」など、匿名にせざるを得ない理由を記事内に書くことで「原則として実名で書く」ことを読者に説明しています。実名情報を出す理由の説明ではなく、です。

 批判的に報道された実名情報が不当な攻撃や偏見を呼ばないかという懸念もあり得ますが、情報を悪用して偏見を煽る読者がいたとすればその行為自体が問題として厳しく問われるべきです。でも読者、視聴者の方々は殆どのかたがきちんとしていて、情報をもとに真面目な議論をすると思います。そういう前提でなければそもそもニュースを出すこと自体が無意味ですし、さらには民主主義だって市民の判断力を信頼しているからこそ成立するのではないでしょうか。

 報道側にとって大切なのは、公共性ある事項の社会的な背景を踏まえ、予断を持たずに取材を尽くし、言い分もフェアに報じることであって、情報を隠すことではないように思います。

―イギリスのロイタージャーナリズム研究所で勉強され、アメリカでは特派員として仕事をされましたね。英米のジャーナリズムでは、実名報道について、どんな感じだったのでしょう?もし何か印象深いことがあれば、ご教示ください。なぜ、実名報道が受け入れられているのでしょう?

 私がイギリスの報道を調べるため現地に留学したのは2006-07年です。

 当時大きく報道されたのは、イプスウィッチという東部の街で5人の若い女性が次々に遺体で見つかった事件でした。そしてこの女性たちは全員、売春をして生活をしていたのです。

 警察が女性たちの身元を特定すると実名がすぐに報道され、顔写真も大きく掲載され続けました。彼女たちが売春婦であることもです。彼女たちの人となりや経歴も、家族や友人が彼女たちを悼む声も詳細に報じられました。下品だと言われる大衆紙だけでなく、タイムズやガーディアンという高級紙、BBCまでも、日本の事件報道よりもずっと詳細で大きな報道を彼女たちの実名とともに続けたという強い印象が今も残っています。

 ただ、日本の報道パターンと異なり、たとえば薬物と売春の関係、社会問題にも絡めた報道も多く、英国社会の「新参者」であった私にも、その問題について多くを知ることができました。

 日本の場合、事件報道の「王道」は捜査スジつまり捜査の成り行きに収斂しがちです。もちろん捜査が進んでたとえば容疑者が逮捕されるなどということがあれば英国でも大ニュースになるのは同じですが、捜査以外の社会的背景の記事も面白く大量に出ていて、いろいろ学ぶことができたように思います。

 印象的なのは「昔なら、こういう仕事をしている女性が殺されるのは、そうでない仕事の女性が殺されるよりも大問題といえない-というような議論があったかも知れない。今はそれは許されない」という識者の意見を記事で読んだことです。彼女たちが売春婦であったことは事件の重要な部分であり、そこを一般市民に知らせないとかごまかすとか、ウラでだけ話すべきことだという態度を英国のメディアはとりませんでした。もちろん彼女たちの名前も隠しません。しかし、彼女たちを不当に低く見るようなことはおかしいという意見を紹介したのでした。こうしたイギリスの報道の在り方は今も変わりないようです。

米小学校での射殺事件で、ニューヨーク・タイムズは1面に犠牲者の名前を掲載した

 アメリカの場合も同様で、私が在米中に起きた小学校の銃乱射事件のことは特に印象的でした。コネティカット州のサンディフックという小学校に20歳のアダム・ランザという男が侵入し、6歳と7歳の子どもたち20人を含む26人を学校内で射殺しました。アメリカでは乱射事件が繰り返されますが、子どもが学校でこのように多数犠牲になるという意味でこの事件は最悪の乱射事件の一つだと思います。

  事件を伝えるニューヨーク・タイムズはこの犠牲者の名前を一面に並べました。それも大きな黒地に白抜きの表です。

米ニューヨーク・タイムズの1面(Buzzfeedのサイトより)
米ニューヨーク・タイムズの1面(Buzzfeedのサイトより)

 

 同じ社会に暮らす仲間の市民を悼む--そう私は感じました。新聞の読者に勝手に追悼されても意味がないという考え方もあるかも知れません。

 でも、社会は民と民のつながりです。社会は英語だとソサエティですが、英語のこの言葉は社交や交友の意味を多分に含みますよね。いろんな人と付き合う、あるいは飲みづきあいすることもまた「ソーシャライズ」ともいいます。だから福沢諭吉は「ソサエティ」に「人間交際」という訳語をつくったんです。

