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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

 アパート連続爆破事件とは

 1999年9月、ロシア各地の集合住宅が相次いで爆破された事件。9月4日に南西部ブイナクスク、9月9日と13日にモスクワ、9月16日に南部ヴォルゴドンスクで爆発が起き、わずか16日間で約300人が命を落とした。9月22日、モスクワ南東約200キロのリャザンでも爆発物が発見されたが、住民の通報により未然に防がれた。

 ロシア政府はチェチェン武装勢力の犯行と断定したが、ロシアの情報機関である連邦保安庁(FSB)による関与を疑う声も根強い。事件の全容は、いまも明らかになっていない。


***

 前編では、1999年秋にロシア各地で発生したアパート連続爆破事件と、それを契機にプーチン氏が急速に権力を掌握していく過程、さらに疑惑を追及した独立系テレビ局NTVが沈黙へと追い込まれていく流れを見てきた。

 後編では、その疑惑がロシア国内では公に検証されることなく、国外へと語られる場を移していく過程とともに、真相を追い続けたジャーナリストたちの証言と、その現実をたどる。

 事件の背後にはロシアからの独立を求めるチェチェンの武装勢力ではなく、ロシアの情報・治安機関である連邦保安庁(FSB)がいたとする疑惑は、亡命者たちの手によってロンドンへと持ち込まれた。

 英国の二つのポッドキャスト「ヒストリー・ヒット」(3月19日配信)と「ヒストリー・ビューロー」(1月7日―12日配信)に収録された当時の現場記者たちの証言に補足しながら、この事件を再構成する。


ロンドンへ

 2002年3月、ロンドンでアパート爆破事件をめぐる記者会見が開かれた。

 壇上に立ったのは、ロシア初期の新興財閥(オリガルヒ)の一人、ボリス・ベレゾフスキー氏である。かつてはプーチン氏を大統領の座へ押し上げるために資金と影響力を投じた人物だったが、新たな権力はやがて彼を排除する側に回った。

 詐欺罪などの容疑でロシア当局から指名手配を受けたベレゾフスキー氏はロンドンに亡命し、そこでアパート爆破事件について衝撃的な主張を行う。すなわち、事件はFSBによって実行された、チェチェンとの戦争を正当化し、同時にプーチン氏の権力基盤を固めるために利用された可能性がある、というものだった。

 ただしこの主張は、彼自身がプーチン政権と対立する立場にあったことから、政治的意図に基づくものではないかとの見方も強く、広く確証を得るには至らなかった。

 この記者会見の場には、もう一人の重要な人物がいた。

 アレクサンドル・リトビネンコ氏である。


リトビネンコ氏 内部告発と亡命

 リトビネンコ氏はかつて、FSBの特殊部隊に所属し、犯罪捜査に従事していた。上司からベレゾフスキー氏の殺害を命じられたがこれを拒否し、その事実を本人に伝えたとされる。その後、FSB内部の腐敗を告発するため、新たに長官に就任したばかりのプーチン氏との面会を求めた。  

 当時の様子をBBCの安全保障担当ジャーナリスト、ゴードン・コレラ氏が伝えている。リトビネンコ氏は証拠書類を持参し、「この腐敗した組織を立て直せる」と訴えた。しかしプーチン氏は「あなたが持っていなさい」と応じたという。面会は短時間で終わり、その後リトビネンコ氏は監視対象となった。

 1998年11月、リトビネンコ氏は他のFSB職員とともに記者会見を開き、内部腐敗を公に告発した。他の職員が顔を隠す中で、彼だけは素顔で臨み、「公の証言者になること」を選んだ。

 その後、逮捕と釈放を繰り返す中で身の危険を感じるようになり、2000年、家族とともにロンドンへ亡命した。本人は後に「最初に出会った警察官に、自分はKGBの職員で亡命を求めると伝えた」と語っている。

 ロンドンではベレゾフスキー氏の支援を受け、ロシア人歴史家ユーリ・フェルシチンスキー氏とともに爆破事件の検証に取り組んだ。その過程でリトビネンコ氏が注目したのは、ロシア議会の公式記録だった。  

 1999年9月13日、ロシア下院では黙祷の後、議長がメモを読み上げ、「ヴォルゴドンスクのアパートが爆破された」と述べたとされる。

 この時、実際に爆破されていたのはモスクワのアパートであり、ヴォルゴドンスクでの爆発はその3日後に発生している。議会でこの点を質問しようとした議員の発言は遮られたと記録されている。

