ロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、停戦の見通しは依然として立っていない。
その行方を左右するロシアのプーチン大統領は、何に突き動かされているのか。その問いをたどると、四半世紀前のある事件に行き着く。
1999年秋、ロシア各地で発生した爆発事件は約300人の命を奪い、国全体を恐怖に陥れた。当時の政府はチェチェン武装勢力の犯行と断定したが、のちにロシア連邦保安庁(FSB)による自作自演ではないかという疑惑が浮上した。
知名度が低かったプーチン氏を権力の頂点へと押し上げ、その後の統治スタイルの原型ともなった事件だ。
英国の二つのポッドキャスト「ヒストリー・ヒット」(3月19日配信)と「ヒストリー・ビューロー」(1月7日―12日配信)に収録された当時の現場記者たちの証言をもとに、事件を再構成する。
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ソ連崩壊の後で
最初の爆発は9月4日、南西部のブイナクスク。続いて9日と13日にモスクワ、16日には南部の都市ヴォルゴドンスクで爆発が起きた。わずか16日間で四棟のアパートが爆破され、およそ300人が命を落とした。
いずれも深夜から早朝にかけての爆発で、眠っている市民が標的にされた。建物の正面が丸ごと吹き飛び、ドールハウスのように内部がむき出しになった。子どものおもちゃ、衣類、テーブルに並べられた食事。人々の生活の痕跡が、瓦礫の中にさらされた。
この時、ロシアはソ連崩壊からわずか8年しか経っていなかった。
計画経済から市場経済への移行を一気に行う「ショック療法」は悲惨な結果をもたらした。インフレは2000パーセントを超え、年金生活者の貯蓄は紙屑同然になった。混乱の中で台頭したのが新興財閥(オリガルヒ)だった。権力と結びついた一部の人間だけが巨大な富を手にし、大多数の国民は取り残された。
「老人たち、年金生活者たちがアパートから出てきて、持ち物すべてをモスクワの凍てつく雪の降り積もる街路で売り始めた。本当に悲惨だった」(当時のBBCモスクワ特派員アンドリュー・ハーディング氏)。
1990年代後半、ロシアの初代大統領エリツィン氏は往年の力を失い、政権は機能不全に陥っていた。後継者は定まらず、権力をめぐる思惑が水面下で交錯していた。
1999年の秋、ロシアには「弱体化した大統領」「不在の後継者」、そして影で動く権力者たちという条件が揃っていた。
実行犯はチェチェンの武装勢力か
アパート爆破事件の犯人として名指しされたのは、チェチェンの武装勢力だった。
チェチェン
ロシア南部、コーカサス山脈の北麓に位置する共和国。住民の多くはイスラム教を信仰し、19世紀にロシア帝国に征服されて以来、長く独立への志向を抱き続けてきた。 ソ連崩壊後、チェチェンは独立を宣言したが、エリツィン政権はこれを認めず、1994年に軍事侵攻へ踏み切る(第一次チェチェン戦争)。戦闘は長期化し、ロシア軍は苦戦の末、1996年に事実上の撤退に追い込まれた。しかし和平は安定せず、緊張はその後も燻り続ける。1999年夏には、チェチェン武装勢力がロシア領ダゲスタンへ侵攻し、再び軍事衝突の危機が高まっていた。こうした状況の中で爆破事件が発生すると、犯行をチェチェン武装勢力と結びつけることは、ロシア社会にとってほぼ「前提」とも言える反応だった。
この時、国民の前に初めて本格的に姿を現したのが、就任間もないプーチン首相だった。かつてFSB長官を務めていたこと以外、国内ではほとんど知られておらず、当時は「灰色のネズミ」とも呼ばれる目立たない存在だった。
3件目の爆発の後、プーチン氏は国民向けの声明で犯人を「狂暴な獣ども」と呼び、「最後まで追い詰め、アジトの中で叩き潰す」と宣言した。