「普通の人が意見を求められ、意見を言う」こと

 社会とは人と人のつながりなのに、民と民がつながらず官やエリートに「お任せ」していたら民主主義は空洞化し、世の中の「声」は起こりません。ヨコつながりができるからボランティアやチャリティも生まれます。より安全な社会にするため、この被害者、遺族たちと話し合って法律を変えようという機運も強まるでしょう。それをやるのが「民」だと思います。もっとも、市民の声にもかかわらず米国の銃規制は遅々として進みませんが…。

 サンディフック小学校乱射事件で殺された1人、エミリー・パーカーさん(6)の父親、ロビー・パーカーさんは事件直後、すさまじい数のメディアが殺到する中で意見を述べました。その映像は今もユーチューブのCNN公式チャンネルで見られます。Father of school shooting victim 'blessed to be her dad

これを見て私は非常にショックを受けました。この話し方はいわば公の場で意見を訴えるパブリック・スピーキングのスタイルです。

 日本だと、こんな風に話す機会は学校の弁論大会を別にすれば、政治家や官僚、偉い人たち、あるいは市民運動家とか「話し慣れた人たち」のするものだという思い込みはなかったでしょうか。私にはありました。

 でも、こうやって普通の人が意見を求められ、意見を言う。それは政治家や官僚だけのことでなく、普通の人こそ真ん前に出てきて堂々と話す。仲間の市民もそれを尊重し勇気をたたえ、自分も議論を始める。そういうことなのかと、衝撃を受けました。

 ジャーナリストは偉い人を追っかけてもいますが、一方で「普通の人の小さな声」こそ大切にすべきだと言われます。それなのに、私の中に「普通の人がみんなの前で意見をスピーチすることはあんまりない」という思い込みがあったのに気付かされました。

 そういう思い込みがあったから、これを見てショックを受けたんですね。それは私にとって強い反省になりました。(続く)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。

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筆者記事:

【#実名報道】「オオカミの餌」にされても受け入れるイギリス市民 日本との違いは? 1月20日付

【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も 1月23日付


by polimediauk | 2020-04-08 20:35 | 日本関連


ロンドンのウォータールー駅構内は公共空間の1つ(撮影筆者)

 「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。

 第1回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのように匿名志向が生まれたのか

 第2回目:【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜ実名報道が基本になっていくのか

 今回は、匿名志向の背後にある考え方、これまでの教育、そして当局と報道機関との緊張関係、リークの意味について聞いてみた。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

「出るくいは打たれる」という空気

―日本での実名・匿名報道の議論について、普段から思っていらっしゃることをお聞かせ願えますか

 日本の「出るくいは打たれる」空気は非常に大きな影響を与えていると思います。注目を浴びたり、目立ったりは特別なこと、危険で怖いこと、攻撃を受けることだと感じる人は少なくないのではないでしょうか。私自身もそういう感覚はあります。

 教育の過程で「意見を言う」「思ったことを言う」ことが十分に推奨されず、「おとなしく聞いている」ことのほうが安心な教室になっているのではないかと思います。英国、米国など英語圏では「ショウ・アンド・テル」(見せて語る)という授業が小学校低学年などで広く行われているんだそうですね。何かをみんなの前で説明し、質疑もあるとか。

 「これは真似したい!欧米では定番の“Show and Tell”って知ってる?」

 パブリックスピーキングは出来て当たり前? アメリカの学校における取り組み

BBCの子供番組「ラブ・モンスター」の「ショー・アンド・テル」の画面(BBCのウェブサイトから)
BBCの子供番組「ラブ・モンスター」の「ショー・アンド・テル」の画面(BBCのウェブサイトから)

 パブリック・スピーキング(公共公開の場でみんなに話すこと)に子どもの頃から慣れていくのだと思います。民主主義の主権者として意見を考え意見を言う訓練は、とてもすばらしいと思います。記者として赴任した米国では本当に街角取材が楽で、政治、社会問題についてほぼ誰でも実名OKでどんどん語ってくれます。それにはこんな基礎があるのでしょう。

 どんな子も一人一人みんなの前で自分の意見を言う、つらい目に遭ったことを表明した子はブレイブ(勇敢)でありヒーローである、というようなことは日本ではどうなんでしょう。少なくとも私の子ども時代は、目立たず、はみださず、それが安全安心--という学校でした。もっとも私はお調子者で、当時でいう「目立とう精神」がある例外的なヘンな子だったのですが…。