 ポッドキャストの司会を務めるヘレナ・メリーマン氏はこう問いかける。「爆発した都市の名前を間違えることはある。しかし、その間違えた名前が数日後に実際に爆破される都市の名前だったとしたら、本当に偶然と言えるだろうか」。

 この調査は2001年夏、「FSBはロシアを爆破した」と題する報告としてまとめられた。しかし欧米メディアの反応は限定的だった。プーチン政権の政敵であるベレゾフスキー氏が関与していたことが、その信頼性に疑念を生じさせたためである。


捜査官 トレパシュキン氏

 米ジャーナリストのスコット・アンダーソン氏は長年、アパート爆破事件の調査を続けていた。

 その出発点には、チェチェン武装勢力による犯行とする説明に、動機としての合理性が見えにくいという疑問があった。当時、第一次チェチェン戦争の停戦合意はすでに成立しており、ロシア軍も一度は撤退していた。再び大規模な戦争を引き起こす利益は乏しいように見えた。  。

 調査を進める中で、アンダーソン氏はある人物の存在に行き着く。事件を独自に追っていた元FSB捜査官、ミハイル・トレパシュキン氏だ。

 ある日、カフェでアンダーソン氏の前に現れたトレパシュキン氏は、2人のボディーガードを伴っていた。彼はかつてKGBからFSBへとキャリアを移した、いわば「内部を知る人物」だった。しかし後にFSB内部の腐敗を告発しようとして組織を追われ、さらに2度の暗殺未遂を経験していた。

 2002年、ロシア国会ではリャザン未遂事件を含むアパート爆破事件全体の公式調査委員会設置が提案されたが、採決で否決された。この結果を受け、一部の国会議員や記者、遺族らが中心となり、独立した民間調査委員会が組織されることになる。  

 リトビネンコ氏の推薦を受けてこの調査に加わったトレパシュキン氏は、モスクワのアパート爆破で母親を亡くした遺族の代理人として、政府の捜査ファイルへのアクセスを試みた。


消えた証拠

 しかし、その中身は期待を大きく裏切るものだった。法的に検証可能な証拠がほとんど残されていなかった。その一因として、爆破現場そのものが短期間で撤去されていたことが指摘されている。

 アンダーソン氏はこう比較している。「2001年の同時多発テロで崩壊したニューヨークの世界貿易センター跡地は、数か月以上にわたり現場が保存された。しかしモスクワでは、爆破現場は数日で片付けられた」。


食い違う容疑者像

 それでもトレパシュキン氏は、FSBがモスクワ爆破の主犯と名指した容疑者の似顔絵の変遷に注目した。

 最初の爆発直後に公開された警察の似顔絵と、その後FSBが提示した似顔絵は一致しておらず、トレパシュキン氏は差し替えられていたことを発見する。さらに初期の似顔絵に描かれた人物は、トレパシュキン氏が1995年の銀行強盗事件捜査で関わったFSB職員に似ていたという。現場の管理人も「その男を見た」と証言したが、その後FSBによって証言は変えさせられたと語った。


周辺で起きた異変

 調査が進むにつれ、不可解な出来事も相次いだ。

 2003年4月、調査委員会の副委員長が自宅前で白昼に射殺された。同年7月には、調査に関わっていた独立系メディア「ノーバヤ・ガゼータ」の副編集長が原因不明の体調悪化の末、16日後に死亡した。医師団は、放射性物質による中毒の可能性を指摘した。


裁判

 2003年10月、非公開裁判の約一週間前、トレパシュキン氏は元の警察による似顔絵が掲載された当時の新聞の切り抜きをアンダーソン氏に渡し、こう言った。

 「私は裁判でこの証拠を提出したい。もし私に何かあったとしたら、理由はわかるはずだ」。

 その直後、トレパシュキン氏は逮捕された。容疑は「無許可の銃器所持」と「機密FSB文書の所持」である。自宅には妻と2人の娘がいたが、捜査当局が踏み込んだ。トレパシュキン氏が逮捕されたことで、似顔絵の差し替え疑惑については、法廷で一度も審理されることはなかった。