その強硬な言葉は急速に支持を集め、夏の時点でわずか2%程度だった支持率は、事件から2か月ほどで40%以上に上昇した。
プーチン氏の歩み
1998年7月 連邦保安庁(FSB)長官に就任
1999年3月 安全保障会議書記に就任
1999年8月 首相に就任
1999年12月 大統領代行に就任(エリツィン辞任を受けて)
2000年3月 大統領選挙で当選、正式に大統領就任
砂糖か、爆薬か
4回目の爆破事件から6日後の9月22日夜、モスクワ南東約200キロのリャザンで異変が起きた。
バス運転手のアレクセイ・カルトフェルニコフ氏は、自宅アパート前に停まった白いライトバンのナンバープレートが紙で隠されていることに気づいた。地下室から男が飛び出し、その車に乗り込む様子を目撃し、警察に通報した。
警察が地下室を調べると、発火 装置とタイマーに接続された白い粉の袋が3つ発見された。爆発物処理班が検査を行ったところ、高性能軍用爆薬ヘキソーゲンの陽性反応が出たとされる。
「午前5時に爆発するようセットされていた」。前の爆弾と同じ時刻だ。住民は直ちに避難し、地域は封鎖された。翌朝、カルトフェルニコフ氏は「リャザンの救世主」として報じられた。
市全体が封鎖される中、電話交換局のオペレーターが偶然、ある通話を傍受する。「市内が封鎖されていて出られない」という内容だった。発信元を追跡すると、連邦保安庁(FSB)関連の回線であることが判明した。
警察が容疑者の似顔絵に似た二人の男を逮捕すると、二人は「FSBの職員だ」と身分証明書を提示した。直後にFSB関係者が現れ、二人を連れ去った。
2日後、内務大臣はリャザンでの対応を「治安維持の成功例」として称賛する演説を行った。
しかしそのわずか30分後、FSB長官はこれを全面的に否定する。「爆弾など存在しない。これはFSBが市民の警戒心を試すために実施した訓練であり、袋の中身は砂糖だった」。
米ジャーナリストのデービッド・サッター氏は、この発言を「馬鹿げている。まったくもって馬鹿げていた」と評している。
翌日、プーチン首相はチェチェン空爆を命令した。リャザンをめぐる不可解な疑問は一気に脇へ追いやられ、メディアも世論も新しい戦争へと向かった。プーチン氏は軍服を着用し、ヘリコプターや航空機で前線を訪れ、兵士たちの前で演説を行った。
「突然、トカゲほどのカリスマしか持っていなかったあの全く目立たない男が、いたるところに現れるようになった」(サッター氏)。
セックステープが暴露された
プーチン氏の台頭の背景には、爆破事件以前から続く権力構造の変化があった。
その象徴的な出来事として語られるのが、当時の検察庁長官をめぐるスキャンダルだ。
1999年3月、ロシア国営テレビは「スクラトフ検察庁長官に関する映像を放送する」と事前に告知した。さらに「18歳未満は視聴注意」との警告が流れ、全国放送が始まった。画面に映し出されたのは、明らかにスクラトフ氏本人とされる人物で、女性2人とともにベッドにいる場面だった。ぼかしはほとんどなく、映像は約55分にわたり全国に放送された。
当時スクラトフ氏は、エリツィン政権の周辺に関わる腐敗疑惑の捜査を進めていた。本人は後に「自分が扱っていた捜査への報復だったと理解している。非常に強力な人物がテープを入手し、テレビ局に送り込み、放送させた」と語っている。
疑惑の視線はプーチン氏にも向けられた。翌月、FSB長官だったプーチン氏は記者会見を開き、「映像は本物だ」と発言している。
この件が誰によって主導されたのかについて確定的な証拠はない。
しかし結果として、この出来事はエリツィン政権内部での評価を大きく変え、プーチン氏が首相へと昇進する流れの一因となったと言われている。
テレビ局の告発、そして閉鎖
一方で、BBCやCNNをモデルとする独立系テレビ局NTVは、アパート爆破事件の検証報道を進めていた。