 今はどうなんでしょう。アクティブラーニングが取り入れられつつあるそうなので、意見を言ったり質問したりが活発化するといいと期待しています。

 それにしても、日本では名乗って話すという文化がとても弱いと感じています。講演会やシンポジウムで質問をする人も、英語圏だと「私の名前はジョン・スミスで、何々の仕事をしています。私の質問は…」と話し始める人が多いのに対し、日本では全く名乗らなかったり「一般のもので…」と言ったりというようなことがふつうの風景です。「属性で判断するから属性情報には価値があるが、誰々という一個人であることの価値はない」、そういう感じです。

 一個人であることの価値、一個人として認識することの意味が無いのなら、出る杭が打たれたり、目立って気恥ずかしい思いをするマイナス面のほうがずっと深刻です。名前を呼んだり知らせたりすることは「尊重」ではなく「攻撃」というのが、日本の匿名社会に流れる空気なんでしょうか…。

 だから、できごとを語るときも固有名詞を「某」にしてみたり、匿名、イニシャルにしてしまうことが「配慮ある語り方」「品格ある者の振る舞い」となるのかも知れません。

 例えば、明らかに槇原敬之さんの事件のことを論評しているのに、ことさらに「覚醒剤所持の罪で起訴された人気男性アーティストが…」と表現し、「槇原敬之さん」という名前を避けるというような具合です。明らかに槇原さんの個別ケースを指していて、書き手も読み手も槇原さんのことだと分かっていることが前提になっている文章でもです。それが何となく上品なしぐさであるかのような共通認識があります。

 あるいは、虐待関係だったと思うのですが、ある学会に取材を兼ねて出席したとき、米国からのゲストが米国で実際に起きた虐待事件のいくつかを紹介しました。パワーポイントを使い、加害者や被害者の名前、写真なども明示されたのですが、主催者の日本側学者はちょっと慌てたように「この個人情報などはここ限りで」と注意していた場面が印象的です。米国のゲストスピーカーはそんなことは一切求めていなかったのに、です。

―あるエピソードを思い出します。昨年、日本に一時帰国していたのですが、性被害者が体験を語る集会(「フラワーデモ」)がありまして、行ってきました。記録にしたいと思い、スマートフォンで写真を撮ろうとしたら、「ダメ、ダメ」「そっちから撮ってはダメ」と言われて、驚きました。被害者の顔を出さないようにという配慮からでしたが、公空間での集会でしたので撮影は自由なはずで、それが駄目であることを理解するのに時間がかかりました。被害者への配慮が悪いというのではもちろん、ありません。ただ、公空間での撮影が駄目ということがすぐには呑み込めなかったのです。

ロンドンのウォータールー駅構内を歩く人々。公共空間であり、撮影は自由だ(撮影筆者)
ロンドンのウォータールー駅構内を歩く人々。公共空間であり、撮影は自由だ(撮影筆者)

 

 実際、「公空間」など「パブリック」(公共公開の、みんなの)という概念が日本にはなかなか見当たらなかったり、あってもごく限定的だったりするように思います。

 米国であれば、報道された事件や公開裁判になった事件であれば加害者名や被害者名も「パブリック・インフォメーション」(公共公開情報)となり、隠す必要がないし、隠すのはおかしいという感覚があります。

 日本の場合は広く報道され公共公開情報となったような事件でも、名を呼ぼうとせず「千葉県野田市の10歳女児」という表現にこだわる人はいますし、とくに研究者や法律家の間に人名回避の傾向があるような印象を受けます。

 実際のところ、虐待を受け死亡した千葉県野田市の栗原心愛さん(当時10歳)、東京都目黒区の船戸結愛さん(当時5歳)の事件は広く報道され、関係者や関係官庁の人々をはじめ多くの市民の努力を生みだし、虐待防止法が強化されました。

 米国や英国は「メーガン法」など、法律制定の原動力になった市民の名を法律の略称にすることがありますから、彼の地ならこの改正虐待防止法は「心愛・結愛法」と名付けられたに違いないと思っています。

 日本では法律や制度を作ると言えば国会議員や官僚であって、心愛さんや結愛さんという幼い市民が社会を変えたと受け止めることは、あまりなじまない社会なのかも知れません。