 2004年1月、判決公判のみ、記者の傍聴が許可された。この裁判は、モスクワ2件およびヴォルゴドンスクの爆破事件に関与したとして起訴された2人の被告に関するものだった。しかし被告はいずれもチェチェン人ではなく、チェチェンに隣接するカフカス地方の共和国出身者だった。

 最初の爆破事件であるブイナクスクについては、すでに別件としてチェチェンに隣接するダゲスタン出身のイスラム過激派グループに有罪判決が下されている。

 結果として、4件すべての裁判においてチェチェン人が有罪となった例は一件も存在しない。それにもかかわらず、事件は一貫してチェチェン武装勢力の犯行として説明され、当時の政治指導者は空爆命令を下したとされる。

 リャザンの未遂事件では、FSB職員3人が地元警察に拘束されたが、モスクワからの指示で釈放され、正式な裁判は行われなかった。

 政府が主犯格として名指ししたのはアチェメズ・ゴチヤエフ氏である。彼はチェチェンではなく、カフカス地方カラチャイ・チェルケス共和国の出身で、モスクワで建設会社を営んでいた人物だった。

 本人は、FSB関係者から倉庫として地下室を借りるよう依頼されたに過ぎず、爆発物の存在は知らなかったと主張している。さらに最初の爆発後、自ら警察に通報し、残る爆発物の場所を知らせたことで追加被害を防いだとも述べている。しかしその後、「FSBが生け捕りではなく射殺を命じている」との警告を受け、逃亡したとされる。

 カラチャイ系であるにもかかわらず政府の捜査書類ではチェチェン人と記載されていたと彼は述べており、逃亡中のまま裁判にかけられることはなかった。

 最終的に終身刑が言い渡されたのは、ゴチヤエフ氏と同じカラチャイ・チェルケス共和国出身のカラチャイ人ユスフ・クリムシャムハロフ氏とアダム・デックシェフ氏である。判決では「チェチェンの反乱軍の命令に従った」とされたが、その命令を出した側については裁かれることはなかった。  

 判決を聞いた二人の男は微笑んだ。記者が理由を尋ねると、こう答えた。「すべて嘘だからだ。そして人は嘘を笑う」。

 弁護側は、依頼人は爆発物運搬に関与した可能性はあるが、中間業者としてであり、内容物が爆発物だとは知らなかったと主張した。

 刑事捜査は終了し、モスクワ2件とヴォルゴドンスク1件の爆破事件に関する裁判のファイルは75年間封印された。リャザンの未遂事件についても、国会の親プーチン政党の議決により、関連資料は同じく75年間封印されることになった。

***

裁判の経緯

▼2000年 ブイナクスク爆破

 被告:ダゲスタン出身のイスラム過激派グループ

 結果:有罪判決

▼2004年1月 モスクワ爆破2件・ヴォルゴドンスク爆破

 被告:ユスフ・クリムシャムハロフ氏、アダム・デックシェフ氏(いずれもカラチャイ人)

 結果:終身刑

▼モスクワ・ヴォルゴドンスク爆破の主犯格とされたゴチヤエフ氏(カラチャイ人)

  結果:逃亡中・未起訴

▼リャザン未遂事件

 被告:FSB職員3人

 結果:逮捕後即釈放・正式裁判なし

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 複数の裁判は行われたものの、事件全体の構造が公的に検証されることはなかった。

 5件すべてを通じてチェチェン人が有罪となった例はなく、何が起きたのかという核心は、いまも解明されていない。

 有罪となった者たちが真の意味での実行犯だったのかどうかさえ、いまも疑問符がついたままだ。

 実行犯とされた者たちは「命令を出したのはチェチェン人ではなくFSB関係者だった」と主張し、主犯格とされたゴチヤエフ氏は「FSBに利用されただけだ」と訴えた。しかしその主張を検証できる証拠は法廷で一度も審理されることなかった。


トレパシュキン氏のその後

 一方でトレパシュキン氏自身も別件で起訴され、「機密文書の所持」などを理由に4年の禁固刑を言い渡された。FSBによる証拠の捏造だと主張したが、法廷では認められなかった。判決の際、妻は法廷の隅で泣き崩れたという。後に彼女はこう語っている。「みんな彼と同じことを知っていた。でも、なぜ外に出してしまったのか。なんて愚かなことをしたのか」。

