小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

英国ニュースダイジェスト」掲載の筆者コラムに補足しました。

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スパイらしくないスパイ

 ネクタイや偽の岩に隠されたカメラ、録音装置を内蔵した眼鏡……まるで「スパイ道具の宝庫」ともいえるようなアイテムを駆使して、ロシアのためにスパイ活動(Spying)を行っていたブルガリア国籍の男女3人に、3月7日、有罪判決が下りました。英警察によると、外国政府のための諜報活動としては最大規模の一つといえるそうです。

 ヴァーニャ・ガベロヴァ被告、カトリン・イヴァノヴァ被告、ティホミル・イヴァンチェフ被告の3人は、2020~23年にかけて欧州各地で、ジャーナリストや元政治家、米軍基地などを監視していたグループのメンバーでした。ロシア人ではないのにロシアのために活動をしていた点と、スパイらしくないスパイであることが特徴です。

3人はそれぞれが美容師、医療従事者、装飾業者として働き、英国の生活にすっかり根を下ろしていました。ガベロヴァ被告は受賞歴のある美容師で、まつげの美しさを競うイベントで審査員を務めていました。10年前に英国に移住したイヴァノヴァ被告とイヴァンチェフ被告はカップルとして生活し、在英ブルガリア人向けのコミュニティ組織を運営していました。


指揮系統のトップに独の指名手配者、裏にロシア情報機関か

 スパイ・グループの司令塔は同じブルガリア人のオルリン・ルセフ被告で、イングランド東部ノーフォークのグレート・ヤーマスにある元ゲストハウスを根城にしていました。

 指揮系統でその上にいたのが、金融サービス会社ワイヤーカードに関連する詐欺容疑で、ドイツで指名手配されているヤン・マルサレク容疑者です。10年前にルセフ被告はオーストリア国籍のマルサレク氏と出会い、ロシアのスパイになったそうです。

 検察によると、マルサレク容疑者はロシア情報機関の仲介者でした。ここでロシアとのつながりができたわけです。ルセフ被告は次々とブルガリア人をスパイとして勧誘していきます。

 グループの主なターゲットは英国発祥の調査報道サイト「ベリングキャット」の記者クリスト・グロゼフ氏と、ロシアの調査報道サイト「ザ・インサイダー」の創設者ロマン・ドブロホトフ氏。

 この2人は、2018年に英南部ソールズベリーで元ロシア・スパイのセルゲイ・スクリパリ氏暗殺未遂事件や、2020年にロシアの野党指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏に対して行われた神経剤攻撃における、ロシア当局の役割を暴露したことで知られています。


その手法は

 グループはグロゼフ氏のノートパソコンを奪ってロシア大使館に持ち込む、モスクワに連れて行く、殺害するなどのあらゆる計画を立てました。イヴァノヴァ被告は飛行機でドブロホトフ氏の近くに座り、携帯電話の暗証番号が見えるほど接近したこともあったそうです。ウクライナ侵攻の最中である2022年後半には、独シュトゥットガルトの米軍基地で監視活動を実施しました。


なぜブルガリア国籍者か

 ロシアはなぜブルガリア国籍保持者をスパイとして使ったのでしょうか?

 ブルガリアはかつてソ連の衛星国で、ソ連を中心とする共産主義圏(東側)と米国を筆頭とする資本主義圏(西側)が対立した冷戦時代(1940年代末~89年)を、東欧の一国として生き延びてきました。東西体制が崩壊する89年に共産党独裁体制が終焉し、民主化・市場経済化を進めて現在に至ります。

 旧ソ連の情報機関KGBは共産圏の同盟国に住む人々を使って工作活動をしていたそうですが、今回はロシアが同様の手法でブルガリア人らを巻き込んだ可能性がありそうです。


専門家の見方

 ロシア人のジャーナリストで英国に亡命中のアンドレイ・ソルダトフ氏がBBCに語ったところによると、ウクライナ戦争開始後の2022年、多くのロシア外交官が英国を含む欧州諸国から追放されたため、ロシアの情報機関はスパイ網を再結成する必要が出てきたそうです。そこでスパイのアウトソーシング化が行われたのでしょう。私たちの周囲に外国のスパイがいるかもという懸念の種を植え付けたという点では、一定の成果を上げてしまったのかもしれません。