―この問題で、当局側(警察・検察・政府、企業他)が情報を握っていることを問題視する指摘もあります。メディアは当局からの情報のアクセス権を維持したいので、当局の情報拡散・あるいは隠すことに翻弄されている、と。これはどんな状況なのでしょう?問題だと思われますか?(「なぜマスコミは実名報道にこだわるのか? メディアと社会との間にある意識のズレ 」- 佐々木 俊尚

 佐々木さんが書かれた当局とメディアの「情報闘争」については自分の実感と重なる部分も一部あります。記者が当局内に秘密情報源をつくって「密かに当局の動きを把握できる」状態に置くこと、そうすると当局は「メディアが何を知っているのか」掌握しきれずそこが不気味で、自制にもつながることは確かにそうだろうとおもいます。

 佐々木さんの記事では、当局に被害者の実名を含む事件事故や捜査内容の詳細を「公表」させようとすることと「情報闘争」との関係についてはあまり詳細に書かれていません。

 が、事件事故や捜査内容に関して実名を含む詳細情報が公開、公共の情報となることは、当局が情報をコントロールしている状態から市民が情報を持つ状態に切り替わることです。とくに実名など固有名詞情報は事案検証に不可欠な「タグ」となります。しかし、これが「公表」されなければ、記者に限らず、研究者にせよ社会運動をする人にせよ、「当局だけがもつ情報」を知るためには「厚意」や「リーク」に頼るほかありません。

リークの本来の意味とは

 なお「リーク」というと当局が都合の良いことを記者に流してメディアをコントロールする不公正な手法のように思われがちですが、それはどちらかというと「リーク」つまり情報漏洩じたいではなく、情報コントロール、英語で言うと「スピン」ではないでしょうか。そして、取材については佐々木さんが書かれた内容には現実味があり、逆に突然記者に声がかかり「良いことを教えてやろう」みたいなことが起きるわけではありません。

 最近ですと、東京高検の黒川弘務検事長が63歳の定年を超えて雇用が延長されたことが「官邸お気に入りの黒川氏を検察の中心に置くための特別扱い」と批判を受けた問題がありますが、この延長について、検察幹部会議で疑問の声が上がったという異例の事態が報じられました。こんな非公開会合の中身が出ることもリークの一種です。

 これも検察による官邸とのバトルの一環という見方はできますが、市民にとっては必要な情報が法の網をくぐって漏洩された意義は軽視できないと思います。

 どんな情報であれ、当局が秘密として独占する情報が多ければ多いほど、メディアにせよ研究者にせよ、市民と当局との力関係は平等ではなくなります。

 検証に不可欠なタグである「誰が」という基礎情報すら当局者に頭を下げ「厚意」や「リーク」に頼らないと得られないとなると「人間関係を良好にしておかねばならない」事態に陥ってしまいます。

 こうなると、かみつくべき時にかみつけないという危険も出てきます。そうならないように記者は訓練を受け、デスクから厳しく指導されますが、何事もパーフェクトにはいきません。

 ところで捜査当局の場合、通常「報道発表」というと新聞・通信・放送などのメディアに情報提供することをいうことが多いと思うのですが、ほんとうに「公表」「発表」という趣旨に沿うなら、社会全体に公表するのであって、メディアであれノンメディアであれ、市民の問い合わせに対し広く開示するのが本来の筋で、アメリカやイギリスの警察のように、被害者名を含め基礎的公表情報はウェブに掲載することもあるべき態度ではないかと思います。つまり情報を言葉通り「パブリック(みんなの、公共公開の)」にするということです。(続く)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。


by polimediauk | 2020-04-07 20:36 | 日本関連

「実名報道を考える」では、共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(取材当時。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)に聞いた現場の話を数回に分けて紹介している(澤氏の経歴は記事の最後に付記)。第1回目は【実名報道を考える】現場の記者に聞く なぜどのようにして匿名志向が生まれたのか、である。

 今回は、実名報道に対する市民の見方と報道機関側との「ずれ」について同氏に聞いてみた。

 なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

実名報道のルールはどこで学ぶ?