 刑務所の独房274号室で、トレパシュキン氏は日々を数えながら過ごした。囚人たちは交代で眠り、眠っていない時は立っていなければならなかった。座る余地さえなかった。

 あるジャーナリストが「怖くないのか」と尋ねると、こう答えた。「怖い。基本的な人権のない国で子どもたちが育つことが怖い。そして、国を壊していく政府の前で沈黙した父親として、子どもたちに顔向けできないことが怖い」。  

 2007年11月、トレパシュキン氏は刑期満了により釈放された。現在もロシア国内で暮らし、人権弁護士として活動している。2022年には日本の新聞のインタビューに応じ、アパート爆破事件はプーチン氏の了解のもとFSBが実行した自作自演だったとの見解を改めて示した。


リトビネンコ氏の死

 2006年11月、BBCの安全保障担当ジャーナリスト、ゴードン・コレラ氏は奇妙な噂を耳にした。元ロシアのスパイがロンドンで毒殺されたらしい、というものだった。

 「正直に言えば、最初はあまりにも荒唐無稽に思えた。ロンドンで毒殺が起きるという発想自体が、21世紀にはあり得ないと思っていた」。

 しかしその頃、リトビネンコ氏はすでにロンドンのユニバーシティ・カレッジ病院のベッドに横たわっていた。最初は食中毒か胃腸炎と思われたが、日ごとに病状は悪化していった。

 11月20日、ロンドン警視庁は「ロシア人元スパイの毒殺を捜査している」と発表した。翌日、写真が公開された。病院のベッドに横たわるリトビネンコ氏、髪はすっかり抜け落ちて丸坊主、胸には無数の管。カメラを真正面から見つめる目には、自分がもう死ぬとわかっている表情が浮かんでいた。

 11月23日、発病から22日後、極秘核研究施設に送った尿のサンプルの検査結果が戻ってきた。毒の正体はポロニウム、非常に稀少な放射性物質だった。「インターネットで買えるようなものではない。核プログラムの産物であり、国家レベルでしか扱えない」(コレラ氏)。

 しかし毒の正体が判明した時、すでに手遅れだった。  

 2006年11月23日、リトビネンコ氏はロンドンで死亡した。死の床で彼は最後の言葉を口述筆記した。「あなたは私を沈黙させることに成功するかもしれない。しかしその沈黙には代償が伴う。世界中からの抗議の叫びは、プーチン、あなたの耳に、生涯にわたって反響し続けるだろう」。  

 後に英国の公式調査は、リトビネンコ氏はロシア国家に関係する工作員によって殺害され、その命令はおそらく国家元首の承認のもとで出されたと結論づけた。ロシア政府は一貫してこれを否定している。  

 7年後の2013年、ベレゾフスキー氏が英南部バークシャーの自宅浴室の床で、首にスカーフを巻いた状態で発見された。当初は自殺とされたが、審問で検視官は「自殺とも他殺とも証拠が不十分で断定できない」と述べた。かつてプーチン氏を権力の座に押し上げた陰の実力者の死は、その生涯の細部と同様、おそらく永遠に謎のままだ。


問いは生き続ける

 1999年に実際に何が起きたかを正確に知ることは、今なお容易ではない。

 リャザンの未遂事件にFSBが関与していたのか、実際に爆発した4件の背後にも同じ手が伸びていたのか。FSBの陰謀を確信する者と、チェチェン武装勢力の犯行説を捨てきれない者の間で、評価は分かれたままだ。  

 2024年3月、モスクワ郊外のコンサートホールでイスラム過激派とされる武装集団による襲撃事件が発生し、140人以上が死亡した。その衝撃の直後、ロシア国内のインターネットで繰り返し検索された言葉があった。「リャザン 砂糖」。

 1999年の爆破事件をめぐる自作自演疑惑を想起した人々が、四半世紀を経てもなお消えない問いに立ち返った。  

 一連の爆破事件の真相は、いまも確定していない。何が起きたのか、誰が関与したのか。その問いはいまも宙に浮いたままだ。

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 本稿は英国のポッドキャスト「ヒストリー・ヒット」(3月19日配信)と「ヒストリー・ビューロー」(1月7日〜12日配信)をもとに、情報を補いながら再構成しました。


# by polimediauk | 2026-04-12 16:51 | 政治とメディア