 BBCがソルダトフ氏の命も狙われていたのではないかと聞いたとき、同氏が「自分には警察の警護が付いているから」と言ったのが筆者の心に残りました。祖国を離れざるを得ず、警察に身辺を守ってもらう生活はかなり緊張感を強いられるものでありそうです。


ロシアの極秘スパイ計画を暴露する本

 4月14日、ロンドンのフロントラインクラブで「新たなロシアのスパイ工作」と題されたトーク・イベントが開催されました。

 パネリストの一人となったソルダトフ氏のコメントも入れて、短く紹介してみましょう。


「新たなロシアのスパイ工作」と題されたイベントの紹介画面(イベントサイトからキャプチャー)
「新たなロシアのスパイ工作」と題されたイベントの紹介画面(イベントサイトからキャプチャー)

新刊「不法入国者(The Illegals)」

 イベントのメインとなったのは、英ガーディアン紙のロシア特派員ショーン・ウオーカー氏による新刊「不法入国者(The Illegals)」です。

 諜報員の中で最も秘密裏に活動するのは「不法入国者」と呼ばれる人々で、入念に作り上げられた偽の身分を採用し、しばしば何年にもわたり、二重スパイとして受け入れ先のコミュニティで生活する献身的なプロフェッショナルになります。

 ウオーカー氏によると、100年以上前、ソ連のボリシェヴィキ政権は、市民をスパイとして海外に派遣し、外国の貴族、商人、学生を装う訓練を始めたそうです。

 潜入工作員を使う諜報機関はソ連・ロシアだけではありません。でも、ソ連の情報機関・秘密警察「KGB」は何年もかけて言語や礼儀作法の訓練を受けさせ、何十年も続く任務のために工作員を海外に送り込んだのです。

 第二次大戦(1939-45年)中には、不法入国者はナチスの高官を暗殺するために敵陣の背後に派遣されました

 その後、冷戦時代になると、西側諸国に同化させ、スリーパーとして身を潜めるために送り込まれたそうです。中には任務に失敗したり、二重生活の緊張に耐えられなかったりということもありました。


優秀なソ連のスパイの退職先は?

 ソルダトフ氏によると、(素晴らしい)「お国のために、海外でスパイ活動をさせるソ連当局」でしたが「本当に優秀なソ連のスパイの場合、退職後はそのまま海外の国に住んでよい」と言われるそうです。本当に素晴らしい国だったら、ソ連に戻るはずで、「言っていることにギャップがある」と常に感じていたようです。

 会場からの質問のひとつが「トランプ米大統領はロシア・プーチン政権に操られているのか。米政権は実はロシアなどの影の勢力に支配されているのか」。

 ソルダトフ氏は「白黒はっきり言えることではない。物事は複層レベルで発生している」と述べています。


プーチン氏の後は、どうなる?

 また、「プーチン大統領がいなくなったら、ウクライナへの侵攻などの他国への攻撃は止まるのか」という問いに、ソルダトフ氏はこう答えています。「ないだろう。旧ソ連・ロシアでは小学校の教育時から『西側に痛めつけられている。跳ね返さなければいけない』と教えられているからだ」。


キーワード:Spying(スパイ活動) 
政府やほかの組織に雇われて、秘密裏に敵や競争相手の情報を得る行為。この活動を行う人をスパイと呼ぶ。英国では国家安全保障上の観点から情報を収集・分析し、政府首脳に報告する情報機関の職員「インテリジェント・オフィサー」と、情報機関員に秘密裏に取得した情報を提供する「エージェント」の2種類に分類される。

# by polimediauk | 2025-04-25 23:09 | 政治とメディア