―通信社の場合、実名報道については、どのようなルールがあるのでしょうか。なぜ実名で出すのかについて、何か教育はあるのでしょうか。と言いますのも、実名・匿名報道の議論を見ていますと、一般市民の間で実名報道への反対論があるのとは対照的に、報道組織にいる方はほとんど全員が実名報道の意義を主張しています。その違いは、「報道機関にいるかいないか」だけのようにも見えます。だとすると報道機関に入ることで、「何か」が起きるのか、を知りたく思いました。なぜ前者(報道の人)が空気のように当たり前のように思う実名報道が、なぜ後者(市民)では当たり前でなくなるのか、と。

 一般的なルールとして、記事で伝えるできごとは具体的に書き、中に出てくる人の名前はきちんと記すということはあります。実名原則とも言いますが、これを「ルール」として何か教科書的に「学ぶ」教育はあまり重視されていないのではないかと思います。

 新人記者は一定期間の研修を受けるものの、主な記者教育はオン・ザ・ジョブ・トレーニングです。つまり、実際に先輩記者やデスク(編集者)の指導の下で取材、執筆に取り組みながら、プロとしての取材の仕方、記事の書き方を身につけていくのですが、その際にむやみな匿名記事は編集者のチェックを通過しません。

 そこで「なぜ実名が原則として必要か、実名があった方が良い記事になるのか」をきちんとジャーナリズムの役割に基づいて議論し、先輩やデスクが説明することになります。これは、事件事故の当事者、関係者の実名を克明に記録するという趣旨の場合もありますし、コメント発言者や情報源の実名という出典明示の趣旨の場合もあります。

 米国のジャーナリズム教育研究機関ポインター研究所の執筆コーチ、ロイ・クラーク氏の書かれたものには人名どころか「犬の名前やビールの銘柄も書くこと」という教えも出てきますが、こうした実践の場で「きちんとした議論や説明」ができていることが大事だと私個人は思っています。

ハゲワシから少女を救うか、写真を撮るか

 一方で、ジャーナリストの取材報道に関する姿勢と、世の中全体の受け止め方との間には、実名匿名問題に限らず差があるのが通例ではないかと思っています。

 米首都ワシントンの新聞博物館「ニュージアム」(昨年閉館)に、有名な報道写真「ハゲワシと少女」*について、意見を問うコーナーがありました(*小林注:南アフリカの報道写真家ケビン・カーターが撮影した写真の1つ。飢饉状態となったスーダンで、餓死寸前となった少女をハゲワシが狙う瞬間を撮影し、1994年の米ピューリッツアー賞受賞)。「写真を撮らず少女を救う」「少女は救わず写真を撮る」の2択で、あえて「写真も撮るし少女も救う」という選択肢はおかずに選ばせるものです。

 私がそれを見たのは2014年春でしたが、一般市民は「少女を救う」が7割、ジャーナリストは「写真を撮る」が7割と正反対でした。こうしたギャップはどんな職業でもあるのかも知れません。

 また、ネット上、特にツイッター上では「ほとんどの人は実名報道反対」のように見えていますが、実際にはハフィントンポストの読者アンケートなどを見るとそこまではいえないように思われます。前回述べましたように、ネット上での匿名志向が日本では他国に比べて極めて顕著であることを考えに入れると、いわゆるネット上の意見の「見え方」にも一定の留意が必要であるように感じます。

―ご自身の経験で、遺族の方、あるいは取材をしにくい方からお話を聞くことが何度もあったかと思いますが、どのように乗り切ってこられたのでしょう?初めてそのような経験をする後輩の方には、どんなアドバイスを(もしアドバイスをされていたら)なさったのでしょう?

 これはちょっと難しいし微妙な質問で、私から詳らかにお話しできることはあまりないのですが、一にも二にも誠実にお願いするほかありません。

 よく「遺族や関係者から無理にコメントをとるマスコミ」というご批判があります。ひどい取材のしかた、あるいはメディアスクラムは深刻な問題で、反省し改善すべきだと思います。ただ実際のところ、良い記事を書きたい記者にとって「無理にコメントをとる」行為は非常に意味が乏しいものです。内容ある記事を書くためには、心が通じ合った上でお話ししていただくほかありません。亡くなった人の人物像記事などは、通常は、ご遺族や関係者の方と記者が信頼関係を築いて話し合った場合にこそ取材ができ、記事になると、同僚などの経験を聞く中で、思っています。

―報道の現場にいらして、実名・匿名報道に対する市民・読者側の視線が変わってきた、と思っていらっしゃいますか?