リャザンの「砂糖説」に対しては、現場からの異なる証言も浮上していた。リャザン近郊の弾薬庫を警備していた兵士が、倉庫内の「砂糖」と書かれた袋を紅茶に入れて飲んだところ、あまりの苦さに吐き出したという。その後の確認で、その中身は砂糖ではなく高性能爆薬ヘキソーゲンだったことが判明する。
大統領選の3日前、NTVはリャザンのアパート住民とFSB幹部を生放送のスタジオで直接対決させた。スタジオには怒りをあらわにする住民と、説明を続けるFSB関係者が並び、緊張した空気の中で議論が交わされた。FSB側は一貫して「すべては訓練演習だった」と主張したが、説明は次第に矛盾を抱え、スタジオの空気は重くなっていった。SB関係者の一人が茶色い紙袋を持ち上げ、「この中に証拠がある。しかし見せることはできない」と発言したが、視聴者の疑念を払拭することはできなかった。
番組が終わると、政府の高官からNTVへ電話がかかってきた。「『この番組のことは忘れない。絶対に許さない』」。NTV局長エフゲニー・キセリョフ氏はその言葉を今も覚えている。
3日後、プーチン氏は大統領選の第1回投票で勝利を確実にした。
就任から4日後、FSBの特殊部隊が迷彩服と黒い帽子に自動小銃という出で立ちで、NTVのオーナー兼創設者であるウラジーミル・グシンスキー氏が入居するビルに突入し、同氏を逮捕した。当局は「税務調査の一環」と説明したが、その措置が政治的圧力として受け止められたことは広く知られている。
グシンスキー氏は後に投獄され、釈放後は国外へ亡命し、ロシアへ戻ることはなかった。その後NTVは事実上国営化され、政権に批判的な番組は次々と終了した。
それでも、疑念は消えなかった。
リャザンの爆発未遂にFSBが関与していたのか。そして仮にそうであれば、実際に発生した一連のアパート爆破事件との関係はどうなのか。
この問いは、後編で描かれる真相追及の中心へとつながっていく。そしてその追跡は、やがてロンドンへと広がっていくことになる。
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英国のポッドキャスト「ヒストリー・ヒット」(3月19日配信)と「ヒストリー・ビューロー」(1月7日―12日配信)をもとに、情報を補いながら再構成しました。
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チェチェンのその後
第二次チェチェン戦争は、プーチン氏が大統領に就任した2000年以降も継続し、2009年にロシア側が終結を宣言したことで一応の収束を迎えた。この戦争によって、チェチェンの独立の試みは事実上潰えることになった。
ロシア軍は第一次チェチェン戦争の失敗を踏まえ、圧倒的な火力による作戦を展開した。その結果、首都グロズヌイは広範囲にわたって破壊され、「世界で最も破壊された都市の一つ」とも呼ばれるほどの壊滅的な被害を受けた。
現在のグロズヌイには高層建築やモスクが立ち並んでいるが、その再建は軍事衝突の終結というよりも、ロシア連邦への服従と引き換えに進んだ政治的安定の象徴とされている。
戦後のチェチェンを実質的に統治しているのは、プーチン政権に忠誠を誓うラムザン・カディロフ氏である。彼は、独立派の指導者であった父アフマド・カディロフ氏が2004年に暗殺された後、2007年にプーチン氏によって首長に任命された。カディロフ政権下のチェチェンは、ロシア連邦内で強い自治権を持ちながらも、中央政権への絶対的な忠誠を前提とする体制となっている。
チェチェン部隊は、ウクライナやシリアなど国外の軍事行動にも投入されており、ロシアの軍事戦略の一部として機能している。かつてロシアと激しく対立したチェチェンは、現在ではプーチン政権にとって最も忠実な軍事的支柱の一つへと変化している。