 はい、そう思います。「匿名を求める」「匿名で発言する」ということが急激に一般化していると感じます。それに伴い事件や事故のニュースに限らず、文化や話題もののようなニュースでさえ、「実名報道」が何かしら特別であるように扱われてきている印象を受けます。

 かつては日本でも、英米はじめ多くの国々に似て「報道といえば実名で行われるもの」ということが前提だったように思います。しかし、前回述べたように近年「匿名報道」という概念が生まれ、強化されてくる中「実名か匿名かを選ぶ」という発想が大きくなっています。そうなると、今度はもともと英米と異なり「出る杭は打たれる」「目立つのは苦痛」「普通の人は意見をあまり言わない」という空気がある日本です。「匿名」でありたいという願いが顕在化し、報道において特にそこの要請が強く出るのではないでしょうか。

 社会全体の「匿名社会」化は急速に進んでいるように思います。特にインターネットの普及の中で、日本の特徴として「ネット匿名」の現象が大いに広まりました。日本での匿名掲示板の人気や、SNSでの匿名発信の多さは既にお話しした通りです。この国では、ネットを見る限り「普通の人が実名登場するのは異常」とでもいうような空気がどんどん強まっているのではないでしょうか。民主主義の社会を作るなら、普通の人こそ「公人」となってどんどん実名で意見を言い、表に出て行くことが意義深いはずですけれど…。

 先ほど説明した「個人情報保護」の考え方から、個人情報の一つである「氏名」を知らせたりすることが憚られる空気もできました。これは個人情報保護法の定めがない場合でも「なんとなく個人情報に触れるのはやめておく」とでもいうようなケースも相当程度含まれましょう。

「個人情報保護」の本来の意味とは

 本当は個人情報保護という考えの背景には「政府からの個人情報やプライバシーの保護」という考えがあったはずですが、日本では逆に「市民同士は自分の情報を語らず、政府だけが個人情報を知っている」という感じになってしまってないか、気になります。他の市民より政府が大変信用される社会ということなのでしょう。

 困っている市民、大変な目に遭った市民を助けるのは誰か…そういうことは政府や専門家、エリートたちに任せるべきであり、普通の市民が情報を得て自発的に行動する、なんてことはあまり実感がない社会かもしれません。

 電車の中で犯罪の被害に遭っている人がいるとき、自分は控え、鉄道会社員や警察の人に任せるということのなら、周囲の人は「見ないようにする」「知らないでおく」ことも配慮かも知れません。たとえて言えばそんな空気を社会の中に感じることがあります。日本ではフェロー・シティズン(同僚市民、仲間の市民)という言い方は余り聞かないですよね。(続く)

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。

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筆者記事:

【#実名報道】「オオカミの餌」にされても受け入れるイギリス市民 日本との違いは? 1月20日付

【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も 1月23日付

参考記事:

【#実名報道】「人が壊れそうになる」報道は変われるか? 匿名報道の識者語る問題点

犯罪被害者の人権を銭儲けのために弄ぶ記者クラブメディア


by polimediauk | 2020-04-04 17:54


新型コロナの犠牲者を実名と写真で報道する英ガーディアン紙


 新型コロナウイルスの感染が広がっている。英国ではレストラン、バーなどの飲食店、劇場、スポーツクラブなどが閉鎖され、不要不急の外出禁止令が出ている。

 4月に入り、感染による死者は3000人近くとなった。英ガーディアン紙はその中の30人ほどの人生を写真付きで紹介している。

 45歳で亡くなったクレイグ・ラストンさんはラグビーを愛する、二人の子供を持つ父親だった。仕事は靴のデザイナー。病状を書き留めていたラストンさんは、自分の葬式に妻と娘たちが立っている姿を頭に描き、こう書いた。「死を怖いとは思わない。だが、自分が亡くなったあとどうなるかと思うと、悲しくてたまらない」。ラストンさんは先月16日に亡くなった。

 享年78歳だったレオナード・ギブソンさんは、遺族によれば「典型的な、愉快なアイルランド人だった」。12人兄弟の一人として生まれたギブソンさんは英国北部サウス・ヨークシャー州の工場で働いた後、退職。ガーデニングが趣味だった。伝染性の新型コロナウィルスに感染したために、娘二人はギブソンさんの最期に立ち会うことができなかった。「父と一緒にいられなかったのは悲しい。でも、看護婦さんたちが私たちの代わりに見てくれた」と娘の一人、リサさんが語る。ギブソンさんは、同17日にこの世を去った。

 実名報道を基本とする英国らしい記事である。遺族にとって、こうした記事は追悼の意味を持つ。読者は一人ひとりの具体的な人生の物語を読むことによって、同じ人間として悲しみや共感を覚える。不意に愛する人の命を奪ってしまう新型コロナウィルスの恐ろしさが伝わってくる。

 英国同様、日本も実名報道が基本だが、このところ、これに対する批判をよく目にするようになった。匿名志向が広がっているという。

 メディア側は実名報道の意義を主張するが、国民の少なくとも一部はメディア側の説明に納得していないようだ。マスコミに対する不信感も透けて見える。

 今年1月、筆者は実名報道についての記事を執筆したが(最後に紹介)、今回は、この問題について豊富な経験と知識を持つ共同通信編集局特別報道室の澤康臣編集委員(取材当時)に現場の話を聞いてみた。

 澤編集委員は社会部で司法取材を長く担当し、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所への留学を経て、『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋、現在は金風舎から「イギリスはなぜ実名報道にこだわるのか」としてペーパーバック版で発行)を上梓。その後、ニューヨーク支局に勤務し、アメリカや世界のジャーナリズムの現場を体験した。パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した機密文書「パナマ文書」の国際的な調査報道に参加し、「グローバル・ジャーナリズム 国際スクープの舞台裏」(岩波新書)を出版。4月から、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。

 当方から澤氏にメールで質問事項を送り、頂いた回答が以下である。数回に分けて紹介したい。なお、同氏の話はあくまで個人的見解であり、所属組織とは関係ないことを付記する。

***

匿名志向が生まれた背景とは

 ―日本は(英国や米国同様)、実名報道が原則ですね。昔は、本を買うと、後ろに著者の名前以外に住所、電話番号まで載っていた記憶があります。でも、今は、テレビ番組を見ると市民の顔や姿をぼかせて隠す例が多々ありますし、本の後ろの著者情報では名前だけが載るようになりました。個人情報をぼかす、あるいは載せないという現象が出てきたのは、いつ頃なのでしょう?きっかけはあるのでしょうか。

 こうした傾向が社会全体で一気に強まったのは、2003年につくられた「個人情報保護法」以後だと思います。当時、有名人や公人が年金を未納のままにしていた「年金未納問題」が議論になる中、福田康夫官房長官(後に首相)が納付状況を記者団に追及され「個人情報」と反論してかわそうとしたことが話題になりました。

 個人情報ではあります。同時に、しかし公共性が高い情報でもありますよね。公共情報でもあるのに「個人情報」と指摘すれば、他人は立ち入ってはいけない…そんな空気が一気に強まったと考えています。個人情報とプライバシーは全く別概念なのに、個人情報に関連することは「一般人が触れてはならない特殊情報」であるかのようなピリピリした雰囲気ができつつあります。

 それ以前から個人情報や実名に対する警戒感はありました。1970代から80年代にかけ、事件報道で容疑者の名前を匿名にするべきではないかという主張が起きるようになりました。

 犯罪に関わった疑いを持たれ、逮捕された容疑者が「自分は無実」と訴えたり、実際その後に不起訴や無罪になるなど有罪判決に至らないケースもかなりあります。それなのに、警察に摘発された段階で極悪人と決めつけたような報道をするのはおかしい--そういう批判が高まったのです。死刑確定後に再審無罪になったような事件でも、最初の逮捕段階の報道は、容疑者に対する激しい非難でした。

 こうした報道は社会に対し、容疑者や事件への見方をゆがめ、偏見を煽ってしまいます。また当事者にとっては、受けるべきでない非難を受けることになります。無実であれば堪えられないことでしょうし、仮に真犯人であっても許される度を超えた非難であることも多々あると思います。

 こうした報道によって容疑者が過大なダメージを受けないよう、有罪確定まで、あるいは起訴(検察官が、罰するよう求め刑事裁判を起こすこと)までは匿名にしようという主張です。

 ただ、本来の問題は、報道が警察の言うことを丸呑みしたり、あたかも犯人であることが最終確定したかのように扱ったり、かさにかかって容疑者を事実を超えてあしざまに描いたりすることです。

 犯人だという法的な判断が下されたわけではないことを踏まえ、しかし警察が疑いを持って捜査が進んでいるという事実はあり、そこを「より良く、より公正、正確に報道する」ことが求められるように思います。これは「容疑者の名前を報道しない」ことと直ちには結びつかないと私は考えています。

 容疑者を匿名にするという考え方は、社会にとっていい報道、記録といえるかということ以上に「本人の利益」に重点を置いた考え方といえるのではないかと私は見ています。でも「匿名にする」という手法は単純でわかりやすく、即効性がありそうです。容疑者を代弁する立場の弁護士さんたちなどにすれば、報道をもっと公正にうんぬんより「逮捕されたことを社会に知られない」ことは切実で現実的な価値が高いと受け止められるでしょう。

 70-80年代以後に高まったこれらの意見に対し、メディア界が真剣に反論したという印象が私にはありません。なぜ英語圏のメディアはニューヨーク・タイムズにせよBBCにせよ徹底的な実名報道をしているのかということを、この段階で考えたり悩んだりしておくべきだったのではないかと思うこともあります。

判例雑誌も匿名志向に

 90年代になると、こんどは法律家が使う「判例時報」「判例タイムス」などの判例雑誌が匿名になっていきます。かつては判決文の真正な中身、つまり実名も含めたものが掲載されていましたが、今はだいたいXとかYとか匿名化されています。いわば歴史的な判決を導き出した本人が見えなくされているといいますか…。

 英米の判例は原則全てスミス対ジョーンズとかアメリカ合衆国対ブラウンとか、原告・被告の実名をつけて呼ぶし、判例集も原則実名のまま掲載しています。一方、日本の今の弁護士さんや裁判官は匿名判例集で勉強するので、それがふつうに思えるのだと思います。日本式の匿名判例だと、裁判を闘って判例というルールを作ってくれた当事者の存在を想う機会は英米の法律家より乏しいかも知れませんね。日本でこういう匿名の判例集や法律書が増えてきたことが「事件を知るのに名前は不要」という発想を強化した可能性があります。

 でも、「事件の類型」や「裁判所の考え方」を知るには当事者名がなくてもある程度可能な場合もありますが、その前提になった個別の事実関係を直ちに信じることなく検証するとなると、固有名詞がなければ不可能です。冤罪検証で事件現場を訪れたり関係者の聞き取りをしたりすることが大切になるのはその典型です。

 2000年ごろには、犯罪被害者保護の流れの中で「被害者の匿名」という動きが強まります。被害者や遺族の権利が乏しく、時にメディアからも捜査機関からも問題ある対応を受けてきたことは深刻で、これは私も含めて強く反省しなければならないことであることは言うまでもありません。ただ、それとともに「被害者や遺族が希望しない限り、被害者の名前を社会に知らせない」という求めが強まりました。そこに、冒頭に述べた個人情報保護の波も加わったというのがあります。

「2ちゃんねる」と「匿名文化」の広がり

 もう一つ、日本において重要な要素があります。1995年ごろからインターネットが普及するのですが、2000年ごろに発達した巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」はネット上のコミュニケーションの在り方に大きな影響を与え、身元を隠して発言する「匿名文化」が広がりました。

 日本のツイッター利用者は75%が匿名で利用、英米では30%台という顕著な差が2014年の総務省調査で明らかになっています。英オックスフォード大ロイタージャーナリズム研究所の調査では、調査対象38カ国・地域のうち日本は唯一、実名原則のフェイスブックがツイッターやユーチューブより使われない国です。少なくともサイバー社会において、名前を明らかにして登場したり意見を言ったりということは、日本では特別な行為にみえるのかも知れません。

 一方、テレビの世界でもぼかしが多用されるようになっています。いつ頃から、という分析はテレビ報道界の方にゆだねたいと思いますが、路上やそこから見える建物の外観など、社会に生きる誰もが見られる前提になっているものを、テレビに映すときにはぼかすとか、あるいは通常の事件の目撃証言をする市民の顔をぼかしたり首から下だけを移したりというのは英米では考えにくいことです。こちらは、技術が発達し、狙ったターゲットにぼかしをかけることが簡単にできるようになったことが大きなきっかけではないかと聞いたことがあります。(続く)

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筆者による関連記事:

【#実名報道】「オオカミの餌」にされても受け入れるイギリス市民 日本との違いは? 1月20日付

【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も 1月23日付


by polimediauk | 2020-04-03 15:04 | 日本関連